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2008年9月 6日 (土)

非言語情報

 昔書いた論文「『自己認識』を促す国語教育の研究」は、カウンセリングの考え方をいかに国語教育に持ち込むかというのが出発点だった。それで文献をあさったり、研修を受けたりしながら、常に私の心の根っこのところに「言葉」とはなにかというという視点があった。

 あさった文献にはたいてい、実際のカウンセリングで重視するべき観点として二つのことが書かれていた。言語情報と、非言語情報である。なにしろ国語教育の文献として使えそうなものを探すことしか頭になかったので、非言語情報についてはやや軽視してしまったような気がする。たぶん非言語情報である「身振り」や「仕草」についても、結局はそれを認識する際に脳内で言語化しているのではないかと考えたのだろう。(論の展開上、都合の悪い部分を避けたともいえますが^^;)

 しかし、非言語情報は極めて繊細で暗示的で、それを観察する側にも様々な解釈を引き起こす。たとえその情報が、ノーミソの中で言語化されているにしても、無意識レベルで複雑に絡み合っているはずだ。ラングレベルでの言葉の絡み合いなど、実際にはその全体を意識化することなどできっこない。だからこそ非言語情報は意識上の「言葉」で確定させることのできない「真実」を伝える可能性を持つのだろうが。

 実際私はたいてい何かの判断をするときはまず、肌で感じる。大体冬でもシャツの袖をまくっていたりするのだが、むき出しの肌でセンサーのように空気を感じるのだ。(そういえば学生時代、ひげを生やしていた頃、bonpata氏が「しゅとーのひげは猫のひげ」と語っていた…)。それからなぜそう感じたのかをノーミソで言語化し始める。このブログを読んでくださっている方は「熊男は理屈っぽいやつだ」と感じていらっしゃるだろうが、実は私はまず感覚から入る人間なのである。

 いちいち言語化する必要はないではないかと、言う方もいるだろう。しかし、我々は最初から言語に振り回されながら生きている。身の回りの出来事は、その多くが言語化されて、心の中に侵入してくる。そして時に「真実」に偏差をかけてくる。
 だからそれらの言葉を、網でも打つように心の奥に投げ込んでやる。それからそっと引き上げてやると、心の中のかつて非言語情報だったものが、冬の牡蠣みたいにそれらの言葉にこびりついて引き上げられてくるのだ。そうやって生まれ変わった言葉は、「真実」にほんの少し近づく。

 大体『羅生門』なんかを引き合いに出すまでもなく、善か悪かでさえも、人の認識に簡単に左右される代物だ。それでも我々は様々な情報を駆使して「真実」を探さずにはいられない動物なのだろう。それが生きるということなのだろうし。

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