2012年1月30日 (月)

「ぼくらの」

 「ぼくらの」という漫画を読んだ。アニメの方は観てないが、少なくとも原作はなかなか良くできている。

 が、設定もストーリーも少々過激で、ブログ化するかどうかずいぶん悩んだ。(そんなことで悩むなとつっこむべからず。まあ、実名も立場も公開しているブログなので、それなりに気をつかって書いているのだ…)

 私は基本的にお涙頂戴物が嫌いだ。特に登場人物が死ぬ話が嫌いだ。そもそも「死」は、ストーリー、プロットに関わりなく悲しいものに決まっていて、登場人物に感情移入させておきながら、その人物を物語から退場させれば、読者は誰だって喪失感を感じるものだ。つまり、たとえそのストーリーで泣かされたとしても、なんだかその涙は空々しいものと感じる。

 「ぼくらの」という漫画は、ググってみればわかるが基本設定はそういう漫画なので、登場人物が次々退場していく。それなら何でブログ化しているのかというと、その中のいくつかのエピソードが本当に良くできていると思うからだ。単なる喪失の物語に終わっていない。

(ここからネタバレ注意)

 お勧めは単行本の6~7巻のエピソードだ。そのエピソードの登場人物の女の子は、ある事情でピアノを弾くことになる。その演奏の出来いかんによって大勢の人々が命を失うかも知れないという差し迫った状況だ。
 その女の子は、見も知らぬ大勢の人々のために自分の命を賭してピアノを弾こうとする。しかし、演奏する指は鍵盤を走らず、次第に彼女は追い詰められていく。
 しかし、絶望的な状況にありながら、むしろそれ故に彼女はそのすべてを自分の運命として受け入れる。悲しい出来事も、楽しい出来事も、たわいもない日常の風景も、友達も、思い出も、自分の身の回りの全てとのつながりを感じ、その中で生きていることの充実感を得る。ピアノを演奏しながら、自らの弾くピアノの音を聞くことによって現実を明視し、その中で生きている自分の姿に、「多幸」を感じるのだ。

 ここからはおまけ話だが、似たような感覚をどこかで味わったことがあると思い、しばらく考えているうちに本年度のアカデミー作品賞候補にもなっている「ツリー・オブ・ライフ」に思い当たった。
 「ぼくらの」で演奏されているラヴェルのソナチネをiTunesで落として聴いてみたところが、その雰囲気が「ツリー・オブ・ライフ」で印象的に使われているスメタナのモルダウの、主旋律が始まる直前の部分に似ている。木の間からちらちらとこぼれる陽の光のような、川面のさざめきに細かな光が乱れ踊るような…。

 「誰かのため」という生き方は現代においても力を失っていない。しかしこの現代社会においては、その言葉はそれぞれの心の奥の方に沈み込んでしまっていて、本当の力が発現されにくくなっている。
 自分の身の回りをただありのまま見つめてみること、そんなたわいもないものこそが、眠っていた様々な価値を心の奥から呼び起こすことにつながる、そう思わせてくれる。


追記

 で、また妄想だが、「ツリー・オブ・ライフ」の監督のテレンス・マリックは、「ぼくらの」を読んでいるのではないかと。足かけ5年以上の月日をかけた制作期間の途中で、大幅な脚本変更があったらしい。「ぼくらの」のそのエピソードが書かれた2007年頃はその時期にタイミングが合っているような気がする。ジャパニーズマンガにはそのくらいの影響力がありそうな気がするのだが…^^;

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2012年1月22日 (日)

鳴り続ける音

 架空の本「時間認識という錯覚」を書く時、「蛇の回転」に視覚面を担当させて、「内的時間意識の現象学」に聴覚面を担当させようと考えている。

 鳴り響くだけの音というのも、よく考えると結構面白い。

 これまでこの「時間意識戯言」で、時間には幅がないはずだと繰り返し語ってきた。(例えばこの記事)。幅がないはずの時間の中で、なぜ我々は思考することが出来るのかと語ってきた。

 同じことが、ただ鳴り響くだけの音についても言える。ただ鳴り響く音、持続する音も、実際には幅のない「今」という瞬間からそれこそ瞬時に立ち去っていくはずだ。なぜ「音が持続している」というイメージを我々に与えるのか。

 オーディオのサラウンドのセッティングをしたことのある人は知っているだろうが、センターアンプの設定によってサラウンドスピーカのディレイ(音の遅れ)を調整することが出来る。極端に音を遅らせると音が完全にずれてしまって音像がぼやけてしまうが、適切なセッティングの時には重なり合っているはずの音が一つの明確な像となり、現実の音以上に生々しい雰囲気を醸し出す。これをスピーカーの構造そのものによって恒常的にやってしまうのがBOSEのスピーカーだ。(実はわたしゃ10数万のセットを持っているのだが、壁の薄いアパートに住んでいるので現在は引退中である…(T.T))

 あれと同じことが、脳の中で起きているのではないか。つまり脳の中の音は、脳の中で重なり合って、幅のない「今」という瞬間に立ち止まり続ける。その音に反応するニューロン群がカラム単位で順に反応していき、ループ反応しながら幾重にも重なり合って、脳の中で反響し続ける。ステレオグラムを一つの像として認識する脳の機能と同じ仕組みによって、脳の中の重なり合う「音」が一つの音として処理され、ひとつながりの「鳴り続ける音」となる。
 脳の中で、「今」と「過去」とが、一つの脈絡ある「現在」として立ち上がるのだ。

 木枯らしのもたらす風の音、車のクラクション、響き渡る歌声、それらを聴く時、我々は「今」と「過去」とを同時に感じとっているのかも知れない。
 

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2012年1月12日 (木)

「動き」は実在するか?

 我々人という観察者は、世界に「視点」を与える存在である。観察者がいない世界には、「視点」が存在しない。特定の「視点」を持たない世界を記述するためには、「無限の視点」を想定せざるを得ない。慣性系は全てそれに寄り添った「視点」からは静止系である。「無限の視点」によって全ての慣性系を静止系と見なすことが出来るなら、世界は静止しているとさえ言える。つまり「動き」は存在しない。「飛ぶ矢」は止まっている。そんな戯言をここ最近の記事で書き綴ってきた。

 屁理屈の連続で言葉遊びみたいになってしまったので、少し具体例でも挙げて考えてみよう。

 ボールを投げることを考えてみよう。テニスボールがいい。ボールは手から離れて遠くへ飛んでいく。ボールは明らかに「動い」ている。これについて、実はボールは止まっていて、投げた本人が全力でバックダッシュしているのだ、などという人はおるまい。

 さて今度は、投げる人に宇宙服を着せて、そのまま宇宙空間に舞台を移してみよう。上下左右近くに惑星なんかのない漆黒の闇の中がいい。ボールを投げると、ボールはやっぱり遠くへ飛んでいく。例え舞台が宇宙空間でも、「動い」ているのは投げた方だなんて言う人はいないだろう。しかし、宇宙空間は足場がないので、投げた反動で、投げた人はくるくる回り始めるかも知れない。そんなシーンを宇宙中継とかで見たことがあるはずだ。

 この「反動」を使って宇宙空間を進むのが宇宙船だ。宇宙船はおしりから爆発物を噴射しながら前進する。言ってみれば、テニスボールを後ろに向かって何個も何個も投げ続けるようなものだ。この辺から既に「動く」のは何なのか曖昧になってくる。宇宙船はその場にとどまったまま、ひたすら噴射物を遠くに投げ続けている?いやいや誰でも宇宙船の方が「動い」ていると考えるだろう。

 さて、宇宙空間でテニスボールを投げる人の方に話を戻そう。今度はテニスボールをだんだん大きくしていく。サッカーボール大でも、まあ「動く」のは人ではなくボールの方だ。一気に話を大きくして、小惑星は?それでも何とか努力すれば投げられそうだ。でも小惑星を「投げた」本人も、小惑星が動いているのか、自分が跳ね返されて飛んでいっているのか自信が無くなっているはずだ。さらに大きくして月はどうか?
 月を頭の上に持ってきて、投げる動作をすることぐらいは出来るだろうが、それによって実際に宇宙空間を「動い」ていくのは、投げた本人だろう。しかし、ひょっとしたら投げた本人は、月を「動か」したと思っているかも知れない。月を投げられたら爽快だろうなあ。

 だがここで、宇宙に絶対的な慣性系は存在しない、という条件が大きな意味を持ち始める。それはつまり慣性運動をしている限りにおいて、その物体が「地球上から見て」静止していようが、光速の10%で走っていようが、本質的な違いはないと言うことだ。宇宙に基準となる座標や、基準となる速度がないというのだから。宇宙の全ての場所、全ての慣性状態で、同じ物理法則が成り立つというのだから。
 月を投げる直前、頭の上に持ってきた月に手を添えたところまでは、月と「月を投げる人」は同じ慣性系上にある。月を「投げた」瞬間、加速による作用反作用が起こって、月と「投げた人」とはそれぞれ反対の方向に「動き」始める。元の慣性系を基準にすれば、月はほとんど動くことなく、「投げた人」が自らの後方にはね飛ばされていることになる。しかし、次の瞬間に月と「投げた人」はそれぞれ異なる慣性系に乗っかる。つまりそれぞれがそれに寄り添う「視点」からは静止系となる。
 だから「月を投げる」という行為は、「月を投げる」または「月にはね返される」のどちらかに決めつけることは出来ない。宇宙全体から見れば、それらはそれぞれ別の「静止系」に分裂しただけだ。

 「動き」は視点をどこに置くかによって決まる。全ての「動き」はそれに寄り添った視点からは、静止している。「動き」は動いている物体自体の本質ではない。一定の「視点」からそれを観察している者の認識の結果に過ぎない。

 我々の日常生活、例えばなめらかにキーボードを打つ指の動きも、慣性と加速の複雑な連なりに過ぎない。指の一つひとつ、さらには我々の体を構成する原子の一つひとつに「視点」を寄り添わせるならば、それは静止している。

 「動き」は人間の認識の結果として存在している。「飛ぶ矢」は止まっている。


追記

 うーむ、ゼノン(飛ぶ矢のパラドックスを考えた古代ギリシャ人)と話がしてみたくなってきた。だれかタイムマシンを発明してくれい。(おや^^;)

 

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2012年1月 8日 (日)

アクセスカウンター

 拙宅「熊男の住処」のアクセスカウンターを、全てのページのアクセスを反映するよう設定し直した。

 「熊男の住処」のカウンターは、これまで表玄関(index)へのアクセスしかカウントしていなかった。「洞穴日記」のカウンターと比べて、アクセス数が少ないのはそういう事情である。(その代わり、私自身のアクセスはカウントされている。連打は出来ず、一時間に一度ぐらいの割合だが。「洞穴日記」のカウンターは私自身のものはカットしてある。「熊男の住処」のは残してあるのではなく、単にカットできないだけなのだが…)

 5年以上前にこのHPを立ち上げた時、「熊男の住処」の「昔書いた物」の内容が、そもそも設置目的だった。命が削れるような思いをして書いた文章を誰かに見てもらいたいというのが本来の目的だったのである。
 ところが、「洞穴日記」の方はあれこれ自由に書いたこともあって、いくつかの記事が検索にかかるようになり、来客も増えてきたが、「熊男の住処」の方はさっぱり状況がわからなかった。

 去年の夏に「熊男の住処」を移転させた時、アクセス解析がおまけでついてきた。それを見ると、玄関を通過せずに直接各ページにアクセスしている訪問者が多いことがわかった。
 アクセス数は盆栽を育てるようなもので、まあ私のような一般人にとっては日々のささやかな楽しみの一つなのである。それで複数ページをまとめてカウントする方法を探してみたが、やってみると実に簡単な方法だった。

 つまり、各ページに表玄関のカウンターのアドレスと同じデータを貼り付け、それを表面からは見えなくするというただそれだけだった。

 数十ページ全てに貼り付けるのはそれなりに手間がかかったが、なんということはない作業だった。もちろん自分で気がついたわけではなくネットの力を借りたのだが。私が悩む程度のことでネットに答えが載っていないものなど無さそうだ。

 本家「熊男の住処」の方は最近更新が滞りがちであるし、少しはかまってやる動機付けぐらいにはなりそうだ。

追記

「熊男の住処」のカウンターは引っ越す前と同じものを使っているのだけど、引っ越す前は自然にサイト全体のアクセスを反映していたのではないかという気もする。niftyに確かめればわかるだろうけど、まあそこまではね…(´・_・`)

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2012年1月 7日 (土)

飛ぶ矢のパラドックス

 「飛ぶ矢のパラドックス」は、「ゼノンのパラドックス」の中の一つです。
 飛んでいる矢は、瞬間、瞬間を捉えれば止まっている。止まっている状態を速度0とすれば、瞬間をどんなに積み重ねても、つまり0にどんなに大きな数字を掛けても0でしかないから、飛んでいる矢は実は止まっている(?)という謎かけみたいなものです。

 最近、私がこのカテゴリ「時間意識戯言」で語ってきた内容から、こんなふうに言えそうですね。
 慣性運動しているものに視点を寄り添わせてしまえば、静止系と変わらなくなる。つまり飛んでいる矢も、それに視点を寄り添わせてしまえば、実は止まっているのと変わらない。(その場合離れたところから矢を観察している人物を含むところの宇宙全体が動いていることになりますが…)

 つまり、「動き」というのは動いていると思われる物体と観察者との相対的な関係に過ぎないのだと。

 そういう理屈を並べられても、目の前を矢が飛んでいると、「いやこれ、どんなふうに屁理屈を並べられてもやっぱり飛んでいるよ…」と感じてしまうから、なぜ我々の脳はそれを「動き」と感じてしまうのかという話になっていくわけですな。(たぶん…)

補足

 「動いている物体」に視点を寄り添わせること自体が、瞬間を積み重ねるということと明らかに同義ですね。

追記

 つまりここで語っているのは、子供の頃に学習したガリレオの相対論を、ちょいと応用しただけですよね。言い換えただけというべきか。それなのになんだかだれも言っていないことのように感じてしまうのが不思議です…。たぶん上に書いたように、「そんな屁理屈並べたって、動いているものはやっぱり動いているよ。ほら見てご覧。」というところで止まってしまっているんでしょうけど。だとしたらこの「時間意識戯言」にはそれなりに意味があるということになりますから、その方が良いんですけどね。

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2012年1月 3日 (火)

世界に視点を与えるもの

 観察者のいない閉じた宇宙の中では、あらゆる慣性系が静止し、加速系でさえもエネルギー保存則の観点からはなにも起きていないに等しい。そんなふうにちょっと前の記事に書いた。(ツイッターだったかな書いたのは…)

 我々は永遠に揺れ続けるだけの宇宙に浮かんだ、チリのようなものかも知れない。だがこのチリは世界に視点を与えるという決定的な働きをする。

 我々が「視点」を世界に与えることで、時間が生まれ、方向が生まれ、関係が生まれる。そして我々は、互いの「視点」をつなぎ合わせることで、認識可能な「現実」を互いに共有し、その中で肩を寄せ合って生きている。だから我々の心は、世界や、他者の心とつながりあっている。つながることが「現実」を創り出し、人の心を創り出している。

 我々の心が世界や他者とつながりあっている点については、ここで断るまでもないだろう。今日の天気、気温、音、声、食べ物、時間、親、友達、そしてこれまでに経験してきた全てのこと。我々の心はそれらの影響を受け、変化しながら揺れ動いている。

 最初に「世界は閉じた宇宙の中で静止している」と書いた。もしこの戯言が戯言ではなかったとしたら、我々の心も宇宙全体という視点では静止しているのだろうか。エネルギー保存則が示すように、心や、それが生み出す我々の行動の一つひとつは、我々を含む「系」全体という視点で見れば、実は何も起きていない幻のようなものなのだろうか?

 もちろん答えは否だ。
 我々の心が世界に「視点」を与えた瞬間に、世界は全体の単純さから局所的な複雑さへと性質を変化させる。我々が世界に与える「視点」が局所的なものであるからこそ、それらの視点は背後に無限の接続可能性を生み出す。つまり我々の心は無限の「自由」を持っている。(と私は信じている)

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道具は手足の延長

 道具は手足の延長である。これは例え話ではなく、脳の機能的にもそういえるのだといったような話をどこかで読んだような気がするが、実際これを実感できるのが車の運転である。

 誰でもそうだろうが、車は乗り慣れてくると自分が歩いたり走っているのと同じような感覚でコントロールできるようになる。あれこれ考える必要もなく手足が車の動きに連動して勝手に動く感じだ。車の動きが先なのか、自分の動きが先なのかわからなくなるぐらいだ。

 そういった車との一体感という点では、オートマよりマニュアルの方が圧倒的に上だ。エンジンのうなりを聞きながら、自分のねらった方向、自分のねらったスピードになるよう、アクセルを踏み、クラッチを落とし込む。単にハンドルを切るだけが車の運転であるはずがない。(当たり前だが)

 それだけ車と感覚的に一体化してしまうと、自分の体調が車の動きにも影響する。うちの赤い車はスポーツカーとしては操りやすい方だとは思うが、それでも今時の車から考えれば遊びは少ない方だろう。それで乗り手の腰の状態が完全でないと、とたんになんだか走りがぎくしゃくし始める。

 というわけでようやく、運転が楽しくなってきた。休みの間中腰の調子が悪かったのは、まあ家で静かにしておけということだったのだろう。通勤の30分でさえ楽しい車なので、せっかく治った腰は椅子に長時間座るために使ってやるつもりだ。
 

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2012年1月 1日 (日)

一年の計は元旦にあり

 たまには日記らしいことを書いてみる。というわけで「計」一覧。
(※ 真面目にやって当たり前の仕事関係は「計」に入れていません。)

一、テニスの県ランキングポイントをゲットする。
 (いきなりそれかい。まあ無理でしょうけど…)

二、本を二冊書く。
 (一つは例の「時間認識という錯覚」。ブログのコンピ本です。全面的に書き直しますけどね。あとは国語教育関係本。)

三、結婚する。
(おお…ってお前何歳だという話ですが^^; まあ諸事情で今年も無理っぽいですけどね。自分で選んだ生き方だから仕方がない。)

 それぞれ身の程知らずの大言壮語なので、三つで十分でしょう。
 このブログをいつもご覧になって下さるみなさん、今年もよろしくお願いします^^

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2011年12月31日 (土)

年の瀬に自らの戯言を振り返る

  私の最大の関心事は「こころ」だ。「こころ」に興味を持ったために、「言葉」に興味を持ち、「国語」という学問に興味を持ち、さらには人の心を対象とする学問である「教育」へと興味を広げていった。
 それがまた「記号論」や「現象学」への興味につながり、自分の意識の根っこにある「原的な直観」について考えているうちに、目の前を流れている「時間」に興味を持った。
(十数年前に現象学関係の文献を漁っていた時に「内的時間意識の現象学」を読んでいる可能性が高いが、当時は修論の引用に使えるかどうかが読書の基準だったので、印象に残っていなかったのだと思う。)

 ある時期私は、よく夢想していた。「今考えている自分の『考え』は、考えている最中にも過ぎ去っていく。なぜひとつながりの『考え』として認識できるのか」と。「なぜ瞬時に消えて無くなるものに対して『過ぎていく』という認識を得ることができるのか」と。だからコンビニで買ってきた「ステレオグラム」の本を眺めていて、ふとこの「時間意識戯言」を思いついたのは、決して偶然ではなかった。最初から私の興味の中心にあったのだ。

 それで、「時間は存在しない」という論がないかどうかあれこれ探ってみた。最初はその程度の情報さえ手に入れていなかった。
 「相対性理論」や「ポアンカレ予想」に興味を持ったのも、それが「時間とはなにか?」という問題につながる可能性を感じたからだ。特に「ポアンカレ予想」については、それを解いたペレルマンに対する興味から、「これは何かある」と思った面もある。それほどNHKの「ポアンカレ予想」についての番組が怪しい内容だったということについては、前に書いた通りである。

 科学雑誌「ニュートン」の今月号(2月号)に「三次元球面」に関する特集が載った。私が書いてきた通りの内容であり、私の「戯言」が「戯言」ばかりではないことが証明されたわけだが、何かを手に入れたという感じではない。そもそも先に書いたように「ポアンカレ予想」に興味を持ったのは、「時間が存在しない可能性を示す何らかの発見があったのに、その情報が一般に広がることが何らかの理由で制限されているのではないか」という妙な思いこみがあったからだ。繰り返すが、それほどNHKの「ポアンカレ予想」特集は怪しい番組だったのだ。

 そういったばかげた思いこみはともかく、様々な書籍、そして日経サイエンス別冊『時間とは何か?』によって、「時間が人の認識の結果としてでしか存在しない」という論が既に存在することを知ることができた。そもそもそれを知ることが目的だったのだから、これ以上「相対性理論」や「ポアンカレ予想」に対して、その是非や扱われ方についてあれこれ批判めいたことを書く必要が無くなったわけだ。

 それでも、光速度不変の原理によって時間が変化するというのは論理的に矛盾しているとか、宇宙の形が三次元球面であることを認めてしまえば話がシンプルになるとか、ヒッグス粒子が「質量」の基になるのなら宇宙空間における等速慣性運動はことごとく減速運動に変化してしてまうはずだとか、余計なことを書きたくなってしまうのは、まあ性格なのだろう。

 ただ、最初に述べたように私の興味は「こころ」にある。もちろん「こころ」について語る話に、「現実」とはなにかという問題が無関係なはずがない。しかし、観点の置き所を間違ってしまうと、趣味とはいえ自分の人生の貴重な残り時間を浪費してしまうことになりかねない。

 つまりはやるべきことをやれと。この数年繰り返し自問し続けてきたことだが、来年こそはそれを実行したい。おそらくこれまで躊躇してきたのは、それを実行することで「夢」という永遠が崩れ去ってしまうことが恐いのだろうが。

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2011年12月28日 (水)

無限の絶対的な慣性系-光速度が慣性の影響を受けない理由-

 ツイッターでも時々書いていたように、最近暇な時にぼんやり「観察者のいない現実」について夢想していた。
 もしこれまで語ってきたように、我々の脳内のニューロン群の発火深度の差がステレオグラム的に融合して「時の流れ」を我々に認識させているのだとしたら、我々の脳を介さない現実は一体いかなるものと言えるのだろうと考えたのだ。

 そうするとどうしても「視点」という問題を避けることが出来なくなった。

 我々の脳を介さないと言うことは、単に「時の流れ」を認識する主体が消失するにとどまらず、世界のどこにも「視点」が存在しないということになってしまう。
 我々が認識する世界は、それがどんなものであれ必ずある視点からのものだ。我々一人ひとりが見ている世界については言うまでもなく、写真はカメラからの視点であり、漫画でさえもある一定の視点を想定して書かれている。

 そうこう考えているうちに、視点が存在しないと言うことは、逆にありとあらゆる場所に視点が存在するに等しいと気づいた。特定の視点が存在しない以上、「観察者のいない現実」を記述するためには、無限の視点を想定せざるを得ない。その「無限の視点」とかいうものを我々の脳が果たして認識可能かどうかについてはとりあえず置いといて、そのまま思考実験を続けていった。

 そこまで考えたところでちょっと前に私自身が「相対性理論」について書いた記事の内容を思い出した。私はそこで、「絶対的な慣性系が存在しない以上、観察者の目の前の物体の動きが、静止している観察者から見た動きであるか、動いている観察者から静止している物体を見たものか、そのどちらかに決めつけることは出来ない」と書いた。(ここまではまあごく一般的な考え方だと思うのだが…)

 そこで、「無限の視点」について考えてみるとなんだか奇妙なことになってきた。観察者の視点を外した「無限の視点」は、つまりありとあらゆる慣性系に寄り添っていることになる。そしてそれらの慣性系は、寄り添っている視点から見れば全て静止系である。静止系であるからには「動き」はなく、「動き」によって生まれる時間も存在しない。(ここで当然それでは加速系をどう考えるかという問題が生まれてくるが、それはまたの話と言うことで^^;)
 つまり等速慣性運動を続けている限りにおいて、観察者がいないという条件下で、すべての物体は静止系と見なすことも可能だということになる。つまりそれは何も起きていないということだ。

 実に奇妙な結論だが、「三次元球面」宇宙では、それもありなのかなと思った。「三次元球面」とは宇宙の果ての全てが逆の方角の宇宙の果てとつながっているという考え方で、例のポアンカレ予想でペレルマンが数学的に証明したというあれだ。「三次元球面」においては、宇宙の全ての場所が、宇宙の中心と言うことになる。(これについては以前この記事で書いた。)
 全ての場所、全ての慣性系が宇宙の中心であるということになると、ありとあらゆる存在が静止系であるという発想もそんなに違和感はないかな、などと考えている途中でふとある法則を思い出した。
 光は慣性系の影響を受けず、常に一定の速度を保つ。例のアインシュタインの相対性理論の基となった「光速度不変の原理」である。
 光は地球上でその速度を測ると、南北で計測しても東西で計測してもその速度が変化しない。地球は太陽の周囲を公転しているから、その影響が出るはずなのに全く数値には表れない。つまり「光速度不変の原理」は、単なる理屈ではなく、実験によって裏付けられた事実である。なぜ光がそのような奇妙な振る舞いをするのか明らかにされないまま、その実験結果だけが絶対的な真実として、相対性理論の論理基盤となっている。

 そこでまた戯言を思いついた。

 光の速度が一定なのは、地球自体が一定の慣性系に属しているからであり、それはこれまで述べてきたように静止系と見なすこともできるからだ。静止系に右も左も東西南北もない。同じ慣性系に属する装置によって測られた光が慣性系外の条件にかかわらず一定の速度を保つのは当然であると。

 何の本だったか忘れたが、こんなことが書いてあった。コペルニクスの惑星の軌道モデルはシンプルで説得力があるが、プトレマイオスのモデルも複雑なだけであって一つの考え方ではあると。つまり視点をどこに置くかが問題なのであって、どれが間違っていてどれが正しいのかを決めつけることはできないのだと。非常に興味深い提言と感じる。


追記

 内容が内容(無いよう)ですし、削ってしまう可能性が高いです^^;
 でもおもしろがってあれこれ夢想してます。頭の体操ですね。こういうばかげたことを考えて、それであれこれネットを参考にしたり本を読んだりするのは、まあ老人のささやかな楽しみといえましょう。
 最近、それじゃあ「加速系」ってなんなんだろうという考えにはまりつつあります。(おい)

追追記

 この記事の理屈だと、光の速度はそれぞれ相対的に異なっているはずということになりますね。赤方偏移や青方偏移を起こしている光の速さの測定は行われているんですかね。それらの色の変化は光速度の変化によっても引き起こされるような気がするのですが、単に私の勘違いかな?^^; まあ厳密に測るためには巨大な観測装置を宇宙空間に作らなければならないでしょうけど。
 赤方偏移が引き起こされる理由はいろいろ可能性があるようですが、青の方は光を発する対象が接近しているという以外の理由はなさそうですし、なんだか面白い結果が出そうな気がするのですが…
 同じ条件で、青方偏移を起こしている光(我々に接近する慣性系上で生まれた光)と人工的な光(我々が属する慣性系上で生まれた光)を比較すればいいのだから、実現可能な気もしますが。
 

 

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2011年12月24日 (土)

身勝手な提案

 TVレコーダーとタブレットは間違いなく相性が良い。だから家電品各社が自社のTVレコーダー専用のタブレットを販売しているのはまあ、当然の販売戦略だとは思う。

 しかし、愛用のタブレットは一つあれば十分で、逆に一つだからこそそれを手元に置いておこうという気になるのだと思う。だからiPadのハードユーザーであると同時に映画マニアでテレビもよく見る私みたいな人間にとっては、それらの趣味を同時成立させられないことが非常に残念なのだ。

 それで身勝手な提案なのだが、少々値が張っても良いから、iPadでTV及び録画映像を見られるようなアプリを出してもらえないものだろうかと。多分それを実現したメーカーのレコーダーは、iPadユーザーから絶大な支持を受けると思うのだが…。(少なくとも私は速攻で買う)

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自由否定

 人の脳では、何か動作したり意志決定する0.5秒ほど前に、既にそれに関係するニューロンの発火が始まっているということが実験的事実としてあるらしい。それに関連して、「人には本当に自由意志があるのか」という論議をあちらやこちらで目にしてきた。なぜそんなことにこだわるのかさっぱりわからなかったのだが、最近ようやくその一面ぐらいは理解できたような気がする。

 私は理屈で説明できないことの一切を信じない。人が認識可能な物事の全ては理屈で説明できると信じている。だから「人が自分で決定したと思っている『意志』は、実は自分以外の何かからもたらされたものである」という理屈に納得しない。唯、脳、のみがあると信じている。

 池谷裕二さんの『単純な脳、複雑な「私」』に次のような記述がある。

「準備ができたから行動したくなるんだけど、一般生活では何かをしたいと思っても、それをしないということはできますよね。つまり、〈しない〉ことを決める意志は、人間にはまだあるんじゃないんですか。」(P281)

 何かの動作を行う時に、脳の特定のニューロンが選択反応的に発火すると考えるから、0.5秒前の「発火」に説明がつかなくなる。
 何かの動作を行う時、それに関連するニューロン「群」の発火は相互に刺激しあってループ反応を起こしながら、準備状態に入る。つまり、我々が何かの動作を起こす時、予備動作とその決定という二段階の「ニューロン群の発火」があると考える。
 そのようないわば特定動作の待機状態を可能にするためには、予備的なニューロンの発火が一定以上の時間持続している必要がある。本カテゴリ「時間意識戯言」の「ニューロン群のループ反応(旧ハウリング)」という考え方は、そのような状態を説明するのに都合が良いはずだ。

 動作・判断の0.5秒前に起きる脳内のニューロン群の発火については、「自分の意志」という言葉で単純に説明できないのはわかる。その瞬間の周囲の環境の影響や、彼の深層心理、直前に経験したこと、その日の気分等々様々な影響を受け、おそらく脳の中には、次の瞬間に取るべき未来の動作が可能態として複数存在しているはずだ。
 それら全ての可能性としての未来は、脳の中で複数のニューロン群のループ反応という状態で維持される。脳の中にニューロン群のループ反応という輪ゴムが複数引っかかっているようなものだ。それらの輪ゴムは人の「自由意志」によって「自由否定」され、ほとんどが脳から取り除かれる。その結果として「実際に行う動作」というたった一つの輪ゴムが決定されるのを、脳は0.5秒間待っている。

追記

 「ループ反応」という言葉自体、実は池谷裕二さんの著述から借りたものです。もとは「ハウリング」という名称でした。
 そもそも「ハウリング」は、同一の刺激に反応するニューロン群のずれがステレオグラム的に融合して時間が流れているという認識を作り出す時、その認識が安定するためには一定の「ずれ」が持続していなければならない、という発想から生まれたものです。池谷さんが、なぜ、「ループ反応」というニューロンの状態を想定したのかについては、まだそれを説明した文章に出会っていません。案外と今回私が書いた内容に関連があるのかも知れませんが。

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2011年12月 6日 (火)

時の始まり

 前にこのブログで、外からの刺激だけでなく、我々の意識そのものが我々に時間を認識させていると書いた。そうでなければ無音室で電気も消して、全く刺激の無い状態にしてしまったら、すぐさま時の流れを感じなくなってしまうことになる。人はそういう環境では長時間意識を保つことは難しいらしいが、少なくともすぐさま時の流れが止まるなどということはないはずだ。何か考えていれば、その考えそのものが時間の流れを意識させるだろうから。
 そこから逆に、言葉という「音」に反応するニューロン群が、脳味噌の中でループ反応し続け、それが持続的に人に時間認識を与えていると推測した。すなわち人の意識は時間意識そのものであると。

 そこからさらに推測した。時間意識の始まりは、むしろ言葉の獲得、すなわち「音」のループが最初の引き金なのではないかと。

 人はこの世に生まれ出た時、音と光の洪水の中に投げ出される。ソシュールが「星雲のような」と形容した、あの認識以前の混沌だ。

 そこに一定の刺激が繰り返され始める。
 それは音だ。
 その音は、特定のニューロン群を一定のリズムで刺激し続ける。
 そしてついにそれらのニューロン群は自律的に反応を始め、互いが互いを刺激し合いながらループ反応し始める。
 外界からの刺激無しで、脳の中でその音を繰り返す。
 その音はそもそも人間特有の器官から生じたものなので、脳の中の音をその器官を通じて再現することが可能であることに自然に気づく。というより、その音に反応するニューロン群がループ反応することそのものが、その器官の動作ニューロンを刺激するはずだ。
 そうやって脳の中の音は、外界に発信される。
 「ママ」「パパ」と。

 それがきっかけになって、視覚その他の様々な感覚器官からの刺激に反応するニューロン群が次々にループ反応を始める。

 「時の始まり」である。それは同時に「意識」の始まりでもある。


追記

 おそらくニューロンのループ反応は最も単純かつ日常的なものから始まっただろうなと考え、視覚か聴覚かと考えているうちに、こういう発想にたどり着きました。まあいつもの通り根拠の欠片もない話なので、読み飛ばしてやって下さい。
 そういえば最近ツイッターか何かで、視覚と聴覚は連動しているという記事を読んだような気が…。

追追記

 人の声帯によって作られる音は、自然界の音と比べても一定の周波数を持続できる点に特徴があるような気がする。つまり、特定のニューロン群を一定時間刺激するのに適しているのではないかと。人はそれを自分で声に出してみることで、ニューロン群のループ反応を自己強化できる。

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2011年12月 4日 (日)

「時間認識という錯覚 -2500年の謎を解く-」

第1部 2500年に渡る謎
   1「現在」には幅があるか?
   2 ゼノンのパラドックス 
   3 フッサールの時間論 -内的時間意識の現象学-
第2部 時間認識という錯覚
   1「今」と「過去(残像)」の融合 -ステレオグラム的時間意識-
   2「蛇の回転」はなぜ動く?
   3 ニューロンが作り出す時間の幅 -ニューロンのループ反応-
第3部 意識の実体 -言葉という音楽-
   1 なぜ我々は幅のない時間の中で思考できるのか?
   2 言葉と音楽の共通性
   3 意識の実体 -時間認識という自己意識-
第4部 謎が開く扉
   1 観察者のいない現実
   2 人工知能はなぜ作れない?
   3 時間認識という原的な直観


(注)架空の本の章立てです。うっかり本当に書いてしまうかも知れませんが…。

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2011年12月 3日 (土)

"Now" that is eternity existence

Shigeki Noya who is a Japanese philosopher writes it to the textbook of the senior high school as follows.

Our sight shows so "the color" not the property of the object. If we observer disappears, the thing loses the color. The world is originally colorless, and the color is our nature that eyes show.

It seems that it is similar about "time".

I told that recognition of time was created because a difference of the ignition depth of the neuron harmonized like a stereogram. If this is true, "time" flowing through our very front is "time" only for we human beings. If there is none of we human beings in this world? May it be said that "time" flows?
Of course the world around us changes even if there are not us. Wind blows, and the rain flows, and the rock collapses. However, may it be said that the world where there is not a human being recognizing the state is the same as the world that we recognize now?

In the world that continues shaking with symmetricalness, only we human being may find "the flow".

(12/31,2010)

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2011年11月30日 (水)

タイヤ交換

スリップサインが出るまでにはもう少し余裕があったが、持ってもあと半年と言われたので、あっさりタイヤを交換した。

  ロードノイズが少し大きくなってきたかなとは感じていた。もともとバイクが好きだったので、ノイズは大きい方がむしろ気持ちいいぐらいだ。それでもパンクとか操舵不良とかでは本末転倒なので、迷うことなく交換を決めた。

 ノーマル状態の乗り味は気に入っていたので、元のタイヤと全く同じ物を注文した。
 新しいタイヤを履いてしばらくはハンドルが重くなったなと感じていたが、しばらく乗っている内にタイヤが一皮むけたらしく、ハンドルがすっと切れるようになった。
 ロードノイズは確かに減ったが、その分エンジン音が澄んだ響きになって心地良い。そういえば最初はこんな感じだったなあと、新車の時の感覚を思い出した。

 乗り始めて2年、走行距離3万キロ弱。エンジンもサスもまだまだ新車時から変化した気はしない。通勤の30分間でさえ楽しい。今年の冬はどこまで走っていこうか。

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2011年11月27日 (日)

紅葉

 紅葉の見ごろマークが出ていた岡城にいってきた。

 駐車場から城へ登る道の途中からちらほら赤い紅葉が目に入り始めたが、まだ心の中の「感動スイッチ」が入るところまではいかなかった。最初から「名所」として定評のあるようなものを観る場合は、「スイッチ」に手をかけた状態でいつでもカチッと押せるようにしておく。しかし、城の中心部あたりまではまだそれは完全には入りきっていなかった。エンジンのセルモーターが何度か回ってもプラグがなかなか発火しないような感じか。

 城の一番奥に長い一本道がある。そこまで来た時自然にスイッチが入った。
 色の洪水である。
 紅葉はいろんな種類が混ざっている方が美しいと気づく。

 桜のピンク一色の美しさも素晴らしい。その下に死体が埋まっていても、さらわれてきたお姫様の心が壊れてしまっても、仕方がないとさえ思われる美しさだ。

 しかし、岡城の最深部の一本道の、この美しさはなんだろう。
 ちょうど曇り空から少し日が差して、紅葉の重なり合いがぼおっと淡い光を放ち始める。紅葉の黄色や紅色に青葉のほんの少しの緑が混ざって、一面のパステルカラーだ。おそらく誰しも印象派の絵画のあの配色を思い浮かべるに違いない。例えばルノアールの。

 紅葉の木々が作り出すほの暗いトンネルの向こうの出口が妙に赤い。木々のトンネルがとぎれた場所の正面に真っ赤なカエデが植わっているのだ。城の側から見ると、その木だけは陽の光の当たる面が見えているため、そこだけ輝いて見える。

 黄色と紅色と緑色が作り出す、ほのくらいパステルカラーのトンネルの奥に見える、真っ赤な出口。
 
 こんな美しいものが自然に出来るはずがないとふと気づく。数百年以上に渡る長い時間の中、繰り返される四季の中で、おそらくは少しずつ少しずつこの庭は造られたのだろう。周囲の山々から、あの木をこの木をと、それらが作り出す色のコントラストに想像をめぐらせながら。

 数十年、数百年の時を経なければ手に入れることが出来ない自然とのコラボレーション。それが数百年の時をもてあました権力者のささやかな趣味に過ぎないものであったとしても、むしろだからこそ、「名所」の自然は美しいのだと思う。

 
 

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2011年11月20日 (日)

別冊日経サイエンス「時間とは何か?」

 ずいぶん前からこれの感想を書こう書こうとツイッターでつぶやきながら書いてなかったが、ようやく書く。

 いくつか引用してみる。

これまでのところ、脳に時間を扱う特定の領域は見つかっていない。視覚野に相当するような『時間野』は見つかっていないのだが、将来は時間の経過という意識を担う脳内プロセスが特定されるかもしれない。時間の経過という心象を抑制する医薬品も考えられる。」(P17、日経サイエンス2002年12月号の記事)

「空間は時とともに変化しうるが、空間の形が全て等価だとするなら、実のところ空間は決して変化しないことになる。」(P20、2002年12月号の記事)

「理論物理学者の多くが、時間というものはそもそも存在しない、と考えるようになったのだ。」(P24、2010年9月号の記事)

「この世界が本質的には時間のない世界だとしても、時間というものが一見、存在するように見えるのも確かだ。なぜこの世界が時間で動いているように見えるのか。これを説明するのは、時間のない量子重力理論の支持者にとって、火急の問題となっている。」(P30、2010年9月号の記事)

なんにせよ、様々な分野で「時間」に対する関心が高まってきており、なおかつ人の認識という点ではまだだれもそれを解いていないというのであれば、この「時間意識戯言」はひょっとしたらそれなりに価値を持つかも知れないと妄想を抱いてしまうのは、仕方のないことだと思う。


追記

 「時間認識」「時間意識」で検索すると一億件中の10位前後で「洞穴日記」が出てきます。最近は「time consciousness」や「internal time consciousness」で、北米Googleでも「A mystery of the time consciousness」がじわじわ上位に入り始めました。北米Yahoo!でもいくつかの記事がかかり始めました。まあ、盆栽を育てるようなものですな。そのくらいの楽しみがなくちゃね。人生には。

 

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2011年11月18日 (金)

滝の流れ、時の流れ

 一ヶ月近く前の話だが、紅葉が観たくなり、ネットで調べて見ごろマークがでていた陽目渓谷というところに行ってきた。竹田の南、熊本近くまで山道を走ったところにある渓谷である。

 紅葉も美しかったが、「白水の滝」も美しかった。水量の多い時はしぶきが数百メートル先まで届く、と看板に書いてあったが、本当にそのくらいの迫力があった。

 十メートル以上はありそうな高さから落ちてくる滝を見ながら、例によって「時の流れ」のことを考えていた。大体最近は外出する度に、あちこちの風景を眺めながらそんなことを考えている。

 落ちてくる水の塊は、もちろん激しく流れている。一瞬もとどまることはない。
 しかし、自分が書いてきた「時間意識戯言」の内容を反芻しているうちに、なんだか滝の流れも奇妙な動きに見え始めた。はっきり言えば、止まって見えるのである。
 止まって見えるといっても、滝が凍りついたように動きをとめる、ということではもちろんない。そんなふうに見え始めたら、最初に自分の脳味噌を疑う。

 これまで「時間意識戯言」で私は、我々は日常的に脳の中に残像を作り出しているはずだと書いた。その残像によって目の前の風景が手ぶれした写真のようにぼやけて見えないのは、右目と左目それぞれから入ってきた映像を脳内で合成しているのと同じように、複数の残像を脳内で一つのものとして処理しているからではないかと書いた。そして、視界の中央の視覚情報は特に強く合成されて明確な輪郭を持つ一つのものとして認識され、その一方で視界の周辺部は比較的合成力が弱く、その分動きを感じ取りやすくなっているのではないかと書いた。

 滝の水は普通に眺めている時には、かすれて見える。そのかすれは、私には単にピントが合っていないだけでなく、「脳の中の残像」が重なっているためにぼやけているように感じられた。
 ところが落ちてくる水の動きに、焦点を絞って視線を同調させて動かすと、水の塊の一つひとつがくっきりとした輪郭を持ち始める。それはその瞬間瞬間に空中に止まっているかのように見えたのだ。そこには残像の欠片も感じられなかった。その代わり滝の周囲の風景が、強いかすれを伴いながら「流れ」始めた。そこに明らかに残像の発生を感じた。

 「時間の流れ」を作り出す脳内での残像のステレオグラム合成。我々はその合成の強弱によって、目の前の光景に時に「流れ」を感じ、時に擬似的な「絶対的な慣性系」を感じ取り、それらの微妙なバランスの上に「現実」を認識しているのかも知れない。

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2011年11月 5日 (土)

THE MOTION PARADOX

I read this book.
The Motion Paradox: The 2,500-Year Old Puzzle Behind All the Mysteries of Time and Space
(Joseph Mazur)

Zeno is the person whom young Socrates met. The various paradox that he left is not solved in the essential meaning up to now.
"The flying arrow" is particularly interesting in that. "The flying arrow" stops if I observe it every moment. If a flow of time is the accumulation of the moment, "the flying arrow" is accumulation of the stop motion likewise. Because it is 0 even if it repeats 0 no matter how much, it is stop motion even if it accumulates stop motion no matter how much. This is "the paradox of a flying arrow".

This is a way of thinking against common sense. Because we know that "a flying arrow" really moves. However, this paradox was not solved in the essential meaning more than 2000 years. The author who is a professor of the mathematics comments on the history of this paradox in this book intelligibly.

I try to quote some interesting descriptions.

"a thing cannot be and not be at the same time "(P25)
"Zeno is presuming that if a white obiect were changing to not-white in a period of time divided into two intervals-A, during which it is white, and B, during which it is non-White-then there must be some instant C when it is both white and non-White;in other words,we are left with the devilishly perplexing contradiction that C belongs to both A and B."(P40)

"The time consciousness of the stereogram" can solve this paradox. Husserl said that there was "the past" at the same time "now". Plural neuron group reacting for the same stimulation has different action potential in a brain. They harmonize like a stereogram in our brain and let us recognize "a flow of time". This thought solves "the paradox of a flying arrow".

The author talks in the most last chapter as follows.

"How is it that a rapid succession of still images is construed as a moving picture seamlessly flowing in time ? "(P214)
"continuity is merely a conscious impression, a fabrication of the mind elevating illusion to reality. "(P216)

I can explain "the paradox of a flying arrow" in the recognition of the person at least.

(12/30,2010)

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