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2011年1月 2日 (日)

一体何にこだわってそんなに必死で生きているのか?

 私は非常にこだわりの強い人間である。それははっきりしている。しかし、何にこだわっているのかと言われると、正直なところ説明に困る。つまり、自分でもよくわかっていないのである。

 金?生活費と、インターネット維持費と、書籍費があればいい。もちろん余裕があるに越したことはないが。
 愛?うーむ、愛は欲しいが、こだわっているわけではない。第一こだわるようなものは最初から愛ではあるまい。
 信用?これも欲しいのは欲しいが、こだわっても手にはいるわけではないのは愛と同じ。
 名声?みんなと同じで当然欲しいが、宝くじと一緒で、そんなものは100%運だぐらいの常識はある。

 そうやって消去法をしながら、えっちらおっちら自分の心を掘り下げていっても結局何にも出てこない。
 心の暗黒面(いわゆる○×欲の類)なんてありがちな角度から探ってみても、人間だから全くないとは言わないけれど、ことさらに俺の本質だなどと悪ぶってみせるほどのものはない。

 結局、自分がこれまで書き続けてきたもの、これがこだわりそのものなんだろうなと、そこにたどり着く。つまり、自分を含めた人一人ひとりが、互いをよりよく理解し合うこと、だ。(※「熊男の住処」内、『「自己認識」を促す国語教育の研究』をご覧になって下さい。)
 もちろん自分自身が他人から理解されたいというのは大きいのだろうが、それだけではない。全く自分に関係ない他人同士のコミュニケーション不全に対しても、この「こだわり」が心の奥の方から出てくるからである。まあこれは職業病みたいなものかも知れないが…。(もしくはミラーニューロンのなせる技か!?(^_^;)
 「真実にしか興味がない」なんて戯言も、根っこのところは多分これと同じものだ。

 まあ、自分が人から理解されたいというのが大半なんだろうな。HP「熊男の住処」とブログ「洞穴日記」を立ち上げようと思ったきっかけが、そもそもそれだったからなあ。ある出来事の後に、これを作ろうと思ったのをはっきり覚えている。それはそういう出来事だった。

 というわけで、日記らしい日記を書いてみました。


追記

 当たり前だけど、人を理解するのも人から理解されるのも簡単なことじゃない。人を理解するためには、その人の言葉を真剣に聞くだけでなく、その言葉の背景にあるものを理解しなければならないから。少なくとも私は「言葉」をよりよく理解しようと、日々「背景」になりそうなものを吸収しながら生きている。漫画も映画も、変な専門書も、全て「背景」につながっている。
 
追追記

 ずいぶん前にこのブログで、「人が孤独を回避しようとするのは、現実を安定して認識したいためだ」と書いたけど、まあつまりはそういうことですな。
 関連記事 → 「人を理解すること」 なんだか懐かしい^^

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