文献研究
「文献研究」は優れた研究手法だ。
特に「人の心」というような、なぜそれが存在しているのかさえ明らかになっていないようなものを対象とした研究において有効だ。研究の足場さえもはっきりしないようなものが研究対象である場合、その「足場」をどこに設定したかによって、辿り着くべき結論が限られてくる。逆に言えば、予定した結論に辿り着くよう確信犯的に「足場」が用意される可能性さえある。そして、当然その結論はその「足場」の範囲内に限定した有効性しか持ち得ない。従って結局は「足場」、すなわちパラダイムを検証することによってしかその結論の有効性を証明できない。
文献研究は、最初から明確な「足場」を持たない研究手法である。しかし、だからこそ「人の心」のような正体不明なものを研究するのに適している。文献研究においては、様々な先行研究が引用対象となる。それぞれの研究は当然それぞれの「足場」で記述されているため、引用を基本とする文献研究のあり方は、異なる「足場」をせめぎ合わせることを前提としている。つまり文献研究は、「足場」-パラダイム-をその場で作り上げながら研究対象の本質に迫ろうとする手法といえる。未知の世界を覗き込むのに、それをのぞくための望遠鏡を同時に作っていくようなものだ。
しかし、自分が引用する複数の文献の「足場」が異なっていることを意識できていない場合、実際には意味の異なる「同じ表現」を、同意語として扱ってしまう危険がある。例えば研究発表の場などにおいては、「同じ表現」が実際には異なる「足場」のもとに、異なる意味内容を持って使用されているということを、聴衆が見抜くことは困難である。たとえそれが発表の場でなく、日常の読書の際の書籍の中の言葉であったとしても、その言葉がどのような「足場」を持っているかを検証しながら読むのは難しい。
また発表者の側から見ても、自分の言葉がどのような「足場」を背景とするかを、引用ごとに説明しながら論を進めるのは難しい。だから結局、知っている人には意味があるが、知らない人にとっては全く意味不明といった発表になりやすい。
この時インターネットは文献研究の有効性を飛躍的に拡大させる。その場で、引用文の背景となるパラダイムを検証できる。実際、研究発表の場などには、聴衆に一台ずつパソコンがあってもいい。それぞれの用語にリンクを張れば、発表のための膨大な紙資料を用意する手間も省ける。「足場」について説明する必要が無くなり、引用した一つ一つの用語に対する責任意識も生まれる。
私が以前発表した論文の要旨が、国立情報学研究所の論文検索で全文掲載されているという話を以前書いた。あれは全国大学国語教育学会で発表させていただいたことの特典みたいなもののようだ。あんなふうに、引用対象になりそうな全ての文献がいつでも全文読めるようになれば、文献研究の有効性はさらに拡大する。著作権などの条件整備は簡単ではないだろうが。
文献研究が総合知の最たる手法と信じる。インターネットがその可能性を飛躍的に拡大する。そもそもインターネット自体、最初は研究者間の連絡のために作られたものと聞いている。パソコンが日常のものとなったいま、「人の心」や「教育」といった文系的な領域こそ、その恩恵を遠慮無く受けるべきである。
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