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2010年12月30日 (木)

「ゼノンのパラドックス」

 原題は「The Motion Paradox」。

 ゼノンはソクラテスが若いときに出会った人物とされている。彼は様々なパラドックスを世に残し、それらの難問は今も本質的な意味では解かれていない。

 アキレスが進めば亀は更に進み、アキレスがまた進めば亀はまた進むを繰り返し、結果としてアキレスは亀に永遠に追いつけないという「アキレスと亀」。
 飛ぶ矢は瞬間をとらえれば止まっているのだから、時間の流れを瞬間の積み重ねと解釈するなら、矢は実際には動いていないとする「飛ぶ矢の逆説」。

 これらは、我々の常識からはあり得ない考え方である。我々はスピードが速いものはスピードが遅いものに追いつくことを知っているし、飛んでいる矢は目の前を実際に飛んでいくことを知っている。
 しかし、これらのパラドックスを、数学的、本質的には解くことが出来ないまま、2000年以上の時が過ぎてしまった。数学科の教授である著者は、数学科の立場からこの哲学的命題の現代に至るまでの歴史的変遷を、わかりやすい平易な文体で、私たちに説明してくれている。

 いくつか興味深い記述を引用してみる。

「同じ瞬間に、ものがあり、かつないことはありえない。」(P32)
「二つの区間-白いときのAと白くないときのB-に分けられる期間で、白い物体が白くない物体に変わっているなら、ある瞬間Cには、それは白かつ非白でなければならない。」(P49)

 これまでどこかの熊が繰り返してきた「戯言」は、これらの疑問の答えの一つになっている。フッサールの言うように、「今」と「沈み込んだ過去」は「今」という瞬間に同時に存在できる。発火深度の異なるニューロン群がステレオグラム的に融合して「時間の流れ」を認識させているという考え方は、少なくとも「飛ぶ矢の逆説」を説明可能にする。
 著者自身、最終章「一筋の流れ」で次のように語っている。

「いったいどのようにして、次々と移り変わっていく静止画像が、時間の中をなめらかに流れる動画として解されるのか?」(P227)
「連続性は単なる意識による印象であり、錯覚を実在に昇格させる心が作ったものである。」(P230)

 そして、数学の研究者である著者自身が、数学の限界について疑問を投げかける形で、話は終わっている。

 ゼノンが提示したパラドックスのいくつかは、「人の認識」という意味では説明可能だ。そういう戯言をどこかの熊が何年もかけて説明してきた。第一、あれこれ説明するまでもなく、飛ぶ矢は実際に飛んでいる。
 しかし、そうすると新しい疑問が生まれてくる。「人の認識」を完全には説明することの出来ない「数学」とは、一体どのような存在なのか。
 もちろん否定的な意味で言っているのではない。「1+1=2」から始まる疑う余地のないように思われる「数」という真実が、「Motion(動き)」という極めて日常的な事実を、本質的には説明し尽くせないことに、単純な驚きを感じるのである。

 著者は最後に、ゼノンが現在まで生きていたらという仮定の下に、ゼノンにこのような台詞を語らせている。

「外の世界は、我々の感覚によってのみ知られる素材かもしれず、そういった感覚は、色、匂い、触覚、そして運動の錯覚をもたらすのだ。」(P233)

追記

 わたしゃ「ゼノン」と聞いたら、まずデビルマンを思い出すのですが…。いやまあその(^_^;)

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