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2010年11月10日 (水)

自己を読む

 大学入試センター試験は、知っての通り選択肢だけだ。国語で選択肢だけというのも考えてみれば過激な話であって、センター試験(共通一次)を初めて実施する際にはさぞかし物議を醸したことであろう。(私が中学生の頃だったと思うが…)

 国語で選択肢だけと聞くと、文章を書くのが苦手な生徒はたいてい最初は喜ぶが、実は記述タイプよりはるかに神経を使う。当然鉛筆を転がしても確率的には満点さえ取れる可能性があるわけだから、本来問題形式としては記述タイプより易しい。しかし、それで人の人生を決めてしまおうというのだから、実際の問題の中身は極めてシビアな作りになっている。 国語の選択肢で全問正解を目指そうと思ったら、トーナメントの決勝戦を戦うぐらいの集中力が必要になる。

 ここで必要なのは「知る」力だ。

 当然本文そのものについて知らなければならない。本文内容に飛び込んでその中で溺れそうになるぐらいの読み込みが必要だ。しかし、本文内に飛び込むためにはまず、自分について知っていなければならない。自分が日常どのような傾向の考え方をしているか、そしてそれらの考え方が自分の読みにどのような偏差を与えているか、知っていなければならない。そして、その「偏差」を意識内で修正しながら問題本文を読み進める。そうしなければ、岸に泳ぎ着いたつもりが、沖の離れ小島にたどり着いていたなんてことになりかねない。実際選択肢は「離れ小島」をいくつも用意していて、セイレーンが「おいで~おいで~」と歌っているので、ついついそっちに泳ぎたくなる。
 つまり、国語の問題を解く際に必要なのは「自己を読む」力だ。

 もちろんこの「自己を読む」力は、選択肢を解く際に必要であるだけではない。例えば、小論文という試験形式がある。小論文には正解がない。だからといってもちろん自由に書いて良い訳ではない。課題文を正確に読み、それを文章の材料とする。さらに、課題文の内容を知るだけではなく、課題文の提示するテーマに対して自分が日常感じていることを相対化し、それら全てを俯瞰的視点で再構成しなおすことが求められる。
 その際にも「自己を読む」ことが必要になる。「自分」を意識化できていない言葉には、全て「自分」の無意識的な影響によって偏差がかかり、課題文の中から飛び出せない孫悟空になったり、日常的な価値を反復・連呼するだけの陳腐な内容に止まってしまう。
 小論文は確かに優れた入試形式だ。人の持っている心の力を測ることが出来る。

 日常生活も同じだ。

 「自己を読む」ことは、単にあるものをあるがまま見つめる態度にほかならない。しかし少なくとも、それによって歩く方向ぐらいはわかる。穴があってもそこに向かって進まざるを得ないこともある。そんなときに、たとえ穴に落ちてしまっても悔やむことが少なくなる。穴からはい上がる方法を考えるまでの時間短縮にもなる。止めることなど出来るはずがない感情の揺れであっても、その揺れをコントロールする方法を見つけやすくなる。少なくとも揺れを眺め、観察してやることぐらいはできる。

 だから前にも書いたが、是非長短あるのは百も承知で、センター試験的選択肢を私は評価している。(もちろん小論も)

追記

 ちなみに「自己を読む」というのは、とある国語教育の先人のお言葉です。本人は言葉の意味について詳細には説明してないらしいですけどね。

 

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コメント

こんばんは。ときどき先生のブログを読んでいる、日頃の古典の授業を楽しみにしている男子です。(^O^)/

センター試験はまだあまり解いたことがありませんが筆記よりも難しいという話を聞いたことがあります。

先生のブログを読んで、2年後の受験を意識して日頃のテストに臨むことの大切さが改めて分りました。
今から少しずつ期末に向けて勉強しようと思います。

では、さようなら☆ミ

投稿: クハ411 | 2010年11月11日 (木) 22時00分

いらっしゃい。
まあこのブログは、仕事の妨げにならない範囲で「個人営業」なので、あれやらこれやらに影響を受けすぎないようにね。
一応それなりにいつも本音を書いているつもりですけどね^^
 

投稿: 熊男 | 2010年11月11日 (木) 22時06分

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