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2009年12月 6日 (日)

コンテクスト参照能力

 全国大学国語教育学会で去年と今年と一回ずつ発表させていただいた。その時に実践分析の観点として設定した項目の一つが、この「コンテクスト参照能力」である。
 この言葉は私自身の造語だと思っていたが、ヤフーで検索したらいくつか引っかかった。ただし国立情報学研究所の論文検索では一つしか引っかからないので、一般的な言葉とは言えないようだ。

 コンテクストとはシンプルに言えば、「文脈」ということである。つまり「コンテクスト参照能力」とは「文脈を読み取る力」である。「状況認識力」とも言えるかも知れない。詳細については、「熊男の住処」にアップしてある全国大学の発表資料を参照していただきたい。

 ところで「状況認識力」なとどいった表現をすると、ちょっと前に流行った「KY」という言葉を連想するかも知れない。「KY」自体、その意味があれこれ変わってきているという記事をどこかで読んだが、ここでは元の意味の「空気が読めない」であるとして話を進める。

 結論から言えば「コンテクスト参照能力」と「KY(にならない力)」とは全く別物である。別物であるどころか、正反対の方向性を持っているといってもいい。

 「KY」という言葉に含まれる「空気」は、実際の様々な日常生活の場面においては、特定個人によって意図的に作られることが多い。つまり個人の利害が露骨に作用する。そう考える根拠を以下に示す。
 その場の雰囲気を作り出す「空気」は本来、その場に居合わせた人々の暗黙の共通認識が、心の内側から自然ににじみ出てきたものだろう。おそらく儒教がまだ人の心の中で重要な意味を持っていた時代までは、「思いやり」とか「自分よりも他人のために」とかいった儒教の考え方が、暗黙の了解的に「空気」を作り出していた。
 ところが現代においては、本来儒教が果たしていた部分がすっぽり抜け落ちてしまい、大きな「穴」が生まれている。「穴」は一種の「空所」として働く。人には、未知な物に対して自然にそれに言葉を与えたい、解釈して理解可能な存在にしたいという欲求がある。それぞれの場の「空気」を支配する力を持つ「穴」に対しても、失われた儒教的な思想の代わりに何かを補填したいという無意識的な欲求があるはずだ。その「穴」に埋め込まれたものが、その場の「空気」を支配し、その場に居合わせた人物全ての一時的な行動原理となる。
 そのような構造であれば、「穴」に、特定個人の利害が紛れ込むのはたやすいはずだ。なぜなら我々一人ひとりが、「穴」が補填されること、自らの行動指針を誰かから示してもらうことを、無意識のうちに欲しているからだ。

 もちろんたとえ儒教や宗教等の大きな価値を、構成員が共通認識として持っているような社会であっても、場を支配する「空気」に特定個人の利害が紛れ込むことはあるだろう。しかし、構成員それぞれが共通の認識の土台を持っていれば、それを物差しとして一人ひとりが場の「空気」を支配するものの正体に気づく可能性が高まる。
 しかし、物差しが失われた現代においては、「穴」の存在を認識し、それに補填されるものの正体を見抜く力こそが物差しの代わりとして必要になってくる。状況を正確に認識する力を養うことが出来れば、自然に個々人が何をすべきかも見えてくる。自分のために、そして自分とつながりあった他者のために何をすべきかが見えてくる。前にこのブログでも書いたように、「すべきこと」が大事なのではなく「そういうものだと知ること」が必要なのだ。

 そういった「知る力」こそが、「コンテクスト参照能力」であると考えている。


追記

 妙に気合いが入っているふうになってしまいましたが、特に何があったというわけではありませんので^^;
 ネタ切れ気味なので、自分の研究の内容をちょっといつもと違う角度で語ってみようと思ったわけです。

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