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2010年12月26日 (日)

「時間の幅」と「言葉」

 このシリーズで私は、同じ刺激に反応するニューロン群の発火深度の差が、ステレオグラム的に融合して、「時間の流れ」と擬似的な「時間の幅」を我々に認識させていると繰り返し述べてきた。

 そもそもこのシリーズは、このブログの別のカテゴリである「自己認識戯言」からサイドストーリー的にうまれた。「自己認識戯言」は、「言語」分野をその主たる対象としている。私の本職は国語の教員だから、そっちの方が当然このブログの中心(のはず)なのだ。

 それで「時間意識」戯言も、最終的にはそっちとつながっていく予定なのだが、それらをつなぐ最後のリングを探しているところである。(まあ、戯言は戯言のままですませておいた方が本当は良いのだろうけど…ほとんど開き直りですな。だはははは。)

 この「時間意識戯言」で私は、同じ刺激に反応するニューロン群が、互いに互いを刺激しあって反応をループさせ、それが擬似的な「時間の幅」を創り出していると書いた。ニューロン単体の反応サイクルが0.3秒だから、当然それによって創り出される擬似的な「時間の幅」も0.3秒となる。

 0.3秒という時間でふと思いついたのが(だいぶ前からだが…)、それは言葉一単語分の音の長さに相当するのではないかと。どんな言語でも、脳の中でその音を再生するのに数秒以上かかるような単語はないはずだ。例外的に「スーパーカリフラジリスティクエクスピアリドーシャス」(メリーポピンズ)なんてのもあるが、この手の長すぎる単語は実際にはいくつかのパーツに分解できる。(例…「スーパー」「カリフラジ」「リスティック」「エクスピアリ」「ドーシャス」)。それぞれのパーツは0.3秒を超えてはいない。

 言葉が単語単位で0.3秒以内だということになると、一体文法とはどのような位置づけになるのかとか、脳の中で言葉が相互にどのような連関を持っているのかとか、いろいろと派生的に面白いテーマが生まれてくるのだが、その方面は、やや(というよりかなり)知識不足である。「時間」にばかり偏っていた読書傾向を、そちら方面にシフトしようかと考えているところだ。

 生徒によくこんな話をする。

「『楽しみ』というものは自分の周囲にいくらでも転がっている。しかしそれを『楽しみ』と気づくための知識や知性が必要だ。例えば、赤ん坊の側にプレステがあっても、赤ん坊にとっては何の意味もない箱に過ぎない。それをシャボン玉をふくらませるようにゆっくりと自分の世界を広げていく。すると今までただの「物」に過ぎなかった様々な物事が、突然魅力あるものとして目の前に次々と浮かび上がってくるのだ。」

 自分自身がまさにそんな感じだ。今まで自分と関わりがないと思っていた様々なものにこれからもトライしてみるつもりだ。


追記

 言葉は脳内では、線状的につながりあっているのではなく、響きあっているのかも知れない。交響楽のように。

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