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2010年9月23日 (木)

異化

 非日常性というものは、日常が日常であり続けるためにも必ずある程度は必要だ。
 
 なんにも変化がなかったように思われる徳川三百年の村社会にあっても、おそらくは祭りだとかの様々な行事が非日常的空間を演出していたのだと思う。

 勤務校でも祭が行われた。当たり前の文化祭と当たり前の体育大会だが、やはり「非日常」として機能していた。学校全体がほんの数日間、様々な展示によって「異空間」と化し、それがあっという間に取り壊されて「日常」に戻る。ふと気づくと、今まで日常だったものが非日常的なものに削れられ磨かれて、新鮮さを取り戻してぴかぴか光って見える。生徒達が授業を受けながらなんだかきょとんとしているのが、教壇の上からもはっきりとわかって、背中を向けて板書をしている最中にも思わずにやりとしてしまう。

 これが文芸理論でいうところの「異化」という効果にほかならないわけだが。

 ただし、現代はあまりに刺激過多な時代だ。雑多な情報が日常生活そのものを非日常化しつつある。それはそれでかまわない。そういった非日常とうまくつきあっていくことができれば、常に日常を新鮮な状態に保つことができる。多分、近代以前であれば、お化けとか迷信とかが、非日常として日常の新鮮さを保つ働きをしていたのだろう。それとおなじようなことだ。

 問題は、我々一人ひとりが、現代文化の過剰な情報という非日常性と対峙し続ける心の強さを保てるかどうかだ。複雑なものを複雑なまま受け止める姿勢を持ち続けられるかどうかだ。
 自分に都合のよい情報だけを取り出して、かりそめの日常的安定を手に入れる。そのような安定がかりそめのものであることは、本人が一番了解していることだろうから、心の安定は得られない。お化けから背を向ければ、お化けは逃げる人の背中をどこまでも追いかけてくる。要は、それらと向かい合うことが出来るかどうかだ。膨大な量の情報という自由から逃げることなく。

 その点、高校国語の教材は、極めて非日常性が高い。「羅生門」も「山月記」も「こころ」も、「そうあるべき人生」とはほど遠い、異世界の物語だ。だからこそ、「異化」の効果を持つ。非日常的なものと対峙する訓練にもなる。(もちろん非日常が逆説的に日常につながっていくということを学ぶ意義もある。)
 私は、生徒によくこう話す。「高校国語は、゛正しい考え方 ゛を勉強する学問ではない。どのような考え方が可能であるかについて、ノーミソを鍛えるためにある。」


補足

 高校国語の問題を解いてみればわかるが、選択肢には必ず「常識的には゛正しい゛考え方だが、本文には書かれていない内容」の間違いが引っかけとして含まれている。非日常と対峙し、異質な他者の言葉をありのまま受け止める態度なしには、問題本文を理解し、正解の選択肢にたどり着くことはできない。
 

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日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

初めて見ました(笑)

いろんな意味で面白いです

文章すごいです。

投稿: 生徒 | 2010年9月30日 (木) 13時14分

テスト勉強の間の一休みに、精神思考をと。
日常…くり返し、飽きて、錆びていく。
非日常…日常ではない=くり返されないこと=特別なこと=日常を磨く砥石ってとこですかね。私の感受性でいくと。
何言いたいのかわかんなくなってくるなあもう!

まあ、この時代は、やろうと思えば非日常なんてすぐに体験できますよね。
良いことか、悪いことか…

さて、私はあり得ない異常を望みながら日常を過ごしています。読書好きなのはこれも影響してるのかも…いや、昔からの読書趣向のたまものかな…
小学生の時の詩集を読むと、今のルーツ的な物を感じますね(笑)
昔からそんなに変わらない物ですね、趣向とか思考とかって(笑)
今思うと、フィクションとかファンタジーとか現実的ではない物ばっかり読んでいた気もします。この頃から既に、偏った考えでいっぱいだったんでしょうね(笑)

閑話休題
以前、授業の前に
「言葉がなかったら、今見えている風景はまったく違った物だっただろう(うろ覚え)」
と、言っていましたが、そもそも言葉がなければ授業なんて受けないと思いました。が、少しちょっと真剣に考えてみました。所詮戯言なんですが(笑)
たとえば、イルカなどは、超音波などで交信して、狩りなどをしていくという話を聞いたことがあります。(イルカではなかったかもしれませんが)
ここで、この超音波は、言語なのでしょうか。
まあ、イルカにとっては言語かもしれませんが、意志交換をして、生き延びやすいような生存目的の工夫がなされています。
そこで、ヒトが言語を持たなかったとしたら、どうなっていたのか。
イルカを例に挙げましたが、どんな動物(特に、群れを作る種)でも、何らかの意思表示をするツールがあります。
と、いうことは、ヒトが生きていくためには、そのツールを持つことが大前提です。
しかし、この場合において、言語は除外されます。
ここで、私は、第六感と表現しても良いのですが、私としては、感情などの意志などが伝わる力、霊感的な物が進化していったのではないのかと思います。

いろいろ無理がありそうですが、まあ戯言ですし、私の偏向的思想なんてそんな物です。泥沼状態。

では、長文失礼いたしました。
またいつか。

投稿: 1-2-x | 2010年10月 6日 (水) 22時32分

長文ありがとう。

ものを書くことは、書くことによって、何かが生まれてくるものだと思います。それは自分も気づかなかった自分の心だったり、時には社会一般にも通用する、新しい考え方だっりする。

また、いろいろ思ったことを書いてみると良いですよ^^

投稿: 熊男 | 2010年10月 6日 (水) 23時53分

ちなみに「言葉の起源」って、あまりに多くの説が生まれてしまったために、もうその話はやめましょうなんて取り決めがなされたことがあったらしいです。(本当)

投稿: 熊男 | 2010年10月 7日 (木) 00時05分

なかなか面白い日記でした。
次を楽しみにしています!!
日々のブログ更新頑張ってくださいribbon


投稿: 熊女(笑) | 2010年10月 7日 (木) 10時40分

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