2018年1月21日 (日)

シリコンドロップが作り出す「定在波」はクォークが球状の波であることの証拠になる

 あれやらこれやらで、最近刺激の多い人生を送っている。そういうときは創造性が高まるのを経験上知っていたので、くるぞくるぞと期待していた。期待通りで、電磁気学を始めとしてアイディアが頭の中から湧いてきつつある。

 「時間認識という錯覚(増補版)-時間の矢の起源を求めて-」は、ようやく初校が送られてきた。スケジュール的には一ヶ月遅れだが、なぜだが出版社の担当者さんが、4月刊行予定のとろこを3月中に出してしまいたいと申し出てきた。「3月は出版関係が活性化するから」とかいう話である。
 去年の8月に原稿を送って以来、首を長くして刊行を待っていたから、急展開でむしろうれしいぐらいである。それで、最近のアイディアを追加しようかと迷っていたが、発展の余地があるのも悪くないかと内容を追加するのは見送りにすることにした。

 ただし、題名にもなっている「シリコンドロップダンスが作り出す定在波はクォークが球状の波である証拠になる」は、「増補版」に組み込むべき内容だとは思う。

 シリコンドロップダンスというのはこれだ。

 「増補版」でも話題にしているのだが、シリコンのひとしずくを振動するシリコンの平面に落とすと、しずくは平面に接することなく、空中でダンスを始める。これを私は斥力の存在を示すものだと論じているが、そのしずくを中心に、接していないはずのシリコンの平面に、「凍りついた波」が浮かび上がるのだ。「増補版」を書いていた時には知らない知識であったが、これは「定在波」と呼ぶべきものであろう。(『量子論はなぜわかりにくいのか』吉田伸夫(技術評論社)を呼んでいて、その波の存在を知った。まだP25までしか読んでいないのだが…)

 「定在波」は、同じ波形の引き波と押し波が重なり合ったときに生まれる。

ウィキペディアの「定在波」のページ

 本ブログの「戯言パラダイム」、そして3月刊行予定の「増補版」で私は、クォークを「空間の球状の波」としている。そして陽子内部の三つのクォークが順番に伸縮する様子が「陽子の(擬似的)スピン」の正体であると論じている。つまり陽子内部では、伸張状態にある「波」と、収縮状態にある「波」が同時に存在することになる。
 シリコンのような単純な分子構造の陽子群は、共振を起こしやすいはずだ。膨大な数の陽子がシリコン内部で共振しながら、シリコンドロップの周囲に空間それ自体の「引き波」と「押し波」を作り出す。そしてそれが「定在波」を生む。

 既に初校を校正して送り返した「増補版」で私は、「凍りついた波は、押された波が間髪入れずに引かれるので波の形を止め続ける」と表現したが、「定在波」を使えばあっという間に説明できる。完全に「凍りついた波」に見えるのは、引き波と押し波が断続的に繰り返されることによるのだろう。

 むしろ、シリコンドロップの周囲に定在波が生まれていることは、陽子を構成する三つのクォークの正体が、空間の球状の波であることの決定的な証拠と言えるのではないか?

補足

「定在波」は波が拡散せずにその場で上下するものだが、シリコンドロップの作り出す「波」は山と谷がそのままで「凍りついた」ように見える。本ブログの戯言パラダイムでは、陽子を構成する三つのクォークが短い周期でタイミングをずらしながら伸長と収縮を繰り返すというものだ。つまり引き波と押し波も短いスパンで断続的に繰り返されることになる。そういう二つの波の合成としての「定在波」は、山から谷、谷から山といった変化をする間も無く、引かれた最初の瞬間、押された最初の瞬間の合成としての山と谷の状態を保ち続けるような見かけになるはずだ。

| | コメント (0)

2018年1月10日 (水)

戯言パラダイムで「光電効果」を読み解く

 光電効果というのは「金属に光を当てると電子が飛び出す現象」である。

 この現象を光が粒子である証拠であるとして、「光量子仮説」を作り上げたアインシュタイン(もちろん相対性理論の人)は、それによってノーベル物理学賞を獲得している。(つまりアインシュタインのノーベル賞は、相対性理論に対して贈られたものではないのだ。)

 さて、このブログの記事であるからには当然「戯言パラダイム」に基づくものである。つまり(まだ)一般性は獲得していないのでそう思って読んでいただきたい。

 一つ前の記事で私は、空間の球状の伸縮としてのクォーク三つによって構成される陽子の、振動の余剰部分こそが電子の正体であると仮説を立てた。そして、鉄芯に巻いたコイルに電流を通し、コイルの中を電子(空間のリソースの余剰部分)が周転することで、それに同調した鉄芯内の陽子が同じ向きに揃うことによって、電流を通す前までは鉄芯内部で打ち消し合っていた磁気が方向性を持ち、鉄芯の外に放射されて電磁石となると仮説を述べた。

 上記の仮説の最も重要な要素は、コイル内部の電子(空間のリソース)の周転と、陽子一つ一つの三つのクォークにおける擬似スピン(空間のリソースの奪い合いによる回転)が、同調したという部分だ。

 さて、光電効果に話を戻そう。

 光電効果がなぜ光が波でなく粒子であることを示すことになるのか。その点について理論物理学者の大栗博司さんが一般向けに書いた本『重力とは何か』(幻冬舎新書)に次のようにある。

「波長が長い光を使うと、いくら光を強くしても電子は飛び出しません。逆に、どんなに弱い光でも、波長が短ければ、数は少ないものの、時々は電子が飛び出してきます。このときに、波長をそのままにして、光の強さを変えても、一つひとつの電子のエネルギーは全く同じままでした。飛び出してくる電子の数が増減するだけです。」(P162)

 ここではアインシュタインの「光量子仮説」についての詳説はしない。それについては『重力とは何か』の説明が分かりやすいので買って読んでいただきたい。本ブログの戯言パラダイムに基づいて話を進めていく。

 引用から分かるように、金属内の電子に働きかける力を持つのは光の力ではなく光の波長なのである。
 「波長」とは波の幅であって、波長が長いほど、一つの波の「横幅」が長くなると考えていい。

 さて、前回の記事で私は、球状の波としての三つのクォークのそれぞれの波形がぴったり隣のクォークと重なったときに、三つの波がつながって「擬似スピン」が起きるという意味合いの手書きの絵を描いた。そして、それらの「波」の周期と、その回りを周回するコイルのスピンの周期が共振したとき、磁気が生まれると説明した。

つまりすべては振動の共振なのだ。

 光電効果について考えてみよう。金属に向かって光が飛んでくる。光の波長が長すぎると、金属内部の陽子の振動(擬似スピン)と共振を起こさない。陽子のクォークの距離は空間のリソースを奪い合った結果として極限まで接近し、収縮限界近くで極端に短い周期で振動している。ピンボールの球が反射板に挟まってピロリロリロリンと跳ね続けているような感じだ。つまり波長は短い。その状態に同調させるためには光の波長も極端に短くなければならない。もしぶつける光の波長が長すぎれば、光は同調することなく長い足を伸ばして陽子をまたぐように通り過ぎていってしまうだろう。

 つまり光電効果とは、陽子内部の三つのクォークの振動とぶつける方の光子の振動が同調することで互いに干渉可能になり、陽子内部の空間のリソースが押し出されて金属内部で玉突きを起こし、その余剰部分が金属の外に電子となってはじき飛ばされる現象を意味するのである。 

| | コメント (0)

2018年1月 6日 (土)

電子の本質(まだ仮説の仮説だが…)

Photo_2

 もちろんこのブログの記事であるからには「戯言パラダイム」に基づくものであって、一般性は(まだ)ない。それを納得した上で読んでいただきたい。

 手書きの殴り書きで申し訳ないが、やはり図があった方が説明が早い。(心に余裕があったらいつかアニメーション化しようと思う)

 さて、本ブログでは陽子を構成する三つのクォークを「空間自体の球状の波」とし、周囲の空間の収縮のためのリソースを極限まで使い切って、それを奪い合うように三つのクォークがタイミングをずらしながら伸縮する様子が「クォーク閉じ込めの原理」の実態であるとしてここまで話を続けてきた。(以上の内容を追加した書籍を今春出版予定。)

 さて、「電子」である。三つのクォークの「振動」は、「空間のリソース」を受け渡すためのタイミングを一致させるためのリズムと受け渡し量が全体として安定するなら、陽子としても安定するはずである。また、一つの状態が安定するなら、より振幅の大きい状態での受け渡しも安定するはずである。

 殴り書きの図の右側をご覧になっていただきたい。上の表と下の表とでは、振幅の大きさは異なるものの、どちらも陽子として安定する可能性を持っている。しかし下の振幅の大きいものは、エネルギー変動も大きく、その分エネルギーの安定という意味では無駄が大きいと考える。つまり上の表の振幅より不安定である。

 この下の表の状態こそが「電子」の実態である(まだ仮説段階だが…)。

 電流とは、この不安定で余剰エネルギーを持った状態の陽子が、次々に隣へ隣へと受け渡されることであり、電子銃のように先細りの先端に「電子(空間の振動の余剰部分)」が追い込まれたときに、空中に放出されて実質的な光子(空間の球状の波)になったものと考える。つまりそれが電灯の原理である。

 まだ思いつき程度ではあるが、この考え方で「電子」が本当に説明可能になるかをこれから検証していく予定だ。

追記

 「下の表」のような振動が成立するためには、その陽子自体の空間のリソースにある程度余裕がなければならないはずだ。だから電流とは陽子間の空間のリソースの連続した受け渡しと表現可能である。

追追記

 電子を「空間のリソースの余剰部分」と考えたとき、都合が良くなるものに磁力の発生ということがある。磁力は陽子レベルでは、三つのクォークを貫くように発生する。本ブログの「戯言パラダイム」では、三つのクォークは空間のリソースを奪い合いながら擬似スピンを行っているとしているので、その「回転」の中心に磁力が発生することになる。電子を「空間のリソースの余剰部分」と捉えれば、電線を巻いたコイルに電流を通すことはつまり「空間のリソース」をぐるぐる回転させるということになる。その中心に磁力が発生するのが電磁石の原理である。つまり、陽子レベルと、電子レベルで、磁力の発生過程に整合性が生まれる。

追追追記

 追追記に「電子レベルでも磁力が発生する」と書いたが、コイルそのものが生み出すわけではないのかもしれない。ネットで電磁石の強さについて検索してみると、コイルの巻数や芯になる金属で磁力の強さが変わるとある。ただし、それにも限界値がありそうである。コイルの巻数にまっすぐに比例するのであれば、磁力は電子の周回そのものから発生することになるのだろうが、限界値があるということは芯となる金属の方が磁力発生の主要因のようだ。だから次のように考える。
 金属芯に巻いたコイルに電流を通すと、電子、すなわち「空間のリソースの余剰部分」がコイルをつたってぐるぐる周回する。すると、金属内部の陽子の擬似スピン、すなわち「空間のリソースの波(擬似回転)」がその回転とシンクロし、その結果として金属内部の陽子が一斉に同じ方向を向く。陽子を構成する三つのクォークの中心を貫くように発生する磁力の向きが揃うことで、金属芯は磁石化する。
 コイルに電流を流すのを止めると、金属内部の陽子の向きはまたばらばらになってしまい、通常の金属に戻る。

| | コメント (0)

2018年1月 5日 (金)

「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」-読解力ということ-

Cbe72f02a07c48e7a1188c934436977c

超絶ネタバレ注意。

 正月休みに映画の『コンタクト』を観て、ジェームズ・ウッズがでているのを見て、無性に彼のデビュー作である『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』を観たくなって、アマゾンでBDをぽちってしまった。

 『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』は1984年のアメリカ映画で、当時受験生だった私は、本番入試の旅行中に時間つぶしで観た記憶がある。そういう特殊な時期に観たせいもあるのだろうが、その印象が長く心にとどまり続けた。
 その当時はビデオもビデオソフトもまだ高価だった。大学生の身でそんなものが手にはいるはずがなく、観直す機会もないまま、10年ほど経った。それでも私は、なぜだかこの映画のサウンドトラックを何度も何度聴き続けていた。それだけ印象は深かったのである。
 テレビ放映されたこともあったが、時系列をいじられたバージョンになっており、録画はしたもののほとんど観直すこともなかった。

 最初に観たときは、正直内容をよく理解できていなかった。美しい映像と美しい音楽に、突然不道徳ともいうべき強烈なシーンが代わる代わる挟み込まれている。だからこそ一つ一つのシーンのイメージが際だって強く印象づけられる。
 最初の感想は「なんて理不尽な物語なんだろう」というものだった。ある事情で少年の心のまま成人してしまった主人公ヌードルスは、親友や愛する人に対して常に善意と愛情をもって接していた。それにも関わらず、裏切られ傷つけられる。
 よく創作物のモチーフになるものに旧約聖書の「ヨブ記」というものがある。人は善人であればあるほどむしろ善人だからこそ不幸に見舞われるのだと。聖書が何を我々に説こうとしているのかは私には分からないが、この奇妙なテーゼの持っている逆説的ともいうべき真実性については、感覚的にはわかるような気もする。だからこそ若い私はこの映画に惹きつけられたのだろう。
 特に主人公ヌードルスを捨てて女優を目指すヒロインのデボラと、主人公から愛する女性と財産その他人生の全てを奪った”親友”マックスの存在には、不可解で理不尽だからこそ惹きつけられた。実際、この映画のイメージは「愛と友情の物語」だったのである。あれほどまでに残酷な結末なのに。

 そしておそらくは20年近く間を空けての再鑑賞。ようやく全てを理解した。

 ここから書くことは映画に直接描かれていることではない。だがこう考えると全てのシーンに説得力が生まれてくる。

 主人公のヌードルスは、仲間をかばって殺人を犯し、青春時代を一人牢獄で過ごすことになる。その時、ヌードルスに助けられ、ヌードルスの帰りを待つ親友のマックスは、ヌードルスのためにできることはなんでもやろうと考えたはずだ。その思いで彼は親友の愛する人であるデボラを支えようとする。デボラは「たった一人だけ本当に愛した」ヌードルスを忘れられるはずがない。だからこそ、長い年月を一人過ごすうちに、マックスの優しさにヌードルスの面影を感じ始める。マックスがヌードルスの代わりにデボラを支えようと真心を尽くすからこそ、必然的に彼らは恋に落ちる。彼らはヌードルスという幻を仲立ちにして幻想世界で恋をする。そしてそれが真実の愛に変わっていく。

 そしてヌードルスが帰ってくる。幻想ではない、少年時代のままの「本物」が登場する。

 彼らは「本物」の登場に困惑する。もとより「本物」の存在を否定できるはずがない。しかし肯定することは自分たちの愛を否定することになる。

 これ以降の全てのシーンは、デボラとマックスの、ヌードルスに対する肯定と否定の矛盾で彩られ続ける。

 明らかに愛情を示しながら、誘惑さえしながら、ヌードルスを決定的に否定するデボラ。
 デボラを傷つけられたことに対する復讐として、ヌードルスの人生を奪う決意をするマックス。
 自分とマックスの間に生まれた子供の存在を「下手な演技」で隠そうとするデボラ。
 全てを告白し、ヌードルスに復讐を促すマックス。
 
 特に最後の一つ。なぜマックスはヌードルスに自分に対する復讐を促すのか。それはマックス自身が理不尽な人生に、まるでヨブ記のような人生に、善人でいたかったのに悪人になってしまった人生に、絶望していたからだろう。

 実際、難解だとは思うのだが、それにしてもこんなことを読み取ることができなかったことをいぶかしくさえ感じる。この50年、ひたすら職業としてテクストを読み解き続けてきたことで、読解力が向上したからだと思いたい。

 しかし、現実世界において、人の心は映画以上に複雑なはずだ。今の自分も振り返れば「あんなことも分かってなかったのか」と思うときがくるかもしれない。あと何年生きられるか分からないが、自分がどんなものを読み解くことができるようになるのか、ゆっくりと自分につきあっていこうと思っている。
 
ラスト近くの主人公ヌードルスのセリフ。
「俺の昔話はー もっと単純だ。」
私自身も死ぬまで単純な物語を生きていきたい。
 

| | コメント (0)

2018年1月 3日 (水)

ベーシックインカムと人工知能 -世界の再創造-

 新年三日目は、個人的な話題から離れて、最近最も関心があることを書いてみる。(やっとか)

 文春新書の『人工知能と経済の未来』という本を読んでみた。私が特に興味があったのはベーシックインカムに関する内容だったのだが、人工知能によって雇用形態がどのように変化するかという話が中心で、ベーシックインカムについては最終章あたりにややおまけ的に書き加えられているという印象だった。大体において、予想通りの内容ではあったのだが。

 「格差」というのは、良い悪いはともかくとして、近現代の我々の生活を支えてきたのは事実だ。
 何年か前のセンター試験の「評論」問題に、近現代の経済の成り立ちについて、なかなかストレートで辛辣な分析をした内容の文章が使われていた。
 我々はかつては国家間の貿易によって利益を出していた。それがグローバル化によって国家間の差がなくなり、利益を生み出せなくなったために、国内に意図的に「格差」を作り出すことによって、そこから利益をひねり出さざるを得なくなったと。
 日本中全ての受験生に読ませるという意味ではなかなか冒険的な内容だったとは思うが、そこに書かれてあることは真実なのだろう。我々の経済がいかに危機に瀕しているかはここでわざわざ説明するほどのことではあるまい。もうどこにも「利益」を生み出すネタが残ってないのだ。

 前にも書いたが、人工知能というのは言わば無限の労働力だ。完全に自立した人工知能を作り出すことが出来たら、我々は働かずとも食っていけるだろう。そして、無限の労働力を手に入れた国家は、軍事力その他無関係で莫大な富を手に入れるだろう。そして無限の労働力は「無限に」あふれ出し、最初は一つの国家だけの富であったものが世界中に広がって、世界全体を豊かにするだろう。格差なしでも世界中の人々が「利益」を手にし、働かなくてもいい世界がやってくる。「富」という概念そのものが書き換えられるに違いない。

 なぜ人工知能の話題に固執するのかというと、「知能」であるからには、我々の心、我々の脳の構造が同時並行的に明らかになっていかなければならないから、本当の意味での人工知能が完成するためには、人の心、さらには人がどのように世界を認識しているかが問題になるはずだからだ。そうすると、拙著『時間認識という錯覚』の内容も当然関わってくるという読みがあるからである。まあおまけ話ではあるが。

 せっかく正月なんだから夢物語を書こう。もし働く必要がなくなったら、世界はどのように変化していくか。

 まず、ほとんどの職業は消滅して、我々の仕事は恋愛することと子育てをすることだけになるだろう。ひょっとしたら子育てさえも人工知能がやってくれるかもしれないが、そこはおそらく本能に属する部分でもあるし、人は簡単にはそれを放棄したりはしないはずだ。
 結婚という制度もなくなってしまうかもしれない。おそらく結婚制度は、子育てをする際の経済的な保証という意味合いが強いはずだ。もちろん愛情とか心のやすらぎとかいう要素を否定するわけではないが(というか誰よりもそれに飢えているが)、男の4人に1人が未婚で一生を終えるという現状を考えたとき、結婚という「システム」も実際にはすでに様々な問題を抱えたまま放置されていると言える。良い悪いは別にして、多夫多妻制の世の中がやってくるかもしれない。

 研究分野でさえも人工知能がやってくれるかもしれないが、趣味という意味でも人の手を完全に離れてしまうことはないはずだ。おそらくスポーツや芸術と同じような感覚で「研究」というレジャーも人の手に残されるはずだ。むしろ、生活のためにでも名誉のためにでもない純粋な興味によってなされる「研究」は、様々なイノベーションを今とは比較にならない勢いで引きおこすに違いない。(なぜなら中身のない「権威」にごまをするような無駄なエネルギーを使う必要がないからである)

 書いているうちに楽しくなってきた。生徒たちにも「君たちはいい時代に生まれた。これから世の中は信じられないぐらいに面白くなっていくよ。」とよく話す。だから私の目標は長生きすることである。人工知能とベーシックインカムがもたらすユートピアを目にするまでは死ぬわけにはいかない。

 今のままの世の中がいいって?いや時代の流れは「今のまま」を許さないはずだ。「グローバル化」によって失われた「格差」を取り戻そうとするヒト全体のうねりのようなものを感じるだろ?。全力で無限の労働力である人工知能を創り出すべきだと思わないか?世界を根本から創り替えるしかないと思うよ。いや社会の構造になんて手を出す必要はない。単に人工知能を創り出すだけで、すべてが自然に、何の代償も払うことなく変わっていくはずだから。

 

| | コメント (0)

2018年1月 1日 (月)

今年の抱負(2018)

 そういえば去年は書かなかった「今年の抱負」を今年は書いてみる。「抱負」というか「予定」の方は盛りだくさんなのだが、まあ書いてみよう。

① 「時間認識という錯覚-2500年の謎を解く-」の増補版「時間認識という錯覚-時間の矢の起源を求めて-」出版

 今年最大のイベントなのは間違いない。これがどうも出版社レベルで難航しているらしく、外注先の担当者が寝込んでいるとかなんとかでスケジュール通りにいってない。まあその分内容も充実させることができそうだし、のんびり待つことにしている。この数日に突然思いついた電磁気学関係を組み込むかどうかも脳内検討中。「熱とは何か?」についてじわじわ考え始めている。ノンストップファンタジー。

② ペッパー君を使いこなす
 
 大体、自費出版を決意したころから金に対する執着心がなくなり始めている。1年前に下血して死ぬかもしれないと思って以来、さらにそれに拍車がかかった。実家に置いて、親のぼけ防止と、親とのコミュニケーションのきっかけ作りに使おうと思っている。いやひょっとしたら自分自身のぼけ防止にもなるか?
 目玉が飛び出そうになるほど金がかかるが、その分それなりのものがあるだろうと期待している。だははははは。

③ 「時間認識という錯覚」の英語版出版

 出すとしたら電子書籍のみで。が、ペッパー君の購入を決めてしまったので、さすがに金が持たないかなと迷い始めている。まあ多分やってしまうが。

 というわけで、今年もよろしくお願いします~m(__)m

| | コメント (0)

2017年12月31日 (日)

公開ラブレター!

 俺は人類に永遠に片思いしている。

 そう来たか、という感じだろう。そう、そう来てしまったのだ。いや別に年越しの酒など飲んでない。長い休みでじじいが家で一人で不摂生をするとどんな悲惨な目に遭うか、1年前に思い知らされている。だから酒は一滴も飲んでないし、結構真面目に語っている。そもそもこの片思いは今に始まったものではなく、私が生まれたときからずーっととさえ言える大長編ロマンスなのだ。

 本当に人類は憎めないやつだ。誰でも間違っていると分かるはずの○×△□◎の「原理」を100年も信じ続け、その上に恐くて崩せないほどでかい楼閣をぶったて、来る日も来る日もお祭り騒ぎをしている。
 本当に人類は憎めないやつだ。最初から矛盾を抱えた「数字」というやつをあの手この手でごまかしながら使い続け、むしろ矛盾を逆利用して金儲けまでしてしまう。
 本当に人類は憎めないやつだ。半世紀以上もの間振られ振られて、たった一人の女性の心も捕まえられず、腹いせに最初から勝てないことが分かっている「権威」とかに挑み続けている(しまったそれは俺のことだった^^;)

 人類はこの世界に存在する唯一の「意味」だ。この「意味」というやつはなんともいとおしいではないか。世界には人の数だけ物語が満ちていて、さざめき合っている。それらの物語の一つ一つはなんともいとおしいではないか。

 だから俺は人類に永遠に片思いしている。
 
 

 

| | コメント (0)

なぜ月は(地球との相対的な関係において)自転していないのか

 大晦日だというのに掃除もせずに、朝っぱらからツイッターでつぶやいた内容を編集、加筆してみた。

 来年春に出版予定の「増補版」には、「なぜ惑星、恒星、銀河その他、天体はどいつもこいつもくるくる回っているのか」についての答も書いている。(もちろん「戯言パラダイム」の範囲内でだが)。

 陽子の内部では三つのクォーク(空間の球状の波)それぞれが質量を持ち、空間のリソースを奪い合うことで内部で円を描くように質量変動を起こしている。歳差運動(首振り運動)と表現することもできる。
 その質量変動自体はほんのわずかなものであるが、天体規模の質量であれば陽子の数も膨大である。それらの膨大な数の陽子の内部の質量変動があわさって、全体として大きな質量のうねりを生み出す。二つの天体、例えば恒星と惑星が、長い時間をかけて相互作用によって、それぞれの内部の質量変動の影響を受け、互いが互いの周りを回り(公転し)、自転するようになる。
 
 ところがその理屈には例外があった。「月」である。

 月は常に片側を地球に向けている。なぜ月だけ例外なのか疑問だった。おそらく、月の内部の陽子の向きがバラバラで、全体として巨大な質量のうねりを起こすまでには至ってないのだと考えた。そうすると前のブログでも書いたように、陽子の向きが揃ったときにのみ物体の外に放射される理屈の「磁気」も存在しないはずだ。つまり月には地球のような地磁気も存在しないはずだと考えた。

 ネットで検索してみるとずばり月には地磁気が存在しない。予想通りである。

 地球は地磁気を持っている、つまり陽子の多くが向きをそろえている。だから内部に円を描く質量変動、歳差運動を持っているはずだ。その影響が月に及んで月を周回させる。しかし月自体は内部に質量変動を持たないから、地球に引っ張り回されるだけで自らは回転しない。

 「戯言パラダイム」で、説明可能になるものは他にもありそうだ。現在観測されているものもあるだろうが、まだ観測されていないものについて予言できると面白い。
 一番期待しているのは、「増補版」の核ともいうべき「陽子内部の三つのクォーク(空間の球状の波)による擬似スピン」てある。現在の粒子加速器などの観測機器の観測精度で観測可能だと思うので、どこかの観測施設で報告されないかなあといつも期待しながら科学関係の報道をチェックしている。

 観測装置(粒子加速器)一台、私に貸してくれないかなあ。


補足

 なぜ月が常に地球のほうに「表」を向けているかについて、「自転と公転が一致しているから」といった説明をよく見る。しかし、「自転」と「公転」がぴったり一致するなんて、ほぼ奇跡に近い確率なはずだ。だから月はまるで映画のスターウォーズに出てくる巨大な要塞デススターのような異様な雰囲気を持っている。「なぜいつもこっちを向いてるの?」である。
 地球は内部で円を描くように質量変動を起こし、それによって周囲の物体を振り回し、自らも回転する。月は質量変動を内部に持っていないため(正確には陽子の向きがそろっていないので内部で打ち消し合う)、地球のなすがままに振り回される。網に入れたスイカをぐるぐる振り回すように。
 月が生まれた際の経緯が(例えば地球から分離して単独の天体になったからだとか)、月が常に地球の方を向いている理由として語られているのを目にする。しかし、その理屈では「なぜその後、月は様々な外的影響を無視して、自分の向きを固定させ続けているのか」という問題に答えられない。
 月は、地球から一方的に振り回され続けている。むしろ月のこの確率的にはあり得ないような不可思議な状態が、陽子内部の質量変動の存在証明にさえなっている。

| | コメント (0)

2017年12月29日 (金)

電磁気学を量子力学的に解釈してみる

 電磁気について考え続けていた。

 来春4月頃に出版予定の「増補版」に、このブログの「量子シリーズ」の内容を新しい章として入れる予定だが、電磁気についてはまったく触れていない。本音を言えば、これまで組み込むことが出来ずにいたのである。

 電磁気学は避けては通れないのは分かっている。「増補版」の核となるのは「光とは何か」という問題である。既存パラダイムの多くを無視して、好き勝手な論を展開しているが、その強みは「論理的な整合性だけはある」ということだった。
 しかし、電磁気学はこれまで私の「戯言パラダイム」に組み込めずにいた。電磁気学においては光は電磁気の一種とされている。だから電磁気についても「空間の球状の波」のイメージに組み込めなければ完全とは言えなかった。それが思考実験のレベルでもこれまでうまくいっていなかった。

 電磁気は「直角に交わる電場と磁場とが、互いで互いを呼び起こしながら、媒質のない空間を直進する」といった説明が教科書の類ではなされている。以下のような図をよく見かけるはずだ(図はニュートン別冊「波のサイエンス」)

E60421a890ec498db5e33c87d5ca347a

 この「電場と磁場が直交する」というイメージがどうにもしっくり来なかった。

 「増補版」で私は、光子、つまりボソンを完全な対称性を持つ存在とし、世界の始まりには光しか存在せず、それが完全であるが故に時間の流れでさえも過去と未来に対して対称性を保っていると説明している。つまりボソンしかない世界において時間は流れていなかったと。

 しかし「電場と磁場が直交して代わる代わる振動する」という様子は「完全なる対称性」にはほど遠いものだった。

 私は電場磁場が直交するイメージを一時保留にすることにした。このイメージに縛られているかぎり新しいアイディアは出てこないと判断した。一つには上記のイメージは実験によって直接確認されたものではないはずだという読みがあったからである。
 電場と磁場が直交するというイメージはそれぞれの発生手順から来るものだと考えた。鉄に電線を巻いてコイルにすると、巻かれた鉄は電磁石になる。この時、電気を通す電線はSN極に対して直交している。逆に永久磁石をコイルに出し入れすると、そのコイルに電気が生じる。これも電線と永久磁石のSN極は直交している。
 「電場と磁場が直交しながら媒質のない空間を進む」というイメージは、それが生まれた時代に(おそらく今現在でさえ)それを実際に観測する手段はなかったはずだ。だから、電場と磁場の関係は、発電機でもおなじみの磁石とコイルの関係から連想したものに過ぎないと。

 そうやって、高校の教科書にさえ載っている「電磁波のイメージ」をいったんかっこに入れて、私は思考実験を進めていった。

 ボソンにおいては無視できる電場と磁場の関係も、我々の日常レベル、つまり通常物質のレベルでは無視することなどできない。電流と磁力の直交状態は、その原理がそのままモーターを動かす原理になっているぐらいであって、確定した事実そのものである。
 電流の方は拙ブログの「戯言パラダイム」でも簡単に説明できた。電流の実体である電子は、「空間のリソース」の余剰部分、もしくは不足部分を、陽子相互で順々にやりとりする様子であろう。おそらくは陽子の周囲の球状の波にはいくつかの形態があって、安定度の低い状態が順々に次へ次へとリレーのバトンのように受け渡されているのだろう。だからその出口部分をうまく操作すれば「空間のリソース」そのもの(もしくはその不足部分)である電子は、そのまま通常物質から飛び出して、単独の光子(ボソン)になってしまう。つまり電灯だ。

 単分子結合である金属は、電流が流れ、磁力を持つことができる。磁力は陽子を構成する三つのクォークの円の中心を貫くように発生する。だから、電流に対して磁力が発生する際には、陽子の三つのクォークは、平面にわっかを敷き詰めているような状態になっているのだろう。

 そこまでは良かった。

 しかし、磁力に極性があることをどうしても説明できなかった。私の「戯言パラダイム」では陽子を構成する三つのクォークは、単純に三つで円を構成し、順に「空間のリソース」を奪い合いながら擬似的なスピンをしているだけの存在である。「円」の上と下とで極性が生まれるような違いがあるとは思えなかった、しかしSN極は、同じ極が反発しあい、異なる極が引き合うという小学生でも知っている明確な特徴を持っている。

 そして、考えているうちにふと気づいた。

 陽子の擬似的なスピンは観察する位置によって右回りと左回りがある。磁力の極性とは、その回転の向きのことなのではないかと。同じ向きの極が互いにジョイントし合うように引きつけ合い、逆向きの極がかみ合わずに反発し合う。
 同じ向きというとNとN、SとSとイメージするだろうがそうではない。それぞれ同じ極、つまり同じ向きの擬似スピンをくっつけるためには、片側をぐるりと180度回転させなければならず、そうすると回転の向きは逆転してしまう。つまり、一つの磁石としては逆回転であるSとNが引きつけ合うのは180度回転させたときに、回転の向きが同じになるからである。

 まとめよう。電流とは「空間のリソース」の不足部分である電子の陽子相互のやりとりのことであり、磁力とは陽子を構成する三つのクォークの擬似スピンが直接作り出す力であり、極性とは陽子のスピンの回転の向きであると。

 まだまだ磁力については、実際に存在する様々な特徴を説明し切れているとは言えない。しかし、本ブログの「戯言パラダイム」を売りであるシンプルさを損なうことなく、電気と磁気を同時に説明可能にするための足がかりとしてはなかなか面白いアイディアだと自分では思っている。

追記

‪金属結合自体は堅牢だろうけど、原子を構成する素粒子レベル(ハドロン)の三つのクォークの向きは比較的自由度が高いのではないか。特に鉄。だからコイルの電流の回転の向きに陽子の擬似スピンの向きが強制的にそろえられるかたちになって、通常は物質内で循環して自己完結的に外に出ることがない磁力を物質外に放射せざるを得なくなる‬と。それが電磁石の原理と考える。永久磁石は最初からハドロンの向きが揃っているということなのだろう。

| | コメント (0)

2017年11月26日 (日)

ブレードランナー2049 (超絶ネタバレ注意)

 このブログ記事は、「ブレードランナー2049」及びオリジナルの「ブレードランナー」についての感想なのだが、超絶ネタバレなので未見の人は読まずに退出することをお勧めする。

 まずリドリー・スコット監督ハリソン・フォード主演の、オリジナル「ブレードランナー」についてだが、映画マニアならこの作品について解説する必要はないだろう。カルトSFと呼ぶのがふさわしい作品だ。
 最初に上映されたのは、私が高校の時だった。当時は映画は二本立てとか三本立てとかが当たり前で、そういった「併映」の中に過去のヒット作のリバイバルが混ざり込んでいることも珍しくなかった。「ブレードランナー」もそういった作品の一つで、観たい映画と併映されることが多かったこともあり、複数回映画館で鑑賞した記憶がある。
 当時はビデオデッキもビデオソフトも高価で、もちろん実家にそんなものはなく、逆にその分その場一回限りの視聴ということで、映画館に入ると一つ一つの作品にのめり込んで見ることが出来ていたと思う。

 ブレードランナーには目当てのシーンがいくつかあった。ラストシーンや、ヴァンゲリスの「緑の記憶」「ブレードランナーのブルース」が流れるシーンなどがそれなのだが、その中でも特に息をつめるようにしてみていたのが、ヒロインのレイチェルが髪を下ろすシーンだった。レプリカント(人造人間)であるレイチェルが、自分のアイデンティティの全てが失われた直後に、むしろ一人の人間として目覚める。そのシーンでショーン・ヤングが演じるレイチェルの美しさは、「人間性」の美の側面の極致とも言うべきものだった。

Photo

 そして35年の年月を経て、続編「ブレードランナー2049」。

 この作品においては、ありとあらゆる物が否定されていく。レプリカントであり、超常の能力を持つ主人公 ”K” は、彼に許された数少ない「信じられるもの」のほとんど全てを否定される。
 それだけではない。おそらくは「続編」にオリジナルブレードランナーと同じ感動を求めてやって来た観客は、その「期待」もたたきつぶされる。
 ハリソン・フォード演じる前作の主人公デッカードとヒロインレイチェルの「愛」は、最初からレプリカントの発案者であるタイレルによって仕組まれていたものだったと示唆される。再登場したレイチェルは、一瞬のうちに轟音と共にこの世から消え去る。

 最後に、主人公 ”K” と我々観客に残されたものは何だったのか。

 現代人も ”K” とそれほど立場的に異なっているわけではない。ネットの発達によって、真実が見えやすくなった現代社会は、言い方を変えるなら幻想を抱きにくい時代といってもいい。
 だが、本作の登場人物の一人が語るように、偽りの記憶もまた時に人の心の支えになる。だから、「真実」しか見えないことは、逆に人の心の支えが全て失われることを意味するかもしれないのだ。

 だが ”K” はたった一つだけ信じられるものを見出す。それは「真実を知る」と言うことと、「真実を守る」ということだった。例えその「真実」が自らの存在を否定する内容であってもかまわない。他人の心の中にのみ存在するものであってもいい。それが「真実」であるということだけが、彼にとって「信じられるもの」であり、「守るべきもの」だった。

 おそらく現代文明は、人工知能の開発の過程や、物理学による「存在」の追究によって、自分が生きている世界やそれを認識する自分たち自身の本質を知るだろう。それはひょっとしたら全てが虚構であり幻影であるという結末かもしれない。
 しかし、それでもかまわないとは思う。そこから本当に信じられるものを、我々自身の手で作り上げていけばいいのだから。

 
 

| | コメント (0)

2017年10月15日 (日)

なぜ天体間の相対速度は光速度内に収まるのか?

 「重力波の発見」は確かにノーベル賞にふさわしい。それは100年に渡って信じられ続けてきた「光速度不変の原理」の終焉を意味するからである。

 これは以前も以下のブログ記事に書いた通りであり、その理由についてはそちらをご覧になっていただきたい。

→「重力波の観測」と「光速度不変の原理」

 そもそも「光速度」という時、その速度はなにを基準としたものなのか?

 宇宙に絶対的な基準などない。地球は太陽の周囲をめぐり、太陽は銀河の中を移動し、銀河は広大な宇宙をめぐっている。宇宙のどこかに旗でも立ってていて「ここが基準です」等ということがあるはずがない。だから「速度」という表現を使うとき、それがどのような場合であったとしても事実上「相対速度」のことを指しているはずだ。
 例えば、車は地表との相対速度で80キロ走行しているし、ボイジャーは地球との相対速度で太陽系から離れつつある。全ては相対的なものだ。
 だから、「光速に近づいたときに時間や空間が伸び縮みする」という表現は、著しく言葉足らずであり、正確さを欠いている。

 それで当然、「観測者」が登場してくる。

 絶対的な基準~宇宙の灯台~が存在しない以上、対象となる物体の速度は、それを観測する人間との相対速度ということになるのだろう。しかしこれもまた不思議な話である。観測者が対象となる物体を観測したとき、それが光速内に常に収まるように、対象の時間や空間がねじ曲がるというのである。なんだか「シュレーディンガーの猫」に似ている。しかし、この「猫」以上に「光速度不変の原理」が不可解なのは、複数の観測者が登場した時になにが起こるかという点である。

 観測者相互の相対速度が光速に近いとする。観測者同士がお互いを観測し合ったときに何が起こるかというのも十分に不可解ではあるが、最も不可解なのは互いに異なる相対速度である観測対象を同時に観測した場合だ。ほとんどオカルティックだとは思うが、百歩譲って観測者が観測対象の時間や空間に影響を与えるのが真実だとしよう。この時もう一人の観測者が同じ観測対象を観測し始めた瞬間に、その対象の時間や空間の異なる状態が観測者の数だけ重なり合ってしまうことになる。時間が早くもあり遅くもあり、空間が短くもあり長くもあるという矛盾した状態を混在させることになる。

 これは観測者の目にそう見えるだけの錯覚のようなものであって実際には観測対象の時間や空間は伸び縮みしていないのだと反論する人物は、その発言がブラックホールやビッグバン理論を否定してしまっていることに気づいていない。

 さて、そんなことをぼんやり考えながら、ふと気づいたことがある。

 それは、なぜ宇宙の星々はそこにとどまっているように見えるのか、ということだ。なぜ空の星々は流れ星のように動き回っていないのかということだ。それらは互いに「光速度」の範囲内にとどまって存在しているように見える。まるで光につなぎ止められたかのように。もし「光速度不変の原理」という制限がないのであれば、天体はもっと激しく接近しあい、または離れ合っていてもおかしくない。ググって天体間の相対速度の最大値を調べようとしたが、なかなか見つからなかった。もし光速を超えると確証のもてるデータがあるのなら、最初から「光速度不変の原理」など生まれるはずがないので、それらは光速度内に収まっていると考えて良いのだろう。その前提で話を進める。

 拙ブログの「戯言パラダイム」を使えば、簡単にその理由を説明できる。宇宙の大規模構造(空洞)を作り出す斥力物質が、通常物質の速度を抑えるクッションのような働きをしていると考えるのである。
 斥力物質が宇宙の大規模構造(空洞)を作り出す点については以下のブログ記事で説明済みである。

→「宇宙の大規模構造」と反重力物質(ダークフェルミオン)

 宇宙の大規模構造(空洞)に斥力物質が満ちており、通常物質がその周縁部に押しやられているような構造になっているのであれば、通常物質はいわばバルーンとバルーンの間に挟み込まれたように身動きが取れない状態にある。例え光速を超えるような加速力が特定の物質に作用したとしても、空洞部分、すなわち斥力物質の方に向かった時点でブレーキがかかる。

 宇宙の星々が空にはりついているように見える理由は、斥力物質が疑似的な絶対空間として作用し、星々がその場に押しとどめられているからなのである。
 
 

| | コメント (0)

2017年9月29日 (金)

リライフ(ReLIFE)

 ネット配信前提の漫画で、単行本やアニメーション、さらには映画にまでなったらしいのだが最近まで知らなかった。
 それを何で今ごろそんな時期外れの話題について書き始めたのかというと、どうもその漫画の作者が今の勤務校の出身らしいのだ。で、漫画の主人公達(女子)の制服が、うちの高校にそっくり、というよりそのまんまなのである。
 なんだか大分県のどこかの役所が漫画の人気にのっかって、リライフキャンペーンとかなんとかいうものまでやっているらしい。キャンペーンの中身はよく覚えていないのだが、その漫画について知ったのはその役所の担当者がうちの高校にそのキャンペーンの宣伝に来たのがきっかけだった。

 それでも、まだほいほいそれならとその漫画を読むほどの興味は持てなかったのだが、二、三日前に突然読みたくなって、さっき最新話まで全198話を一気に読み終えてしまった。(最初の70話が無料になっていて、ちょっと読んでみようと思ったらずるずる最後までというパターンだったのだが)

 なるほどと思った。「薬を飲んで高校生の姿に変身」なんて話はもちろん現実にはあり得ないのだが、「変身」の部分を比喩と捉えるなら、普通に「中学・高校時代を振り返る話」とも読める。
 実際、中学や高校時代にトラウマを抱えて生きている人は多いはずだ。

 そうやってぼんやり考えているうちに、私自身も例外ではないと気づいた。中学から高校にかけての様々な出来事が、後の人生に大きく影響を与えていることがはっきりと分かる。

 そういう思い出を言語化してみるのも良いかもしれない。まあつまり自己カウンセリングなわけだが。40年近くも前の出来事で、すでに過去の思い出以外の意味が消えてなくなっている今、他人にとっては何の意味もないありふれた出来事の数々を、文字にしてみるのも良いかもしれない。つまり私にとっての内面的「リライフ」である。

 例えば次のような話だ。

 中学二年の時に、私はとある女の子から告白された。聡明でかわいい女の子だった。私は舞い上がった。あっという間に恋に落ちた。
 ある日、仲の良かった友達の一人から「話を聞いて欲しい」と相談を受けた。どちらかというと早熟で、当時既に今の背丈(170センチちょい)あった私は、どうも番長みたいなキャラでもあったらしい。彼を助けるつもりで「なんだなんだ」と相談に乗ってやった。どうも恋愛関係の相談らしい。
 彼は、私に告白した女の子が、実は彼の元カノだったと言う。彼は、彼女への思いを私にまさに「浴びせかけた」。
 私は板挟みになった。
 私は、恋と友情とどちらも成り立たせようとして、苦肉の策をひねり出した。私は彼女に頼んだ。「一年間待ってくれ」と。「一年間待ってまだ俺のことが好きだったらつきあおう」と。彼女は泣いた。
 私は、一年間を指折り数えて待った。そして一年後に私は彼女に告白し返した。当然のごとく私は振られた。

 リライフを読みながら、そんな話を思い出していた。長い間忘れていた話だ。

 ここに書ける話には当然限界がある。上記の話以上に明らかなトラウマ話はもちろんたくさんあるのだが、書くことが出来る範囲で、時々書いてみようと思う。

 

 
 

| | コメント (0)

2017年8月13日 (日)

『時間認識という錯覚(増補版)-時間の矢の起源を求めて-』の「序」

※ 半年後(?)に出版予定の本の「序」です。


 「増補版の序」

 子どもの頃、私たちは誰でも、宇宙の不思議さにときめいたはずだ。
「宇宙は一体どこまで続くのか?」
「宇宙に果てがあるとしたら、それより向こうはどうなっているのか?」
「時間の流れはいつ始まったのか?」
「時間に始まりがあるとしたら、それより前はどうなっているのか?」

 本書『時間認識という錯覚 時間の矢の起源を求めて』は2013年に出版した『時間認識という錯覚 2500年の謎を解く』の増補版である。最初の本の第五章を第六章に下げ、新たな内容の第五章を追加して出版したものである。新章の追加に伴って、他の章にも加筆修正を行っている。
 本書には二つの「矢」が登場する。一つは「ゼノンのパラドックス」の矢であり、一つは物理学において「時間の矢」と呼ばれるものだ。それらは異なる概念ではあるが、「時間の流れとは何なのか」という一つのテーマを扱う点で共通している。
最初の本で私は、「ゼノンのパラドックス(の矢)」を話題の中心に据え、「時間の流れ」について認知的な観点と物理的な観点の二面から考察してきた。今回の増補版で追加される観点は「時間の(矢の)始まり」である。

 冒頭に示した素朴な疑問は対称性という概念と関わりが深い。通常の物理現象のほとんど全ては対称性を持っている。対称性は可逆性という性質を含む。可逆性とは、ある物理現象を逆に考えてもそれが成立するという考え方だ。たとえば条件をシンプルにするために宇宙空間を舞台としよう。無重力状態にある二人の宇宙飛行士がぶつかり合ったとする。この時、どちらがどちらから離れていくと決めつけることはできない。それぞれの宇宙飛行士の距離(関係)が変化するのであって、どちらかの飛行士が離れていくように見えるとしたら、それはその現象を観測する人物の主観でしかない。また、「ぶつかり合う」という動作を録画して逆回ししても、一つの「動き」として物理的には全く問題なく成立する。つまり、ほとんど全ての物理現象は可逆性と対称性とを持っている。
 それなのに「時間の流れ」だけは、過去から未来へと一方にしか流れない。つまり「時間の流れ」は対称性が破れている。これが「時間の矢」といわれる謎である。
私たちは「時間の流れ」の中で生活し、それを自然なものとして感じている。しかし、「流れるもの」には必ず始点があるはずだ。「宇宙の果て」や「時間の始まり」について考えると誰でも思考停止に陥る。それは「無」に他ならないからだ。人は何かについて考えることができても、「何もない」ということについて考えることができるほど強い心を持っていない。だから、自分の生きている世界のごくありふれた謎である「宇宙の果て(の向こう)」や「時間の始まり(のさらに前)」から目を背けながら生活している。
 本書においては、「時間の矢(流れ)」が「対称性が破れた状態」にあることに着目し、「対称性が保たれていた状態」を「時間の始まり(の直前)」の定義とする。時間を含めた全ての事物の対称性が保たれた状態について、いくつかの仮説を用いて説明したい。
 「オッカムの剃刀」という言葉がある。一つの現象を説明するのに複数の解釈が成り立つなら、そのうち最もシンプルなものが正しい解釈であるという考え方だ。本書において提示される仮説は、その論理的な整合性とシンプルさとが武器である。さらに、実験による実証可能性も有している。それらについて新しく追加される第五章で語っていく。

※ まあひょっとしたら大幅に変えるかもですが、いまのところこんな感じです。前の本のプロローグとかはそのままにしておくことにしました。
※ 製本はハードカバーにしました。(表紙とかが厚い)。まあその方が「本」という雰囲気が出ますからね。ほとんどただそれだけですが。

| | コメント (0)

2017年7月29日 (土)

VR(バーチャルリアリティ)

VRというのは「バーチャルリアリティ」のことである。

 二年ほど前に頻繁にテレビで特集番組が組まれ、面白そうな物には何でも手を出す主義の私にとっても実際に体験するのが待ちきれないぐらいであった。

 VRというと映画の3Dを連想するだろうが、技術的に共通点はあっても、ほとんど別物と考えていい。

 映画の3Dは特殊な眼鏡をかけることによって、右目と左目をかわるがわる液晶シャッターで閉じてしまい、それに同期してスクリーンに映し出される右目専用の映像と左目専用の映像をそれぞれの目だけに見せることによって、立体視を作り出す。
 それに対して、VRはHMD(ヘッドマウントディスプレー)をかぶり、スクリーンを使わずに直接両目に立体映像用の情報を送り込む仕掛けになっている。単純に考えて、液晶シャッターを使わない以上、VRは通常の3Dの倍の光量を持っていることになるがもちろん違いはそれだけではない。
 VR(PSVR)は、目の前にカメラを設置する。そのカメラで頭にかぶったHMDの位置をモニターし、こちらの頭の傾き加減に応じて、適切な情報をHMD内に映し出すようになっている。調べたわけではないのだが、どうも視線の中心部が一瞬のうちに立体視に最適化されるようにプログラムが組まれているようだ。

 これは私が夢に見たシステムそのものだ。

 私は以前このブログで「3D映画」という記事を書いている。この記事自体は、映画館で見るタイプの3Dをイメージして書かれたものだが、読んでいただければ分かるが、我々が映画を観る際に視野の中心部と周辺部とで異なる立体処理を脳内で行っている以上、現行の3D映画のシステムでは、それに対応できないといった主旨のことが書かれている。
 その時から「もし視線を移動させたときに、その視線に応じて両目それぞれの視覚情報を変化させるシステムが出来たら、それは本当に現実並の立体視を得られることになるだろうが、そんなシステムなど実現不可能だろうな」と思っていた。

 その実現不可能なものが実現されてしまったのだ。

 今年の春先、少し仕事が落ち着き始めたころに、私はPSVRとPSPROを買ってきた。いくつかソフトを試してみたが、最初の一つからびっくり仰天させられた。

 最初に試してみたのはとあるホラー系のゲームだったが、いきなりチュートリアルから別の部屋にいるのである。これは立体視がどうだとかリアルさがどうだとかいうレベルではなく、本当に「別の部屋」にいるのである。

 さらにゲーム内キャラクターに遭遇したとき。

 虚構なはずの、ゲーム内キャラクターが、恐ろしいほど生々しいのだ。最近の映画で頻繁に使われている技術にモーションキャプチャーというものがある。人間の動きを動きだけコンピューターに取り込んでおいて、ゲーム内キャラクターをその「動き」通りに動かすのだ。それにくわえて、実際の人間を3Dスキャンしてそのデータを加工してゲーム内キャラを作っている。

 つまり、ゲーム内キャラと、ゲームをやっている人自身の動きという、二重のモーションキャプチャーが使われているのだ。

シンプルに表現するなら、目の前に本当にそのキャラがいるとしか思えないのだ。

 すさまじい技術である。一体だれがこんなすさまじいことを思いついたのだろうか。

 ちなみに一番最初に手をつけた某ホラーゲームは、最初の敵キャラとの対決で、恐すぎて挫折して、何度もトライする勇気もなくなってしまった。あれはもう心に傷が入ってしまうレベルだ。そういうのが好きな人にはたまらないだろうが、私にはもうそのゲームを再開する根性はない。

 正直言えば、VRをぼんやり眺めるタイプのゲームで十分である。というわけで、毎日家に帰ると、VRをぼんやり眺める日々を送っている。

 まだ画像自体は、完全ではない。おそらくはスペックの限界なのだろうが画像が荒く見える一瞬もある。しかし、現時点でもバーチャル世界に没入するのに十分なクォリティを得ていると思う。最初の機種からこのレベルなのだから、これからどこまで「現実」に迫っていけるか、本当に本当に楽しみである。長生きせねば。

| | コメント (0)

2017年7月27日 (木)

「対称性の自発的な破れ」はなぜ「破れ」るか?

 『時間認識という錯覚』の増補版を出すことに決めて、早速あれこれ動き始めた。もちろんその目的は「第六章」とそこで語られる様々な「戯言アイディア」を世に送り出すことにある。だから同じ本でも中身は別物と考えていい。まあ前の本の前半は流用するつもりだが。
 副題は前の「2500年の謎を解く」から「時間の矢の起源を求めて」に変えるつもりだ。

 さて今回のブログは、そこで書く内容の覚え書きのようなものだ。

 「対称性の自発的な破れ」は、増補版の目玉となる概念だが、もちろんこれは私が勝手に言っていることではなくて、2008年度のノーベル物理学賞を獲得した南部陽一郎さんの考えたことだ。
 何年か前にNスペで『神の数式』という番組が放映された。理論物理学の発展の歴史を実に分かりやすく説明した良い番組で、特に「対称性」ということについて素人にも分かりやすいように語ってくれているのが印象的であった。(私自身はレーダーマンの『対称性』という本をずいぶん前に読んでおり、ある程度理解しているつもりだったのだが。)

 その番組で、南部陽一郎さんが唱えた「対称性の自発的な破れ」についても、分かりやすく説明してくれていた。その番組では、対称性が破れる様子を「芯を尖らせた鉛筆を逆さまに立てて並べておくと、ある瞬間からそれらは一斉に倒れ始める」といった映像で紹介していた。

 素人の私は、単純に次のような疑問を感じていた。

「『対称性』というのは、完璧にバランスの取れた状態のはずだ。鉛筆を逆さまに立てておけばそりゃ簡単に倒れるだろうが、『対称性』本来の状態というのは、簡単に破れるようなものではないような気がするのだが…」

 さらに考えた。対称性が破れているものの中で、最も代表的なものは「時間の矢」だろう。前述のレーダーマンの『対称性』においても、時間だけがなぜ対称性を持っていないのかが話題の一つになっていた。時間が流れるのは当然であっていちいち悩むほどのことはないはずだと思うだろうが、流れるためには始点が必要になってくるのでそう簡単ではないのだ。つまり、時間はいったいいつ始まったのか?未解決問題が立ちはだかるわけだ。

 「時間の始まり」は、「世界の全ての事物の対称性が保たれた状態」といえるかも知れない。これにいては既に以前書いたブログ記事や、それを元にした「第六章」で説明済みである。

 しかし、さらにこう思う。

 私のアイディアである「宇宙には最初に光(ボソン)しかなかった」は、もちろん数多存在する「宇宙の始まり」のアイディアの一つに過ぎない。そもそも光が既にあることを前提としているので、純粋な意味での「始まり」としては最初から弱点を抱えている。

 しかし、「対称性」が「完全なバランス状態」である限り、実際には逆さまに立てた鉛筆のようには簡単に倒れたりしないはずだ。もしそのバランスが崩れるとしたら、それ自体のもつ「完全さ」が原因であるか、別の「完全さ」、すなわち別の「対称性」が必要になるはずだ。

 「円」、もしくは「循環」は、その「もう一つの対称性」である。

 未来も過去もなく、他のボソンとのつながりもない世界に、三つのボソンが「円」を形作り、その間で「循環」を始めたとき、「対称性が自発的に破れる」。

 この「対称性という完全性が破れるためには、別の対称性という完全性が必要になる」というのは、数学的証明に匹敵する論理だと思うのだが…


追記

 「対称性」というのは本来破れるようなものではない。「対称性が自発的に破れる」というのは、言ってみれば宇宙空間に浮かんだテニスボールが、何の力も加えていないのに突然一定の方向に加速し始めるようなものだ。だから、「対称性」を持つ存在は原則として永遠にその性格を保ち続ける。
 そのような「対称性」がもし「破れる」としたら、それは本来の「対称性」を保ったまま、別の対称性に組み込まれる時しかあり得ない。つまり「対称性」は「循環」という別の「対称性」が追加されることによって、疑似的に破れるのだ。

 

 

| | コメント (0)

2017年6月30日 (金)

無限とは何か?

 そういう題名の本(オーム社)を読んだ。

 あまり意識的に選んで買ったような本ではなく、暇つぶしの読書に良さそうな本を探していて、副題にカントールの名前があるのを見てそのままレジに持っていった。

 なかなか怪しい内容だった。

 本の裏の紹介文に次のようにある。

「無限とは何かという問題は2500年にわたり人類にとって深い謎であった。19世紀末にドイツの数学者ゲオルク・カントールは、集合論によって無限に新たな解釈を与えた。同時に様々な矛盾の存在が明らかになり、数学者達は進展をとげるには厳しい状況に置かれた。」

 本の内容そのものは、数学の話題でありながら、数学そのものはほとんど出てこず、数学者達の人間ドラマがメインの本だった。
 それでも、20世紀初頭の雰囲気が分かっただけでも私にとっては収穫だった。

 前にも書いたが、20世紀初頭といえばソシュール、フッサール、カントール、そしてアインシュタインなどなど、様々な天才達がそれまでにない学問分野を創り出した時期である。

 私はそれらの全てが、実は一つの問題を扱おうとしていたのではないかと、最近は考えている。そしてその始まりは数学だったのではないかと。

 数学は真実にしか思えない。1+1は2であると誰しも思うだろうし、どう考えてもそんな単純な論理に瑕疵などどこにも見つけられそうにない。
 そんな完全無欠なはずの数学に、「矛盾」があるのだとしたら、むしろ人の関心は、数学そのものよりも自分自身に向けられるに違いない。

 矛盾する存在に対して、それを完全であるとしか認識できない我々の心とは、そしてそれによって認識される現実とは、いったいその正体はなんなのだろうかと。

| | コメント (0)

2017年5月29日 (月)

「相対性」ということについて

 ヒトは自分の脳から出ることはできない。見ている世界は脳の中に映し出された虚像に過ぎないのに、目の前に色があり、形があり、三次元的な世界が広がっていると信じている。

 だから本当の意味での「相対性」ということをなかなか理解できない。

 例えば地動説と天動説が典型で、天動説が勘違いだとしても、だからといって地動説が正しいとは簡単には言い切れない。「地動説として捉えたときに天体の動きを計算する際に、比較的にシンプルですむ」というだけのことだ。
 つまり我々はどうしても何らかの基準点を考えずにはいられない。天動説における基準点が地球であり、地動説における基準点が太陽であるというように。空間のある点に、一方は地球がはりつき、一方は太陽がはりついているだけのことであり、どちらも特定の基準点を設けているという点では本質的な違いはない。

 実際には、太陽も地球も空間のどこにはりついているわけでもなく、そこには「まるで太陽の回りを地球が回っているかのように見える相互関係」がある」だけだ。

 世界には関係しか存在しない。

 言葉にしてしまうとなんだそんな単純なことかという感じだが、この意味を本当に正確に理解するのは簡単なことではないのだろう。

 二つの物体が、ある相対速度を持っているとして、それはどちらが動いているわけでもない。そこにはただ相対的な関係のみがある。そういわれてもピンと来ないのが当たり前だ。

 おそらくそのことに最初に気づいたのは一部の数学者であり、そして記号論の創始者であるソシュールもその一人であるに違いない。

 ヒトは自分の脳から出ることは出来ない。無意識のうちに自分の脳を座標ゼロとして思考することに慣れきってしまっていて、自分がその影響下にあることにさえ気づかない。もうそろそろ気づいても良い頃だとは思うが。自分たちが観測者に過ぎず、そしてそれは世界の本質などではないということに。

| | コメント (0)

2017年4月30日 (日)

ロードスターRF、約一ヶ月

 転勤した。最近私の業界は、自分が希望するしないに関わらず突然転勤させられるのだ。

 住んでいるところからの距離90キロが、いきなり2.2キロになった。だから転勤自体に文句は言いようがないのだが、燃費が良いらしいからと購入したRFに一日30分も乗らないことになった。

 3年間、往復180キロ、毎年4万キロ、つまり毎年世界一周ずつ走って、NCを乗りつぶしてしまっただけに、全く文句の言いようのない話ではある。が、朝夕に高速をかっ飛ばす(もちろん制限速度内で)生活に慣れていただけに、なんだか寂しい感じだ。

 うわさ通りRFは快適だ。マシングレーも想像以上にいかす色だったし、動力性能にも全く不満はない。慣らし運転をしていた時には、NCと比べてなんだかパワーもレスポンスも落ちる気がしていたが、電子制御系の「くせ」に慣れてなかっただけという気がし始めた。つまり車に体がなじんできて、自分の体の延長になり始めている。

 ただ乗っているうちに、レッドゾーンが低すぎると感じ始めた。峠道を走って、ギヤダウンして回転数を上げ気味にしたときに、感覚的にまだまだ回転に余裕がありそうなのにリミッターが作動したことがあった。NCと同じように乗った結果だから「あれ?もうリミッター??」と違和感を感じたのだ。

 それで根拠のない話なのだが、あのエンジンは本当は基本設計が高回転型なのではないかと。カタログ上の燃費をよくするために六速のギヤ比を調整し、低回転でも走るようにトルクを太くする調整をしたとか。それで、必然的に高くなりすぎる最高速を抑えるために、レッドゾーンを低く設定せざるを得なかったとか。

 単純にエンジンと会話してて、「もう少し回転数を上げて走ってくれよ~」といっているような気がしてならないのだ。

 まあ町中をのんびり走る分には全く問題ないんだけどね。

| | コメント (0)

2017年3月26日 (日)

「量子物理学の発見 ヒッグス粒子の先までの物語」-量子色力学による「強い質量」-

 科学おたくの私は、おたくの名に恥じずこれまで数え切れないぐらいの関連書籍を読みあさってきたが、この本に出てくる「強い質量」という言葉を一度も目にしたことがなかった。

 「量子物理学の発見」は、ノーベル賞受賞者であり、実験物理学の伝説的存在でもあるレーダーマンの著書である。題名の通り、本の主要な内容は2013年に発案者がノーベル賞を受賞したヒッグス粒子発見までの過程を説明したものである。ヒッグス粒子が質量を生む仕組みについても分かりやすく説明されており、一時ネット界隈でもよく目にした「雪道の例え」に納得いかなかった人もこれを読めば少し心が落ち着くはずだ。

 さて、私が問題にしたいのはヒッグス粒子の話ではなく、この本の最終章の内容である。最終第九章になって突然論調が変わるのだ。

 第九章の項目中に「ヒッグス粒子自身はどうやって質量を獲得するのか」というものがあり、冒頭部分に次のように書いてある。

「標準理論で「フェルミ(引用者注・物質の基本単位となる素粒子)のスケール」を決めているのはヒッグス粒子の質量である。しかしヒッグス粒子がなぜその質量を持つのかについては、われわれはまだ何も知らないのだ。」

 これは奇妙な話だ。これは「宇宙の中心がどこなのかは分かったが、なぜそこが宇宙の中心なのかは分からない」と言っているようなもので、矛盾しているとしか思えない。一種の循環論法とさえ思える。

 「量子物理学の発見」にはさらには次のように書かれている。

「ヒッグス粒子の質量を説明できないというのは、かなりもどかしい状況だ。それは次のような事情による。「量子色力学」(QCD)は、クォークとグルーオン、そしてこれらの粒子間に働く強い相互作用に関するみごとな理論で、一九七四年に起こった一連の大躍進によって生まれたものである。そして、いったんその理論の中身が理解され、クォークとグルーオンの存在が実験によって確かめられると、この理論は「強い質量」の由来をきちんと説明してくれた。「強い質量」とは強い相互作用によって生じる質量である。実は一九五○年代から一九六○年代にかけて発見された多くの素粒子が持つ質量はそれで、陽子と中性子の質量の大部分も「強い質量」なのである。このことをもっと早く読者のみなさんに伝えなかったことを、お詫びしなければならないぐらいだ。(中略)強い質量は、QCDで発見された固有の質量スケールから生じたもので、ヒッグス粒子からではないのである。」

 以上の引用についてはいくつか疑問点がある。

 まず一つは、「このことをもっと早く読者のみなさんに伝えなかったことを、お詫びしなければならないぐらいだ。」の部分で、なぜこの本の大半をしめるヒッグス粒子に関する記述を、最終九章になって全て否定するようなことを書くのかということ。

 次に、「クォークとグルーオンの存在が実験によって確かめられると」の部分である。かつてクォークは陽子の内部に三つあるとされていたが、最近になって「無数のクォークが湧きたっている」といった解釈に変化してきているはずだ。そもそもクォークを単独では取り出せないことが「クォーク閉じ込めの原理」とされ、この謎が解ければノーベル賞確実なぐらいである。さらにはグルーオンはまだ理論上の存在であり観測されていないはずだ。

 さらに「この理論は「強い質量」の由来をきちんと説明してくれた。」の部分である。量子色力学は、陽子内部の三つのクォークの組み合わせが〜いくつかのパターンの三つの色の組み合わせが常に白になるように〜同一の条件結果に収束するというものだ。これは数学分野で一億円の懸賞金がかかっているミレニアム問題の一つである「ヤン=ミルズ問題」とほぼ同一の内容を持っている。ヤン=ミルズ問題はその一部に「陽子の内部に質量が生じることを証明せよ」という物理学に通じるものを含んでいる。そして、それは解かれていない。もし解かれていたら新聞の一面を飾るような大ニュースになるはずだ。


 さて、ここからがいつもの戯言である。

 「量子物理学の発見」にはさらに次のように書いてある。

「QCDは、強い質量のスケールがどこから生じるのかを、驚くべき方法でみごとに説明してくれる。それによれば強い質量は、なんと、量子力学そのものから生じているのだ。」

 これ以降、この本の記述は「漸近的自由」の解説に終始し、「量子力学そのものが質量を生み出すシステム」については一切触れていない。なんだか煙に巻かれてしまったという印象だ。

 ところで、量子色力学の考え方をベースに、「量子力学そのもの」をシステムとして質量が生じる様子を理論化したものが一つ既に存在する。それは物質の基本単位である素粒子を「球状の波」とする考え方だ。以下のページを参照していただきたい。

「量子という球状の波」(クリックして下さい)


| | コメント (0)

2017年2月19日 (日)

バードストライク

 RFの払いも手続きもほぼ全て完了して、後は納車を待つだけになった。それでNCと最後の時を過ごしているわけだが、下取りの査定も終わって(5万だったが)後は静かに終わりを待つだけ…という段階になってあれやらこれやらの事件が相次いだ。

 「事件」の一つはちょっとネット上に書くわけにはいかないような話なのだが、後の話の数々を紹介しよう。

 石が一つ、鳥が一羽、フロントガラスに直撃して、石の時にほんの数ミリだが傷が入った。

 で、その話が題名の「バードストライク」かと思いきや、これがまた別の話なのである。

 昨日の昼ごろ、サービス残業をしに職場に行って駐車場に車を止めた時になんだか、ロードスター(NC)の「口」がいつもより大きいように感じた。「口」というのはもちろんフロントのエアインテークのことだが、なんだか一本歯が抜けているようなイメージなのである。顔を近づけると、空気取り入れ口の細い横棒が真ん中から折れて、片側だけ残っている状態になっている。

 あきれながら開いた口の中をのぞき込むと、鳥が一羽エアインテークに顔をつっこんで、犬神家の一族の湖のシーンみたいな状態になっていた。(わかるかな?)

 手を出そうとしたが、鳥インフルエンザのことを思い出してやめた。そのままディーラーに持っていくことにした。それでNCの「口」に鳥をくわえたまま、90キロ高速を走って帰ってきた。

 しかしまあうまいこと「口」につっこんでくるもんだ。鳥には気の毒ではあるが、高速走行中に飛んでくる物体を避けるほどの運転技術はない。

 そもそもいつ「バードストライク」に遭遇したのか全く覚えがない。フロントガラスにぶつかってきたやつは、「口」とはずいぶん離れている。直撃でなければエアインテークを突き破ったりしないはずだ。
 可能性があるのは雪で高速がタイヤ規制になったときに、前にあった小さな白い物体を避けようと思ったが、急ハンドルや急ブレーキが恐くてそのままつっこんだときぐらいだ。雪道で騒音も激しかったし、激突したような音がしたようにも思えないが。
 もし、本当にその時に「バードストライク」に遭遇したのだとすると、一週間以上鳥を「口」にくわえたまま、千キロ以上の道のりを走っていたことになる。

 鳥よ、成仏してくれよ。おいらに悪気はないぞ。南無。

 

 

 

| | コメント (0)

«観測結果としての「ブラックホール」はダーク水素(斥力物質)で説明できる