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2008年2月11日 (月)

責極的?

 小論文の添削をしていて、2人の生徒が同じ漢字の間違いをしていたのに気づいた。それが「責極的」である。こんな間違いをするのは国語の担当者の指導が甘いせいに他ならないが(誰だ担当者は)、なんだか偶然とは思えないような寓意を感じたので駄文を一つ書いてみる。

 間違えた女の子に聞いてみたら、「積極性って責任が必要だから、そう書くんだと思ったんです。」と照れながらいいわけをしていた。
 積極性は他人から強制されて手に入れるものではあるまい。内発的に自然に身につくべきものだろう。それに対して「責任」という言葉には、それを必ずしなければならないというような強制的な雰囲気がある。もちろん「責任」が成立する背景にも自主性・主体性は存するが、少なくともその女の子達は、「やらないわけにはいかない強制的なもの」というイメージで「責」という字を使っているように話から感じられた。

 結局我々は、「自主性」や「主体性」の名の下に、権威的、押しつけ的な教育をやってしまっているということなのかも知れない。教育は最初からそのようなものなのだと反論されるのならそれはそれでかまわない。問題は、そのような押しつけを、意識的にやっているのかどうかという点だ。もし、教師が自分では内発的な動機を促す教育をやっているように思いこんでいて、実は押しつけ的な教育をやっているとしたらこれは教える方も教えられる方も不幸だといわざるを得まい。

 このブログにもさんざん登場してきているエーリッヒ・フロムは、「個性」が他者から強制された時、それは「幻影」となって、個人の真の自立を阻害すると語っている。むべなるかなと思う。

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