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2011年2月 6日 (日)

戯言ついでの誇大妄想

 いまや本ブログのメインカテゴリになってしまった「時間意識戯言」だけど、あれが本当だったら、それはそれなりに面白いとは思う。つまり「時間」は人の認識の結果としてのみ存在するというやつ。

 たとえそれを大多数の人が納得する日が来たとしても、我々の日常にはほとんど何の影響もないだろう。人はこれまでと同じように、朝起きて仕事に行き、夕方家に帰ってねむりにつく。それにどのような理屈が与えられようが、目の前に「時間」は流れているのだから。

 しかし、無意識レベルではどうだろうか。

 前に記号論と現象学に出会った時の話を書いた。(→この記事)自分の認識が他者との共同作業によって成立しているという相互主観の考え方は、間違いなく私に生きる力を与えた。世の中の全てのものが意味と価値を持ってつながりあって存在しており、自分自身もその中の一つだと知ることは、私に確実に勇気を与えた。

 時間は自分の心が生み出しているという認識は、直接的には日常生活に影響を与えないだろう。しかし人は時折、自分の周囲の「現実」をふと眺めてみるにちがいない。
 虚無的な方向には流されないだろう。むしろ人は目の前の現実に触れようとするだろう。目の前の机の肌触りを感じ、周囲の音に耳を澄ます。自分の心が、それらの現実感を創り出しているということの神秘さに人は胸を打たれる。そしてそれを他者と共有することによって世界が成立しているということの不思議さにしばらく心を沈ませる。

 そしてそのようなあり方が、サブリミナル効果のように、無意識レベルで人の考え方を根っこのところから変化させていく。多分その結果として、みんな幸せになっていく。そんな気がする。

 大言壮語?誇大妄想?いやまあ最初から「戯言」ですから(^_^;)

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