2012年5月26日 (土)

『時間認識という錯覚』第3章第4項まで公開

 架空の本、『時間認識という錯覚』の第3章第4項まで公開しました。

『時間認識という錯覚』本文はこちら

 やっと「意識」関係部分を抜け出しました。あんなものを題材にすること自体が無茶でしたね。無茶といえばこれからいよいよ話は数学的、物理的な時間に突入です。デカルトの「座標」を否定してしまいますよ^^;

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2012年5月21日 (月)

『時間認識という錯覚』第3章第3項まで公開

 架空の本、『時間認識という錯覚』の第3章第3項まで公開しました。

『時間認識という錯覚』本文はこちら

 第三項の内容が盛りだくさんになりすぎたので、前半後半に分けてしまいました。従って次項が第4項ということになります。今回も自己添削ゼロ状態なので、暇な時に書き直す予定…。

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2012年5月13日 (日)

『時間認識という錯覚』第3章第2項まで公開


架空の本、『時間認識という錯覚』の第3章第2項まで公開しました。

『時間認識という錯覚』本文はこちら

 いつものように、とりあえずアップしておいて、これから自己添削です^^;

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2012年5月 6日 (日)

『時間認識という錯覚』第3章第1項まで公開

 架空の本、『時間認識という錯覚』の第3章第1項まで公開しました。

『時間認識という錯覚』本文はこちら

 例によってこれから自己添削です。

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3D映画

 人の恋路を邪魔するやつは馬に蹴られて死んでしまえじゃないが、3D映画の発展を邪魔しちゃあいかんという余計な遠慮が働いてこれまで語ってなかったが、ずばっと言ってしまえば3D映画は目が疲れる。人によって向き不向きがあるらしいが、私は不向きの極北らしい。
 で、なぜ恋路を邪魔するようなことを書き始めたのかというと、ちょいとその対策をいくつか思いついたからだ。カテゴリが「時間意識戯言」なので、つまり戯言なのだが…

 3D映画は、一こまずつ左目相当と右目相当のカメラで代わる代わる撮影する。それを映画館で観る際には特殊な眼鏡をかけて観る。画面に同調して一コマずつ右目左目の液晶シャッターを閉じ、擬似的に右目と左目に現実に近いずれのある視覚情報を送り込むことで、立体感を感じさせるという仕組みになっている。

 疲れる原因は複数考えられる。一つには、左右どちらかを液晶シャッターで閉じているわけだから、単純に目に届く光量が半分になるということが考えられる。右目と左目がそれぞれ一こまずつ真っ黒になる訳だから、それも脳に届く情報を混乱させる基になっているはずだ。
 また、本カテゴリに以前書いたように、我々は視野の中心部分に来た物体についてはしっかり情報処理してぶれのない明確な輪郭の像を脳内に結ぶことができるが、視野の周辺部分は意外にいい加減でぼやけている。実際に3D映画を観ると、画面の全ての場所がそこに視線を合わせた時にぴったり立体感を感じられるように作ってあるようだ。そういった現実の認識のあり方とのずれが、我々の脳の混乱を招き、目の疲れにつながっているのではないかと考える。

 で、戯言解決策を考えてみた。

(解決策その①)液晶シャッターを完全に真っ黒にするのではなく、軽く光を散乱させる程度の透過性の物にする。

 本カテゴリのパラダイムからは、両目から送られてくるずれのある視覚情報は脳内で明確な輪郭のある情報に書き換えられる。しかも視神経は半交叉して、右脳左脳両方に同時に送り届けられる。だとすれば、わざわざ左右それぞれの目に、現実通りの視覚情報を見せなくても脳の方が勝手に処理してくれるはずだ。視野の中心部分はややぼやけた感じになるかも知れないが、光量が半分にならずに済むというメリットの方が大きい。

(解決策その②)専用眼鏡の中心部分だけをクリアにして、周辺にいくほど磨りガラス状に光を散乱させる。

 そもそも、我々は視野の周辺部分をいい加減にしか認識していない。だとすればぼやかしてしまっても問題ないはずだ。むしろぼやかしてしまった方が、「蛇の回転」が視野の周辺部分ほど激しく動いて見えるように、動きがスムーズに見えるはずである。→ 現在執筆中の『時間認識という錯覚』を参照 画面の隅々までしっかり観るためには首を動かす必要があるが、その方が臨場感が増すというものだ。

 で、改めてお断り申し上げるが、戯言である。自分で実験してみたわけでも何でもないのだが、適当な文章を書き散らしてみたくなって書いてみた。あしからず。

追記

(解決策その③)両目とも液晶シヤッターが開いている時間を作る。

 片方のシャッターが閉じていることが疲れの原因なんだろうから、両方開いている時間を作ってみる。「マジックアイ」みたいな一枚の絵でも立体効果があるんだから、全ての時間をどちらか一方閉じていなくても立体視できるとみた。………まあ戯言ですが。

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2012年4月30日 (月)

「時間認識という錯覚」第二章まで

 第二章を全文公開しました。ニューロンとの格闘終了。

「時間認識という錯覚」はこちら

 ほとんど自己添削もしていないので、とりあえずアップしておいて読み込みます。

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完全無欠な証拠

 今までなぜ気がつかなかったのか自分でも不思議なぐらいだが、3D映画の仕組みは本カテゴリ「時間意識戯言」の枠組みの完全無欠な証明になっている。

 ほんのちょっとした思いつきから始まって、足かけ5年もの長期間に渡って書き続けてきた「時間意識戯言」だが、これまで「戯言」の核の部分の証明が、可能性のある現象の提示というレベルさえ思いつかず、不安要素を抱えたままだった。
 両目からの異なる視覚情報を脳内でステレオグラム合成していることは、いつでも確かめることができる100%確実な真実だ。しかし、その機能が「過去」の残像と「今」この瞬間の視覚情報にも作用可能なものなのかという点については、これまで確信が持てないでいた。つまりステレオグラムの機能は、両目からの視覚情報が同時であるということが作動条件なのではないかと反論される可能性がまだあったのだ。
 
 ところが、昨日の晩「架空の本」を執筆中に、ふと3D映画の仕組みが、過去と今とがステレオグラム合成されることの完全無欠な証明になっていることに気づいた。

 3D映画の映像は、特殊な眼鏡によって左目と右目とをフィルムのコマ一つ分ずつ代わる代わる液晶シャッターで閉じている。映画は1秒に24コマが連続的にスクリーンに投影されているから、コマ1つ分の担当時間は約0.04秒である。したがって左目からの情報と右目からの情報は同時ではなく、それぞれ0.04秒ずつずれた過去と今とを、入れ替わりながら担当している。我々がそこに立体像を認識する以上、時間的にずれた視覚情報が脳内でステレオグラム合成されていることは疑いようもない真実である。
 

 正直言えば「戯言」という枕詞を削ってしまいたいぐらいに確信を持ち始めた。
 

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2012年4月22日 (日)

『時間認識という錯覚』第二章第二項まで期間限定公開

 執筆中の『時間認識という錯覚-2500年の謎を解く-』を、第2章第2項まで拙宅「熊男の住処」で期間限定公開しました。→ こちら

 予定文字数はここまでで推定5分の1。全部書き終わったら、どこか出版社に持ち込むつもりです。(おい)

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2012年4月12日 (木)

第1部期間限定公開

 『時間認識という錯覚-2500年の謎を解く-』の第1部を「熊男の住処」に期間限定公開します。

 まだまだ核心部分の執筆はこれからですが、時間に余裕のある方はご覧になって下さい。

『時間認識という錯覚-2500年の謎を解く-』第1部はこちら

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2012年4月 3日 (火)

プロローグ

「 時の流れは極めて日常的な存在だ。我々はいつも時間を気にしながら生きている。映画の上映時間を気にし、仕事の締め切りを気にし、子供たちは授業の終了時間を気にしながら生きている。
 だが、我々の目の前を今この瞬間も流れている「時間」が、我々の認識の結果としてでしか存在しないということを証明するのがこの本の主目的なのだ。
 この本の中にはいくつか確実に言えることがある。ある仕組みが人の時間認識を生み出しているというのもその一つである。厳密に言えばその仕組みは、そのように考えれば時間の流れについて比較的単純に説明可能になるということに過ぎない。しかし、それが真であるなら、それによって時間に関わる他の様々な分野の謎を解く可能性が生まれる。さらには時間を認識しながら生きている我々自身の心について考える手がかりにもなる。本書では、それらについて説明することで、その仕組みの真偽及び有用性の有無を世に問いたい。
 話は2500年前のギリシャの哲学者の言葉から始まる。有名な「ゼノンのパラドックス」の「飛ぶ矢のパラドックス」である。時間認識に関わる言説全てを追うことが目的ではない。「飛ぶ矢は実は止まっている」というその逆説が、詭弁や妄言ではなく、我々の認識の本質を言い当てているからである。2500年の時を経た現代に至るまで、それを証明するための条件が整ってなかっただけなのだ。
 本書で使う言葉の一つひとつは本書の中で定義づけられている。したがって本書は、このような分野について全く予備知識を持たない方にも納得してもらえるように書かれている。この本を読み終わった時、自分の目の前を流れる時間を、自分の周囲の様々な光や音を、自分の心の中の言葉の一つひとつを、静かに観察したくなるはずだ。」

追記

 いや、もうこれでやめにしておきます。後は本を買って読んで下さい。(おい)
 というか、これはあくまでもたたき台なので、自己添削しながらどんどん変化していく予定のものです。プロトタイプ。だからたとえ最初の一ページとはいえ、紹介するのは早かったかも知れません。

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2012年3月25日 (日)

続・アキレスと亀 -擬似的な一つの系-

 アキレスと亀についての追記である。

 前回の記事で私は、次のように書いた。

「異なる慣性系上にあるものを、それぞれに寄り添う複数の視点によって擬似的な静止系として扱っているのが数学だと先に述べた。「瞬間」という架空の状態を想定し、その上で異なる慣性系をあたかも一つの系であるかのように記述している。」

 これは前に書いた「ゼノンのパラドックス」の記事と全く同じ観点である。「アキレスと亀」についても、この箇所を使った方が説明しやすいような気がしてきた。

 グラフ上に示された複数の「点」は、本来異なる慣性系であったものが、まるで一つの系であるかのように記述されたものだ。それは一枚の紙の上に書かれた絵のようなものだ。それを数限りなく重ね合わせることで、それ自体を記述することが困難な「動き」について記述することに成功している。
 いわば「動き」をいったん凍らせて、かつて「動き」だった氷の塊をその軌跡にそって並べることで、もとの「動き」を再現しようとするようなものだ。

 どの瞬間を捉えても「動き」を凍らせることができる。しかしこの「瞬間」はその瞬間だけのものである。異なる慣性系だったものを静止させ、複数の系をまるで一つの系のように扱うことで他の「瞬間」との関係~「流れ」というべきか~を切り離し、数学的に記述することが可能になった。それによってどんな「瞬間」の「点」相互の関係をも記述できるようになったが、当然の結果として「瞬間」相互の本質的なつながり~「流れ」~を記述することができなくなった。つながりが無くなってしまったものを並べることで、擬似的な「つながり(流れ)」を記述することはできるが。

 「アキレスと亀」の問題は、単にアキレスが亀に「追いつく」という結果に対してだけでなく、途中の道中全てにあてはまる。亀まで1mの時点でも、10cmの時点でも、それに至るまでに無限の「点」を通過することには代わりはない。
 「アキレスと亀」も「飛ぶ矢のパラドックス」も突き詰めれば、「動き」とはなんなのか、複数の慣性系を同時に観測するとはどのような意味を持つのか、そしてそれらを数学がどのように扱ってきたか、という点に集約されるのではないか。
 それは我々の認識の問題であると同時に、我々が自らの認識に対してどのような認識を持っていたかという問題と言えるかも知れない。
 

 
 
 

 
 

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2012年3月23日 (金)

逆まつげ

 私の左目の上まぶたには逆まつげがある。
 
 それが一本だけ、しかも見えるか見えないかというような細いものが、眼球に接するぎりぎりのところにひょろっと生えている。抜いても抜いても同じところから生えてくるので、定期的にケアするしかない。

 その存在に気づいたのは多分コンタクトをつけるようになってからだ。おそらくそのひょろっと細いものが、装着したコンタクトと眼球の間に挟まってしまうのだろうが、目がなんだかごろごろして、コンタクトなのに曇ったような感じになる。それで「ああ、あいつがまた顔を出したな。」とわかるのだ。

 ここ数ヶ月、実は目がごろごろしていた。そいつが生えてきたのかなと思って、鏡をしつこくのぞきこんでみたが、どこにもそのひょろっとしたやつは見あたらない。それでコンタクトが傷んだせいか、ひょっとしたら何とか炎の類にかかってしまったのではないかと内心びくびくしていた。

 たまたまコンタクトが割れたので、新しいレンズに替えてみた。すると視界は見違えるように鮮明になったが、やはり激しい運動をした後など、レンズと眼球の間に涙だか汗だかわからないものが溜まってしまって、視界が曇ってしまう。テニスでここぞという時にそんなふうに片目だけぼやけて、悔しい思いをしたことが何回かあった。

 ほんの数日前、レンズをつけようとして、ちょっとした光の加減でなんだか細いものが一瞬見えたような気がした。その見えたような気がした角度で何度も鏡をのぞきこむと、こどもの頃から見慣れた逆まつげが定位置に生えているのをついに発見した。

 なんと、そいつは白髪化して、透明になってしまっていた。

 で、今現在テニスは恐いぐらいに絶好調である。物がはっきり見えるというのはなんと素晴らしいことか。今年一年はエントリーできる試合にはすべてエントリーするつもりだから、前回の三回戦以上の成績を目指すつもりだ。そしてB級に参入してポイントゲットするぞ!

※ いやB級というのはテニスクラブの現役コーチ達が出るような試合なので、真面目に一勝するのも大変なのですが…。まあ目標は常に高く持ってということで…^^;

 

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2012年3月20日 (火)

アキレスと亀

 一つ前の記事の枠組みを使えば、同じ「ゼノンのパラドックス」の「アキレスと亀」についてもあれこれ語れそうだから語ってみる。
 古代ギリシャの英雄アキレスがある時亀と競争した。亀にはハンデをつけて先に行かせ、アキレスがそれを追いかけた。
 ところがアキレスは亀に追いつけない。アキレスがスタート時に亀がいた場所に到達し、顔を上げてみると、亀はそれより少し前に進んでいる。またアキレスが先ほど亀がいた場所までたどり着いて顔を上げると、亀はまた少し先に進んでいる。
 それを延々繰り返して、亀とアキレスの間はどんどん縮まってはいくが、縮まるだけで永久に追いつくことはない。これが「アキレスと亀」というパラドックスの全てだ。

 一つ前の「飛ぶ矢のパラドックス」で次のように述べた。
 数学は異なる慣性系を「無限の視点」によってそれぞれ擬似的な静止系と見なし、「点」として扱うことを可能にした。それによって、実際には認識不可能な「瞬間」という状態における異なる慣性系相互の関係を、「客観的」に記述することに成功したと。

 「瞬間」というのは一枚の絵のようなものだ。人の認識のままでは「動き」という正体不明な状態にある系の一つひとつを、「瞬間」というキャンバス上に「点」として固定する。その絵を連続写真のように重ね合わせることで、系自体の軌跡と系相互の関係とを記述している。

 この時、それぞれの「点」が同じ座標に位置する-アキレスが亀に追いつく-ことには、どのような意味があるか。
 異なる慣性系上にあるものを、それぞれに寄り添う複数の視点によって擬似的な静止系として扱っているのが数学だと先に述べた。「瞬間」という架空の状態を想定し、その上で異なる慣性系をあたかも一つの系であるかのように記述している。
 それらの擬似的な「点」が同じ座標に重なった時、それぞれの「点」が本来持つ特徴である、異なる慣性系、異なるベクトルの「動き」、という本質が現れ出る。二つの「点」の関係を記述するだけなら有効だった数学の限界が、重なり合った瞬間に露呈する。
 それらはたとえ同じ座標にあったとしても、本質的な意味では同じ座標に到達しているとはいえない。それは異なる波長の波が波の状態を保ったまま重なり合うようなものだ。数学的な記述である「異なる慣性系の座標の一致」は、実際には一致していないのであり、それを同じ座標として扱うこと自体が、いわば異なるパラダイムの基に定義づけられた言葉を同じ意味内容のものとして扱い、それに気づかないでいるようなものだ。
 つまり、二つの「点」がほんの少しでも離れている状態と、完全に一致している状態とでは、そもそもそれらの概念を定義づける枠組みそのものが異なっている。数学は、それぞれ異なる慣性系を擬似的な静止系として扱った上に、さらにそれらを「同じ座標」上に重ねてしまうという二重の疑似状態を創り出してしまっている。もしその「同じ座標」が本当に一つの座標であるなら、それまで複数だった慣性系が一つを残して後の全てが消失してしまったということになる。
 「無限の視点」によって擬似的な静止系-「点」-として扱われたそれぞれの慣性系は、それが本来他の「点」、すなわち他の慣性系とは異質な存在であるため、そのどれをも消し去ることはできない。つまり「点」と「点」の関係を記述することはできても、それを重ね合わせることはできない。アキレスは亀に永遠に近づき続けるが、永遠に重なり合うことはないのだ。

 人の日常的な認識においては、いとも簡単に亀に追いついてしまうアキレスが、数学的には永遠に追いつけないなどといったパラドックスは、数学の持っている性質そのものから来る。


追記
 
 で、これだけ書いておきながら、アキレスと亀には手を出すべきではなかったと、後悔しています…。

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2012年3月16日 (金)

ゼノンのパラドックス再び -数学という無限の視点-

 私は以前「飛ぶ矢のパラドックス」という記事で次のように書いた。

「『動いている物体』に視点を寄り添わせること自体が、瞬間を積み重ねるということと明らかに同義ですね。」

 だが、「明らかに」などといった言葉を使いながら、この一文はこの時点では感覚的、直感的なものだった。

 「飛ぶ矢のパラドックス」は、これまで説明してきたように「ゼノンのパラドックス」の一つである。
 飛んでいる矢はある瞬間を捉えれば止まっている。時間の流れが瞬間を積み重ねたものであるなら、止まっているもの、つまりゼロをいくら積み重ねてもゼロだから、飛ぶ矢は実は止まっている、というものだ。
 もちろんそんなばかげたことは誰も信じないだろう。人の目の前を飛ぶ物体は、それにどんな屁理屈が付け加わろうが、実際に飛んでいるのだから。
 しかし、このパラドックスは本質的な意味では2500年間解かれていない。

 この問題は、「動き」とはなんなのかという疑問と同義である。

 ジョセフ・メイザーという数学者の『THE MOTION PARADOX』という本からの受け売りだが、数学においてもこの「動き」の謎は解かれていない。その瞬間における「動き」そのものを記述できないために、数学は一つの方法として、物体の「動き」を単位時間に進む距離に置き換えて表現した。例えば時速60kmと言う時のkm(距離の単位)がそれだ。また別の方法として、一定時間分の「動き」のデータをグラフ化し、その曲線の接線という形で特定の瞬間における「動き」を記述しようとした。つまり微分だ。
 ここまで読んでわかるように、結局数学は一定の幅を持つ時間の中での「動き」の軌跡を分析することでしかそれを記述することができない。ある一瞬間の、純粋な「動き」そのものを記述できないまま、2500年の時が流れてしまっている。

 冒頭に記した「飛ぶ矢のパラドックス」の記事を書いた後も、疑問は残っていた。
 飛ぶ矢に視点を寄り添わせれば、飛ぶ矢は止まる。しかし相対的に、飛ぶ矢の周囲の風景が飛ぶように流れ始める。周囲の風景に視点を戻すと、飛ぶ矢は再び飛び始める。
 視点を寄り添わせた「動く」ものは観測者にとって静止するが、代わりにそれまで静止していた全てが、「動き」始める。それがいたちごっこのように続くだけで、いつまでたっても「動き」を静止させることはできない。

 だがこの「観測者にとって」という部分こそがポイントなのだ。

 「視点を寄り添わせる」と書いてそれをイメージする時、私は心の中で自分自身の体をその「動く」物体に寄り添わせている。「動く」物体と同じ慣性系に乗っかり、そこから周囲を眺めている。そうすると当然周囲は相対的に「動き」始めるように見える。
 だが、実際には「『動く』物体に寄り添う視点」は観測者ではない。視点は、その視点が置かれた慣性系のみを数学的に座標ゼロとして記述するためにあるのであって、他の慣性系と自分が寄り添っている慣性系との相対的関係を「観測」するような質のものではない。
 だから、一定の慣性系に視点を寄り添わせた時に、それまで静止系だった全てが「動き」始めるという記述は、数学的な問題ではなく人の認識の問題と言える。(※ この一文に穴があるのは承知しているが、それについては後日記述するとして、話を進める。とごまかす。)
 これを人の認識の問題に押し込むことができるのなら、「時間意識戯言(A mystery of the time consciousness)」のパラダイムの擬似的な「時間の幅」によって「動き」を説明することができる。

 ではなぜある瞬間における、「動く」物体と周囲の静止系との相対的な関係を、数学的に記述することができるのか。実際には人の認識によってしか捉えることができないものを、正確な現実として記述できるのか。

 それは数学が「無限の視点」によって記述されているからだ。(※「無限の視点」とは、これまた本カテゴリで私が使っている一種の造語だが、詳細についてはリンク先の記事をご覧になっていただきたい。)
 数学的に示された座標の全ては、その慣性系に寄り添った視点で表現されている。したがってある慣性系と別の慣性系との相対的関係を数学的に記述しようとする時、数学は二つの系にそれぞれ寄り添う視点を同時に使っている。それによって二つの系の両方についていわば擬似的な静止系として記述することに成功している。

 だが、我々現実の観測者たる「人」は、一度に一つの視点しか持つことができない。そのことが様々なパラドックスとなって、時折、我々の目の前に現れる。

 「飛ぶ矢」を写真撮影してみよう。もちろんカメラは大地に固定して、「動き」をありのまま捉える。
 シャッタースピードが遅ければ、飛ぶ矢はぶれて見える。そこにはシャッタースピードに応じた「時間の幅」が転写されている、とも言える。シャッタースピードをどんなに速くしても、その露出時間に応じた擬似的な「時間の幅」が、写真上の像の「ぶれ」として記録される。「ぶれ」のない写真などあり得ない。「ぶれ」が全くないということは露出時間がゼロだということだ。「動く」物体を撮影する限りにおいて、必ず「ぶれ」は生まれる。
 ニューロン群のループ反応によって創り出され、「動き」を認識するための最小単位となる擬似的な「時間の幅」は、この「ぶれ」と同質のものだ。
 固定したカメラをスタンドから外して、「動く」矢にぴったり同調して動かせば、矢の「ぶれ」は消える。その代わり今度は、周囲の風景が「ぶれ」始める。

 「飛ぶ矢のパラドックス」の、ある瞬間において「飛ぶ矢」と「周囲の風景」のどちらも「ぶれ」無く静止した状態とは、「無限の視点」によって対象物の全てを擬似的な静止系として記述したものに他ならない。そういった数学的記述と、一つの系にしか視点を寄り添わせることができない現実の観測者による記述とを混同させたことが、「飛ぶ矢は止まっている」という論理上の矛盾を生んでいる。

 冒頭の太字の記述に戻ろう。
 ある瞬間を「ぶれなく」記述し、その瞬間を積み重ねることは、全ての系に視点を寄り添わせることと同義である。それは、「無限の視点」によって現実を記述できる、数学のみが可能にする所作といえる。


追記

 後でなんやらかんやらネットを検索しているうちに、スカラーやらテンソルやらどっかで聞いたことはあるけど意味はさっぱりわからないものに出くわして、座標を必要としないとか何とか。
 この記事で私が言いたいのは、「点」という概念そのものが最初から「無限の視点」によってでしか存在し得ないものなのではないかということです。(なんのこったい)

 

  

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2012年3月 8日 (木)

一つのコンタクトを使い続ける男の話

 今朝、コンタクトを洗っていて、パキッと割ってしまった。
 仕方がないので片目だけレンズをつけて出勤した。
 すぐに購入した眼科に電話をかけたが、カルテを調べてみると前回購入したのが5年前だということだった。「間違いないですよねえ。」という電話の向こうの看護婦さんの声があきれた調子だった。

 そういえば最近どうも装着感が良くなかった。なんだか目がごろごろするので、ついに何とか炎の類をやってしまったのではないかとびくびくしていた。ひょっとしたら既に割れた状態のまま使っていたのかも知れない。

 大体私は物持ちがいい。単にケチなだけかも知れないが。
 確か、10代から30代にかけて、一つのコンタクトを14年間使い続けたと記憶している。

 ある日の夕方、土手をランニングしていて風で目にほこりが入った。コンタクトはほこりが入ると身動きが取れないぐらいに痛む。それで立ち止まって目をこすっているうちに、コンタクトがぽろりとこぼれ落ちた。
 どうも草むらに入ってしまったらしい。夕暮れ時の薄暗い光を頼りに30分ほど探したが、見つからなかった。転がっていったあたりに石を積んで目印にしてその日は帰った。次の日また出かけていって、探すこと1時間、ついに草の間に転がっているレンズを発見した。普通に買いに行けばすむものを、そこまでして探すというのは、どうも探し出すことそのものをおもしろがっていたような気もする。

 30過ぎのある年、ついに片方のレンズが割れてしまって、買い直しにいった。ところが以前お世話になった眼科が無くなってしまっていた。仕方がないので適当に電話帳かなにかで眼科を見つけて出かけた。
 生き残った方のレンズを見せると、そこの眼科の医師から「これは表面が汚れて結晶化してますね。よくまあここまで使い続けたもんですね。でも危ないですからこんなになるまで使わないで下さいね。」と、変に感心されてしまった。

 というわけで、(半分以上諦めているが)万一私が結婚できるとしたら、第一のセールスポイントは絶対に裏切らないことですな。これはそう努力するとかいう類の話ではなく、私の性格そのものと言っていい。(なんでそこに話が行きますねんと、一人ぼけとつっこみ。)

追記

 次の日には新しいコンタクトが手に入りました。ついでに残った方も替えてしまいましたが、びっくりするぐらいに視界が鮮明になりました。もっと早く替えてしまえば良かった…。
 

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2012年3月 5日 (月)

意識の実体(その3)

 例によって覚え書きだが…。

 この一連のシリーズ記事で、「意識は常にある対象に対する意識である。」という現象学の「志向性」の考え方を拡張して、「現実認識は人の意識そのものである」と(戯言を)語ってきた。

 これまで私が書いてきたことから次のようにも言えるかも知れない。

 一つには「時間」の謎がある。
 瞬間瞬間を捉えれば、動く物体も止まっている。だから、時間の流れを瞬間の積み重ねと捉えるのなら、動く物体は実は止まっているという謎。この「ゼノンのパラドックス」は2500年前から本質的には解かれていない問題である。
 また一つには「思考」の謎がある。
 時間は止まることなく流れ去っていく。一瞬たりとも過去はその場にとどまることがない。だとしたら「現在」という瞬間には幅がないということになる。我々はどうやって「幅のない時間」の中で脈絡ある思考を保ち続けているのか。

 それらの謎に対する一つの答が「同じ刺激に反応するニューロン群が、互いが互いを刺激し合ってループ反応することで、一定の状態を保ち続けている。」というものだった。このループ反応が脳内で処理されて、人に「(擬似的な)時間の幅」を与えている。
 二つの謎に共通しているのは、その成立にそのような「(擬似的な)時間の幅」という条件を必要とする点である。「動き」にも「思考」にもそれが成立するためには最低限の「時間の幅」が必要である。その成立に同じ条件を必要とすることが、「時間認識」と「意識(思考)」とが表裏一体の同じ物であることを暗示している。

 「現実認識(時間認識)は人の意識そのものである」ということの最大の根拠はそこから来る。仮説の上の仮説ではあるが…。

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2012年2月27日 (月)

意識の実体(その2)-記号論と現象学-

 十数年前に記号論と現象学に出会って以来、私がそれらのパラダイムの圧倒的な影響の下にあるということについては何度か語ってきた。

 現実が先にあってそれに言葉という名前がついているのではなく、目の前の光と音の洪水に言葉によって切れ目を入れて初めて認識可能な「現実」が生まれてくるという記号論の考え方。
 「意識はつねに何かある対象への意識である。すなわち現実と意識とはつながっている。」という現象学の「志向性」の考え方。

 ソシュールにしてもフッサール(ブレンターノというべきか)にしても、おそらくは一切の先入見、一切の雑音を消去して、この現実この瞬間を生きている自分自身の感覚だけを頼りにそれらの考え方に到達したのだろう。

 前の記事、「意識の実体」の内容は、記号論や現象学の考え方そのものと言っていい。

 現実認識は人の意識そのものである

 我々は現実を認識する際に半ば無意識に言葉を目の前の光景に当てはめる。そしてその言葉を構成する音素に反応するニューロン群を脳の中でループ反応させ始める。同時にその言葉に関連づけられた、他の様々な言葉に反応するニューロン群がループ反応し始め、脳の中で把持、すなわち待機状態に入る。さらにそれらの言葉に関連づけられた感覚器官に近いモジュール(エージェント)が呼び起こされ、心の中に擬似的な「現実」が創り出される。

 我々は脳の中で自在に「現実」を創り出し、それを操りながら生きている。外部からの刺激による「現実」と、脳の中で創り出された「現実」とが重なり合いせめぎ合う。外部からの刺激による「現実」の実体が言語認識だからこそ、それが可能になる

 記号論や現象学は、人の現実認識のあり方を探るだけでなく、人の意識そのものを追究していたのかもしれない。


追記

 私が「言葉」を中心に置く最大の根拠は、それが音であり、最も日常的で、最もニューロン群のループ反応を引き起こしやすいと考えるからです。前にも同じことを書いたかな…。

追記

 抽象概念というのも、感覚器官への刺激を伴わない擬似的な「現実」と考えても良いのではないかと。ただ抽象概念といっても、現実の事物からそれこそ「抽象」されたものではあるし、実質的なメタファーも多いだろうから、こんなことは別に断るまでもないような気もするが。

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2012年2月26日 (日)

意識の実体

 思いつきのメモ書き程度だが…(実はずいぶん前から考えていたことだが)。

 多分日経サイエンスの記事だったと思うが、事故か何かで完全に視覚を失っているはずの人物が、物が見えていないはずなのにすいすい目の前の障害物を避けて歩くというエピソードが紹介されていた。これは人の意識の実体を暗示しているように思われる。

 以前私は、時間意識をもたらすニューロン群のループ反応について(戯言を)語る文脈で、意識の実体は言語であると述べた。フッサールの『内的時間意識の現象学』にもあるように、我々が耳にしている「音」は、「今」と把持された「過去」との合成である。外からの音の刺激が連続的にニューロン群に刺激を与え、さらにはそれらのニューロン群が互いに刺激し合いながらループ反応し始める。それは外部からの刺激から独立してニューロンが発火可能であることを意味する。それこそが言語の元であると。

 それらの「音」は、他の感覚器官-つまり視覚等-の刺激による反応とリンクし、現実認識を反映した「意味」を脳内に創り出す。つまり、言語、すなわち「音」が意識の実体であるといっても、単に頭の中で「音」が鳴り響くのではなく、その「音」とリンクした他のニューロン群と共同作業が、我々の現実認識を生み出す。この「他のニューロン群」は、モジュールだとかエージェントだとかいった言葉で表してもいいかもしれない。

 ところで、先に述べた視覚を失いながら歩行できる人物の例だが、これは脳内の現実認識のためのシステムがその全てが働かなくても機能できるということを暗示している。
 我々は日常的に周囲の光景を眺めながら、無意識のうちに言葉を使い、そこから意味を読み取りながら生活している。それは、周囲を見回す度に頭の中で音が鳴り響くというのではなく、音につながった他のモジュール(エージェント)のみが呼び起こされ、それらの機能だけで現実認識がなされていると考えるとわかりやすい。

 おそらくは我々の意識も、そういった現実認識のシステムをそのまま流用している。というより、現実認識のシステムそのものが意識であるというべきか。
 我々は音のない「音」を頭の中で響かせ、さらにその「音」に関連する記憶の中の「音のない『音』」を脳の他のモジュール(エージェント)から呼び起こし(例えば海馬のような…)、目の前にはない「現実」をありありと思い浮かべ、思考している。それらは聴覚や視覚そのものに直結するモジュール(エージェント)とは別に機能できるため、思考し始めたからといって突然目の前の光景が思い出の風景に切り替わったりするようなことは起こらない。視覚を失いながら歩行できる人物の例からわかるように、直接的具体的な視覚イメージが無くても、「現実」を認識することは可能なのだから。

 ただし音に関する限りは、映画などの口を閉じたままの登場人物の言葉、つまりモノローグがなんの違和感も感じさせないことからも、我々が心の中で思考しながら、実際に脳の中で「音」を響かせていると考えてもなんら問題ないとは思うが…。


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2012年2月18日 (土)

質量(その2)

 ちょっと前に書いた記事「質量」の補足である。

 「質量」の定義は「動かしにくさ」である。ちょっと前の記事において私は、物体が慣性運動している状態、つまり本カテゴリの文脈では静止しているとも言える状態において、物体はそれ自体の重力が創り出す空間のゆがみの中心に自ら転げ落ち続けている、と書いた。それが加速や減速の際の物体の「動かしにくさ」を創り出していると。

 この考え方は、「空間のゆがみ」といった相対性理論的な表現を使わなくても、引力の存在だけで説明可能である。

 我々が立っている地球について考えてみよう。リンゴの例えなどを持ち出さなくても、地球が重力を持っていることなど誰でも当たり前に知っているはずだ。しかし、重力は一体地球のどこから来るのか?
 自分が今立っている足下のこの地球から石をひとかけら拾ってみる。小さな石ころも、我々に拾われるまでは地球の一部であったに違いない。つまりこの石ころも重力の発生要因の一つだったはずだ。だが、石ころを手から離すと、まるで地球とは別の存在であるかのように「地球」に向かって落ちていく。つまり石ころは地球の一部であるにもかかわらず、それ自体が地球全体からの重力の影響を受けて、地球の中心に向かって引っ張られ続けていることになる。

 この考え方を発展させて、例えばエベレストの山頂付近を数百メートル分切り取っても、全く同じことが言えるだろうし、さらに極端に言えば地球をリンゴみたいに八分の一ぐらい切り取っても、同じことが言えるはずだ。つまり物体は互いの創り出す重力場の影響を受け、互いが互いに向かって引っ張られ続けている。それが何重にも重なり合って、「地球」という単一の名称を持つ、物体の集合体の、強力な重力を創り出している。

 ここで肝心なのは、物体相互を引きつけているのは重力「場」であって物体そのものではないということだ。くっついてしまったらなかなか離れないというのではなく、物体の周囲の空間がそれぞれを引き寄せているということになる。
 例えば、地球をリンゴみたいに真っ二つにして片方を引きはがそうとすると、残された片方が創り出す重力「場」が、はがれようとする半分をその場に引き留めようとする力が働く。それは疑いようもなく「動かしにくさ」そのものであるはずだ。
 極端に言えば、地球を構成する粒子の全てが、他の全ての粒子が創り出す引力の影響を受けて、押しくらまんじゅうのようにひしめき合い、結果としてその場にとどまり続けようとする。静止系、もしくは慣性系としての状態を保とうとする。

 粒子という言葉を使ったが、物質を構成する最小単位である素粒子についてはどうか?

 最近雑誌等の記事に、素粒子自体は理屈の上では質量を持たないはずだとあった。
 もし、素粒子一つが持っている引力がその素粒子自身に対しては作用しなかったとしても、つまり素粒子の創り出す重力場が、それ自身に対しては「動かしにくさ」、すなわち質量を生む原因になっていなかったとしても、素粒子が二つそろった瞬間に、「動かしにくさ」が発生する。それぞれがその隣にいる素粒子の作り出す重力「場」の影響をうけ、引きつけあう。素粒子が重なり合って原子となり分子となり物体となっていくにしたがって、重力「場」は力を増し、物体自体の「動かしにくさ」を強化していく。

 このように、相対性理論的に「重力の創り出す空間のゆがみが物体そのものをその中心に転がり落とし続ける」などといった表現を使わなくても、「引力」という概念だけで「質量」を説明できる。


追記

 「石ころひとかけらの持つ引力程度で『質量』が生まれるなんて、それは力不足だろう。」と思われるかも知れませんが、「質量」と「重さ」は別物ですから「質量」自体はいたって「軽い」ものですよ。力自慢で航空機を引っ張るのを見たことがありませんか?摩擦係数を0にしたら、我々でも山一つぐらい引っ張れるかも知れません。(はったりですが^^;)

追追記

 あれこれネットを検索してみて、グラビトン(重力子)という言葉を見つけた。引力を創り出すのはこれだそうだ。グラビトンの定義が真実で、他の素粒子は引力を持っていないとしても、今回書いた話は成立する。すなわち、グラビトンが二つそろった時点で「質量」すなわち「動きにくさ」が発生すると。

追追追記

 物体を動かそうとした時、つまり物体が加速した時に、重力場がその物体から引きはがされそうになる、という表現がわかりやすいのかな。その時に生まれる抵抗が「動かしにくさ」、つまり質量を生むと。ある程度以上の物体を動かした時に重力波が生まれるらしいし、そういったことも「引きはがされそうになる重力場」のイメージに合うような気もするのですが…。
 確か重力は光と同じように伝播するための速度を持っているとどこかに書いてあった。そのことも「引きはがされそうになる重力場」のイメージに合う。

追追追追記

基本相互作用といって、物体には4つの基本的な「引力」があるらしいですね。というよりそれを研究するのが素粒子論の核らしい。
そんなことも知らずにこの記事を書いていた訳で…(^_^;)

 

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2012年2月15日 (水)

 何となく思い出したことがあるので書いてみる。
 多分雨が降っているからだろう。
 自己カウンセリング系の話なので、つまり極めて個人的な話なので、そういうのが苦手な人は読まない方が良い。

 十代の終わり頃に右のまぶたの手術をした。前にも書いたが私は生まれつき右目が眼瞼下垂だった。右目だけまぶたの筋肉がほとんど動かず、半分片目を閉じたままで生活していた。
 それを小学校に上がる前に手術してまぶたを切ったが、治った後手術跡が盛り上がったようになっていた。そのまま少年期から青春期の大半を過ごした。女の子が自分の右に座っただけで緊張するぐらいだったから、少なからず私の人格に影響を与えていたのは確かだ。
 
 大学一年の時に大学病院に三週間ほど入院して再手術をした。軽度の障害ということで保険が下り、三週間飯付きで4万円ちょっとですんだ。
 局所麻酔だったので、手術そのものがなかなか強烈な体験だったが、ここでは細かい描写はやめておく。親知らずを抜いたことがある人は大体どんな感じか想像つくだろう。

 手術が終わって二日後ぐらいだったが、執刀医だった大学の先生から術後の検査を受けたとき、「うん、よし、これでいい。そろそろ鏡を見てもいいよ。」と言われた。それで病室に戻ってから、恐る恐るガーゼをはがして自分の新しい顔を見てみた。

 これはかなりこたえた。皮膚にメスを入れているわけだからそれは傷を受けたに等しいわけだ。しかも、手術中眼球を守るためだったのだろうが、目に直接何かが押しつけられていて、眼球全体が内出血したように真っ赤に染まっていた。タコの目というものがどんなものか絵に描けと言われてもそらでは描けないが、その時の私はなぜか「タコの目」という表現を思い浮かべていた。
 病室に戻ると、外は雨だった。取り返しのつかないことをしたと、自分を責めた。なぜ前の顔を捨てたのか、なぜわざわざこんな顔を手に入れようなどと思ったのか。

 私はそれからしばらく鏡を見ようとしなかった。一週間ぐらいたって、また先生の部屋に行き検査してもらった。ガーゼを取って部屋の中を移動している時に、奥にあった鏡に自分の姿がちらっと映った。見たことのない人物がそこにいた。右目と左目が左右対称の。眉毛を大きくつり上げなくても、目が開いている。またちらりと見た。見間違いではなかった。

 別になにかの教訓話として書いたわけではない。ふと思い出して、書いてみたくなったから、書いてみた。一度言葉にしておきたかったのだと思う。本当に雨のせいかもしれないが。

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