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2010年12月31日 (金)

「今」という永遠

 東京書籍の「精選現代文」という教科書の見返しのところに、「哲学の謎」という野矢茂樹さんの文章がある。「生物が死滅しても夕焼けは赤いか」という題名で、こんなことが書いてある。

「色は対象そのものの性質ではなく、むしろ、対象とそれを見る者との合作とでも言うべきではないか。それゆえ、見る者がいなくなったならば、物は色を失う。世界は本来無色なのであり、色とは自分の視野に現れる性質にほかならない。そう思わないか?」

 では時間は?と考える。

 私は、これまで延々、「時間意識戯言」を書き綴ってきた。「時間の流れ」は、ニューロン群の発火深度の差が、ステレオグラム的に融合することで、認識可能になっている、と繰り返し述べてきた。
 もし私の「戯言」が戯言でなかったとしたら、今目の前を流れている「時間」は我々にとっての「時間」である。以前このブログにも書いたが、ニューロンの発火サイクルが極端に短いケースと、極端に長いケースを想像しようとしたが、全くイメージできなかった。0.3秒というニューロンの発火サイクルに沿って、過去は沈み込み、そして消え去っていく。消えていく過去が、幅のないはずの「今」に、生々しいまでのリアリティを与えている。

 では、我々「人」が世界に誰一人いないとしたら、時間は果たしてどのように「流れて」いくといえるのか。我々の身の回りの事物は、我々がいなくても変化する。風は吹き、雨が降り、岩は崩れ去る。だがそれを「流れ」として認識するものがいない世界は、果たして我々が現在認識している「世界」と同等といえるだろうか。

 数学は、本質的な意味では、「動き」という我々の身の回りの日常的な現象を今でも説明できていないと、最近読んだ本に書いてあった。微分・積分は「現実」を石膏で型どりし、型のあり方を分析する方法と言えるのかも知れない。「動き」とは、時間の経過に他ならないはずだ。つまり「時間」とは何なのかという問題はいまだに解かれてはいない。

 我々は、対称性を持って揺れ続ける「永遠」という素材を、我々の都合の良いように意識で加工し、数学で加工し、科学・技術で加工して生きているのかも知れない。

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