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2011年1月10日 (月)

音楽と言葉

 最近ふと思いついたことを書いてみる。(ブログというより備忘録だな。)

 例えば、第九のフレーズをふと口ずさみ、そのまま特に意識しているわけではないのに、エンドレスで頭の中で鳴り続けることがある。
 映像を思い出すのはそう簡単ではない。例えば何百回も繰り返し見ている好きな映画のワンシーンがあったとして、それを頭の中で思い浮かべようとしても、なかなかリアルに再現することは出来ない。無理にそれをしようとすると、かなりの心のエネルギーを費やすはずだ。
 それに対して音楽の方は、半自動的に心で旋律を奏でることが出来るだけでなく、細かいシンバルの音や、ほんのちょっとしたおまけ的な旋律も、意識せずに「再生」することができる。
 大げさだと思うのなら、頭の中で実際にやってみるといい。音楽の方は、ほとんど生で聞いているのと変わらないぐらいに心の中で再生できるはずだ。必要とする情報量の違いだけでは説明できないような本質的な違いを、「音楽」と「映像」の間に感じてしまう。

 言葉にも似たような部分がある。例えば百人一首を一つ紹介せよと言われて最初に思い出すのが、柿本人麻呂「あしびきの山鳥の尾のしだり尾のながながし夜を一人かも寝む」なのだが、いつもこれの出だしがなかなか出てこない。ところがいったん「あしびきの」を思い出すと、どんなに久しぶりだったとしてもするするとそれに続く句が出てくる。そのへんの思い出し方は、音楽の旋律を口ずさむのとそっくりである。全く力む必要がない。

 ふと、音楽だとかセンテンスだとかを心で「再生」する仕組みは、オルゴールの心臓部の出っ張りだらけの円筒に似ているのかも知れないと想像したりする。はねを引っかけて音を奏でるあれである。はねを替えれば容易に音や曲の雰囲気も変えられる。ニューロンがどうだといったようなレベルはさっぱり想像もつかないが。
 ちょっと前の記事に書いた、「文章を読むときは心の中に単語が過去把持的に乱立している」から、単語相互のつながり方を考えているうちにこういうことを思いついた。
 まあ何にしても、いつもと同じく根拠のない話ではある。あるとすれば、自分の感覚だけか…。

追記

 文章を読む行為そのものが、心の中にあらかじめ組み込まれた「旋律」を、瞬時に、乱立する単語に当てはめているのではないか、と思ったわけです。その「旋律」には、短いものから、長いものまで、いくつかの基本的なパターンがあって、それを組み合わせる。
 音楽家が、いくつかのコードの中でアドリブで旋律を奏でるのとちょっと似てます。というよりそこから発想しました。

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