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2011年1月 1日 (土)

現実認識と言語認識

 『行為としての読書』という本がある。
 現象学の影響を受けていると言われているが、直接それが文面に表れているわけではない。私自身は以下のような点に、その影響が見て取れると考えている。

 現実を認識する際、我々は心の中にその現実を丸ごと取り込んでいるわけではない。脳の様々な機能(「エージェント」でも「モジュール」でもいいのだが…)を統合して、一つの理解可能な「現実」を心の中に創り出している。ここまでは現象学の領域だ。
 著者のイーザーは、そのような「現実認識」と同様の過程が、読書する際も起きているとする。心の中の様々な機能が同時に働き、言葉をよりしろとして擬似的な「現実」が創り出される。心の中で「現実」として構成される前のテクストの状態では、まだ作品は成立していない。テクストが擬似的な「現実」、すなわち作品として成立するためには、それを心の中で構成する読者の参加が不可欠であるとイーザーは説明している。

 この辺から、今年の戯言初めなのだが…。

 読書の面白いのは、実際の現実認識に比べて、圧倒的に脳が取り込む情報量が少ないことだ。その事実は、実際の現実認識の際にも、言語が重要な働きをしているということを示唆している。
 言語が我々の現実認識に大きく関与している点については、高校の国語の教材で当たり前に学習する内容だから断るまでもないはずだ。

 昨年のブログ記事「ハウリングによるニューロンの単独発火化」で私は、ニューロンが相互に刺激しあって反応をループさせることが、ニューロン単独の発火を可能にし、それが原初的な「自己意識」を創り出したと書いた。これは、理屈の上で自然に導き出されたものだ。(実験的に確かめられれば良いのだろうが…)

 おそらくそういったニューロンの単独発火化は、極めて日常的で、再現しやすいものから始まったはずだ。
 それは「音」であろう。
 音声言語が文字言語に先立って生まれたことは周知の事実である。
 従って次のように言える。
 「自己意識」の構造を探るためには、「音」、すなわち「言語」が、心の中の他のモジュール(もしくはエージェント)とどのようにつながりあっているかを追究するべきである。

 最近、読み始めた本の序論部分に、「言語学と脳科学はもっと歩み寄るべきだ」とあった。文章を読んでそれを理解することは、その過程の大部分が、自分の周囲の光や音から現実を認識する過程と共通していると、私も考えている。それは単純にその方が自然だからだ。言葉を使わない「自己意識」を想像できるだろうか?


追記

 あけましておめでとうございます。今年も戯言から始めてしまいました(^_^;)
 なにしろ表現することしか能のない人間ですから、今年もこんな感じで走り続けるつもりです。読んで下さっている皆さん、この「戯言」が一体どこに落ち着くのか、はたまた落ち着かないのか、見届けてやって下さいね^^

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