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2010年8月22日 (日)

頭の体操(その4)

 「現在」の実体は「過去の残像」という点について、もう少し考察する。

 ちょっと前の記事「頭の体操」で私は、「はえが二重三重に見えたりはしない」と書いた。
 しかし、実際の「現実」は、私がその時考えた以上に、いい加減に出来ているような気もしてきた。

 指を一本立ててみよう。人差し指がいい。それを西洋人が「違う、違う」と言う時のゼスチャーのように、右左に揺れ動かしてみよう。そのスピードを速めてみる。するとそこには残像が見えるではないか。

 さてこの残像は、高速で揺れている「人差し指」が、瞬時に移動してしまったため、元あった場所に残っているものだと仮定する。「残像」というのはそもそもそういうものだろう。
 もしそうだとすると、逆に考えて、高速で移動していないものにも残像があるはずだとは言えないか?重なっているのでそれとわからないだけで。

 静止した人差し指、目の前の机、目の前のパソコン、これらはなぜくっきりとした輪郭を持ったぶれのない存在として目の前にあるのか?「残像」がそこに重なっているのなら、もう少しぼやけたような感じに見えてもいいはずだ。例えば長時間露光した写真が手ぶれしてぼやけてしまうように。

 くっきりとした輪郭を持つものが、高速で動かされることによって、認識可能な「残像」が生まれてくるその境目こそが、脳内で「残像」をステレオグラム的に融合して「現在」というひとつながりの「時間の幅」を創り出すノーミソの機能の、能力的限界を指し示しているのではないか?
 そしてそのことが逆に、我々が日常的に周囲の音や光の刺激の二重三重の「残像」を、脳内で一つのもの(ベクトルの差異が生み出す「時間の流れ」)として処理していることの証明になるはずだ。


追記

 サラウンドのセッティングをやったことのある人は知っているはずだが、反響音(ディレイ)は0.3秒ぐらいが適切で、それ以下だと効果が薄く、それ以上だと音が重なって聞こえる。適切なセッティングの時にのみ、「音」は現実の音以上に生々しい雰囲気を醸し出す。くっきりとした「輪郭」を持つことができる。(たしかそうだったが、ちょいと数値には自信がない^^;)

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