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2010年12月28日 (火)

我々はなぜ幅のない時間の中で思考が出来るのか

 いつもの戯言です。

 実はこれまで「言葉」に関する話題は、たとえ「戯言」であるにせよ出来るだけ避けてきた。「言葉」に関する内容は本職そのものの対象であるため、「戯言」などと言ってごまかすにも限界があると考えたからである。(「時間意識戯言」のリミッターを外すときも実はちょっと覚悟が必要だった。とある出来事がきっかけだったのだが…)。
 もちろんこのブログで説明しているような屁理屈を、他人に、まして生徒に押しつけようなどという考えは毛頭なく、日常の私は、「せーまるきーしーしかまる、ほい唱えてみよう!」といったかけ声の似合う、普通の国語の教員である。これまでこのブログで書いている内容について、本職の方でつっこまれたことはないが、「言葉」を戯言の題材にするのなら一度断っておくべきだと判断してこれを書いている。

 私は、同じ刺激に反応するニューロン群の発火深度の差がステレオグラム的に融合して、幅のないはずの「今」に、擬似的な幅を創り出していると繰り返し述べてきた。それでちょっと前の記事「時間の幅と言葉」で、言葉の一単語が全て音声言語として0.3秒以内に収まっているのは、その擬似的な「時間の幅」と関係があるのではないかと述べた。
 0.3秒という「幅」は、時間の流れを感じるのには十分である。実際、今この瞬間にも自分の周囲に生き生きとした時間の流れを感じ取ることが出来る。この「現実」が幅のない「点」の寄せ集めなどとはとうてい考えられない。しかし0.3秒という「幅」は、我々の「意識」のためのキャンバスとしては不十分に思われた。たったそれだけの「幅」では、我々が日常的に行っているような複雑な思考は成立しないと考えた。
 
 0.3秒の幅では、単語としては脳内に音を構成できても、構文単位での構成には足りない。理屈の上では文章の持つ線状性を脳内で構成しながら思考することは不可能なはずだ。
 だから次のように考えた。脳内では言葉は、単語単位で乱立し、それぞれが「ハウリング」しながら、過去把持的に意識内に止まり続けている。そして、それを脳味噌の別の機能が半ば自動的に「構文」として組み上げることによって、複雑な思考が成立しているのではないかと。

 それで、そんなことが書いていそうな本を今あれこれ探しているところだ。

追記

記号論とか現象学の話は生徒にも普通にします。教科書教材になっているから当たり前と言えば当たり前。東京書籍なんかは教科書全体のテーマみたいな扱いにしている。
時間意識戯言の話はしません (´・_・`)

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