「自己意識」(1)-「時間意識」が文脈を創り出す-
たぶんこれが「『時間意識』戯言」の最終回である。(ここ数回、毎回のように『最終回』と本当に思っていたのだが、書く度に新しいアイディアが浮かぶので仕方がない…)。
このシリーズで私は、「現在」が「点(瞬間)」でありながら、現実には「流れ」として認識されているという古典的パラドックスを足場に、「点」でありながら「流れ」を認識可能にする脳の状態を考えようとした。
実はこれは長い間の疑問だった。私は誰かの話を聞いている時などによく、「何で幅があるんだろう。」と、話している人物の姿を見ながらぼんやり頭の中で考えていた。
我々が日常体験している「現実」は、どう見ても前後一秒に満たない程度の幅のある存在として目の前にある。なぜ瞬間の存在でしかない我々が流れや幅を感じ取ることができるのか。瞬間でしかない「現在」の中で脈絡のある思考をすることができるのか。(→「基本的なこと」)
それで繰り返し述べてきたように、複数のニューロンの発火深度の「ずれ」が、脳内でステレオグラム的に融合されて、「時間が流れている」という認識を我々に与えているのではないかと考えた。(→「ステレオグラムと時間意識」)そしてニューロン同士の反応がピンボールの玉がピンの間を激しく行き交うように反応を持続させて「認識」を安定させているのではないかと。(→「ハウリング」)
ところで時間とは何だろうか。結局どのような観点から記述するかによって「定義」も変わってくるのだろうが、ここでは「脈絡(コンテクスト)を創り出すもの」と定義しておきたい。
『50回目のファーストキス』という映画がある。(ネタバレ注意)主人公は事故によって頭部を損傷し、事故以降の新しい記憶が1日しか持たなくなってしまった。毎朝彼女は、事故直前の状態に引き戻される。自分の周囲の時間は流れていくにも関わらずである。また『メメント』という映画がある。(これはかなりあくの強い映画なので鑑賞を勧めはしない。)(ネタバレ注意)主人公は事件に巻き込まれて頭部を損傷し、10分以上の記憶を保てない状態にあった。主人公の主観ベースで描かれるこの映画の展開は、観ている観客にも主人公同様の混乱と焦燥とを引き起こす。
1日、10分と間隔を狭めていき、さらにこの「現在」という一瞬間について考えてみよう。もし我々が「時間」を「流れ」として感じることができない存在だとしたら、物事を脈絡あるものとして考えることができるだろうか。ニューロンの発火深度の「ずれ」が融合して、「時間意識」が発生した瞬間に、「文脈(コンテクスト)」が発生し、それについて思考することが可能になる。すなわち「自己意識」が生まれる。
そして、自らの「時間意識」に都合のいいように、自分の周囲の世界を作り上げ固めていく。枕元では時計が時間を刻み、パスタは8分後にゆであがり、テレビは毎日決まった時間にニュース番組を放送する。壁は隣の部屋に行くために物理的な距離以上の時間を費やすという情報を我々に与える。全ては「文脈」の中にある。そして安定した時間意識と安心感とを我々に与えている。
この日記では「時間意識」イコール「自己意識」であるかのような書きかたをしたが、もちろん実際の「意識」はそんな単純なものではあるまい。「自己意識」(2)では、さらに「現在」という一瞬に脳内で何が起きているかについて考察してみたい。
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