« 「永遠のゼロ」 | トップページ | 腰痛の原因 »

2011年1月22日 (土)

音声言語と文字言語

 (本職関連っぽい題名ですが、カテゴリは時間意識戯言ですから、まあいつものやつです。)

 ニューロンの発火深度の差がステレオグラム的に融合して擬似的な「時間の幅」を創り出しているという仮説を足場に、さらに派生的に様々な仮説を立てることが可能になる。その一つが言語である。
 少し前のブログで私は、ニューロン単体の発火サイクルである0.3秒が「時間の幅」の実体であるとし、言葉はその幅の中で単語単位で乱立していると述べた。単語一つひとつの音に反応するニューロン群が、互いに互いを刺激し合いながら反応をループさせ、単語単位の言語認識を持続させているのではないかと考えた。

 すると自然に、構文はどのように成立しているのかという疑問が生まれてくる。
 だから次のように考えた。
 音声言語には、実際には構文に相当するものはなかった。原初的な音声言語には、単語それぞれが主語や述語等の枠に自然に分類される機能はあっても、それを「正確」に、「順序よく」並べる必然性はなかった。その方が、現実を理解するスピードという点では、機能的だ。なによりシンプルである。
 複雑な構文は、文字言語によって発達し、それが逆に音声言語に組み込まれていった。もしくは、現在我々が頭の中で考える時に複雑な構文を使って線状に単語をつなぎ合わせているように感じるのは、文字言語による印象を引きずっているだけなのかもしれない。

 例えば、名文といわれるような文章をすらすらと暗唱する時、もしくは頭の中で反復する時、ただ音楽のように音が再生されるだけで、思考レベルまで達していないケースがある。実質的な思考は、単語一つひとつが構文の呪縛から離れ、有機的、動的につながり合いながら、組み上げられているように感じる。

 まあなにしろ検証しようがないものを対象とする話題なので、どうあがいても戯言の域は出ません、はい。


追記

 「構文」や「文法」は、言葉を自己意識の海にスムーズに投げ込むための、投石機のような働きをしているのではないか。


 

|

« 「永遠のゼロ」 | トップページ | 腰痛の原因 »

「時間意識」戯言」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 「永遠のゼロ」 | トップページ | 腰痛の原因 »