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2008年5月16日 (金)

ステレオグラムと時間意識

 コンビニで暇つぶしのネタを探していた時に、何年か前にはやった「ステレオグラム」の本を見つけた。コンピューター処理された特殊な図柄を両目の視点をわざとずらして見ると、絵の中に立体が浮かび上がってくるというあれである。

 久しぶりにやってみたが、目の錯覚であることが信じられない。周囲の生の「現実」とせめぎ合いながら、もう一つの「現実」が手に持った本の中に広がる。
 視線を戻して元の絵そのものを観察すると、少しずつずれたデザインの図柄が並んでいることがわかる。ずれた隣同士の図柄を右目と左目で別々にとらえて重ね合わせることで、まるで「現実」を見ているかのような立体映像を心の中に作り上げるわけだ。
 平面上に印刷された図柄が立体に見えることもさることながら、「ずれたデザインの図柄」がどこにも「ずれ」の感じられない一つの像に見えてしまうことに驚きを感じる。もちろん我々が日常生活においても両目を使って異なる視覚情報から一つの立体感のある「現実」を感じ取っているというのは、常識として知っている。しかし、ステレオグラムは元の絵とすぐに比較できる分、理屈で説明される以上の驚きを感じてしまう。

 実際にはずれているものを、ずれのない一つのものと感じてしまうことは、他の我々の日常の事象にもあるのではないかとあれこれ考えていて、ふと「時間の流れ」に思い当たった。
 以前このブログで、時間は実際には薄っぺらな「現在」しかないと書いた。(これは「共時態」の伏線として書いたつもりだったが、)書きながら「なんで『現在』は常に一瞬なのに時間は流れているように感じるんだろう」と自分で疑問に感じ始めていた。
 
 フッサールが、「同一のものであるように思われる事象(例えば「机」)も変動する諸知覚の一連続である」とどこかで言っていた。それを思い出しながらふと思いついたのだが、例えば今目の前にある机を普通に見ている時でも、それはごくごく短い間隔を置いて脳に与えられる刺激の「一連続」が、「机」という一つの事象として認識されている。そして、ある一瞬に脳に与えられた刺激(視覚情報)が消えていく時のマイナス方向のベクトルと、新しく入ってくる刺激のプラス方向のベクトルの「ずれ」が、脳によって処理されて、「時間が流れている」という認識を人に与えているのではないか。いわば脳内クロックである。知覚の残像が響きあって、「現実」の立体感と時間意識を生み出しているわけだ。

 そう考えると、「現実認識」とはまるで音楽そのものだ。ちょっと頭を振って部屋を眺め回しても、一瞬のうちに様々な知覚情報が頭の中で響きあいさざめきあう。「響き」と「さざめき」そのものが、現実感を創り出す。音楽に現実体験に近い感動を感じるのは、日常生活が音楽そのものだからかも知れない。

 で、そんなことが書かれているのではないかとふと思い立ち、この日記を書く前に参考にしようと近くの本屋で平積みになっていた茂木健一郎さんの『すべては音楽から生まれる』を買いに行ってきた。さすがに「時間意識も音楽だ」なんてことは書いてなかったが、楽しんで読ませてもらった。今回の「戯言」そのものは『すべては~』を読む前に考えていたことを書いたつもりだが、読んだ後で書いたので大なり小なり影響を受けてしまっている可能性はあるが。

追記 いや別に私にも「現実」は普通に「現実」として見えているので、あしからず。あくまでも理屈の上での暇人の戯言です。

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