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2009年10月13日 (火)

昔書いた物

 10年以上前に書いた「『自己認識』を促す国語教育の研究」は、今でも私のパラダイムそのものだ。拙宅「熊男の住処」に全文アップしてはいるものの、お世話になった先生方以外にあんな長々しい文章を読破したという方はいないだろう。「熊男の住処」にはアクセス解析などは設定していないので、誰がどんな検索ワードで見に来てくれているのかわからないというのもある。
 
 あれを書いた時は、半年近くの間あれを書く以外のことはしなかった。贅沢な日々を送らせていただいていたわけだ。朝から晩まで引用候補にした本を読み、読んでは使えそうな箇所に付箋を貼り、借りた本ならそれをワープロに落としてデータとしてストックする。実際に引用したデータをはるかに超える文章ストックを用意していたと記憶している。

 あの文章は半年にわたる壮大な自己カウンセリングでもあった。自分の持っていた言葉の数々を見つめ直す作業だった。それだけに当時の自分にとって(現在の自分にとっても)掛け値無しの真実を語っていたつもりだった。今でも現象学と記号論は、おそらくは同じ目的地を目指そうとしている様々な枠組みを整理する交通信号のような役割を果たすのではないかと信じている。

 そのためには現象学的な考え方を直接対象にする必要があるのだが、それをやると現象学の難解なキーワード群と直接対決しなければならなくなる。論理をわかりやすく説明しようとするとかえって難解になるといったジレンマがある。「自己認識」本編も洞穴日記の「戯言解説」も、見る人が見れば直接対決を避けていることが容易にわかるはずだ。

 記号論は非常にスマートな論理である。しかしスマートすぎて、それを学問の対象とすることの価値がかえって見えにくい。現象学はそのような記号論の弱点を補強し、「言葉」を対象化することの意義を浮き彫りにする。まだまだ私の「戯言」は続く予定だが、いつかどこかで現象学と真っ向勝負しようとは考えている。(このブログでは時々こっそりやっているのだが、ピンポンダッシュ程度ではある…)。

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