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2010年8月 4日 (水)

オリジナリティ (2)

 最近、本職以上に気になるのが、「ステレオグラムと時間意識」だ。つまり「時間意識戯言」のきっかけとなったあれである。思いついた瞬間さえはっきり記憶に残っている。当時私はとあることがきっかけで、西田幾多郎の『善の研究』を読もうとしていた。本体の方に歯が立たなかったので、現代書館の「フォー・ビギナーズ 無むムと感じる!西田幾多郎」を買ってきた。その中に次のようにあった。(今見ると、以下の引用箇所には、私自身がページの端を折って印を付けている。)

「現在」というのは当たり前のようで、なかなか定義できない。
「現在とは何だ?」
と言われると困ってしまう。
「今だ」
「今とは?」
「この瞬間だ」
「瞬間とは何秒のことだ?」
どこまでいってもらちがあかない。
西田には「時間もまた自己矛盾だ」という思想がある。無限なる過去と未来が相互否定的に結びついて、世界が一つの現在として自己を形成していく。(P70)

 こういった文章と格闘しながら、「それでは『現在』とは一体どのような脳味噌の仕組みが生み出すものなのだろう」と、周囲の光景を眺めながらぼんやり考えていたとき、コンビニでステレオグラムの本に出会ったのである。
 (そういえば当時、この本を自習監督をしながら教室で読んでいて、教卓の中に置き忘れ、同僚に読んでいることがばれてしまった。同僚は西田本のあまりの異様さにあきれていた。)

 つまり「ステレオグラムと時間意識」は純粋に熊男オリジナルの発想である。(断るまでも無いだろうが…)。時間意識戯言が、西田哲学からインスパイアされた結果生まれたものであることについては、以前もどこかで書いた。(書いた後、例によって削ってしまったような気もするが…) 
 「現在」が幅のない存在でありながら、実際には幅のあるものとして認識されているという矛盾は、あのように説明するしかないと、妙に確信めいたものさえある。

 あれの是非を問う手段は無いのだろうか…。

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