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2010年12月12日 (日)

『内的時間意識の現象学』

 現在、二回目が半分ぐらいまで来ている。一回目に「附論」をすっ飛ばしたので、というより最初の数十ページ以外はすっ飛ばしたので、今回はじっくり読んでいるところだ。全部読んでからブログを書こうと思っていたけれど、今日中には読み終わりそうにないのでこれを書いている。

 こいつをアマゾンで取り寄せたのが今年の四月。例によって、本棚で数ヶ月発酵させた後、ついに読み始めたのがたしか夏頃だったと思う。すぐに「時間意識戯言」と恐いぐらいに共通性があることに気づいて、ブログにどう書こうか迷っている内に、また数ヶ月の月日が経って現在に至る。最近『時間と出来事』という本のフッサール関連の記事を読んでいて、自分の読みがそんなに間違っていないと確信を持ち、再読すると共にこのブログを書いている。

 「時間意識戯言」のオリジナリティがどうのという前に、このシリーズの最初の一本「ステレオグラムと時間意識」に、フッサールの『現象学の理念』の中の言葉、「同一のものであるように思われる事象も変動する諸知覚の一連続である」を紹介して、それが発想のきっかけとなったと自分で書いてあるんだから、同じようなことを語って当たり前だと、一人で納得する。

「音の今の意識が、根源的印象が過去把持へ移行するにしても、この過去把持それ自身がこれまた一つの今であり、顕在的に現存するものである」(P40)
「音がいま鳴るとする、ところが次の瞬間にはもうそれが過去へ沈む、しかもその同じ音が沈むのである。」(P84)

 それでもフッサールは、「今」と「沈んだ過去」が同時に成立する点については説明に苦慮しているようだから、ずれた感覚刺激を一つの事象として認識する「ステレオグラム」と、その認識をもたらすニューロン群の発火深度の差異という発想は、まあ新しい要素と言えるのだろう。「自己意識」を生み出すキャンバスである擬似的な「時間の幅」という発想もかな。他にもいろいろ言ったような気もするか…。

 この『内的時間意識の現象学』を土台にすれば、「時間意識戯言」で、本が一冊書けるんじゃないかという気がしてきた。

 いや戯言ですよ、戯言。いつもの。

 

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