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2011年3月 3日 (木)

相対性理論

 多分前にも一度書いたが、「相対性理論」は私の子供の頃からのあこがれだった。初めて自分の小遣いで買った本はブルーバックスの『相対性理論入門』だった。自分でも冗談みたいな話だと思うが、事実である。特に、とんでもなく速い宇宙船に乗って宇宙旅行をして帰ってくると、地球では時間が何百年も過ぎ去っているといった話には、わくわくさせられたものだ。
 さすがに大人になってもまだああいった話とつきあい続けていたわけではないが、「時間意識戯言」を書き始めてから再び興味を持ち始め、時々関係書籍を読み返したりしていた。
 最近あれこれ屁理屈をこねまわしていたせいか、何となくわからないところが出てきた。わからないところが出てきたのは、子供の頃より少しは理解力が増してきているということだと思いたい…。

 光に近い速度で飛び去る宇宙船に乗っている人物の時間は、その外から静止した状態で眺めている観察者にとって、その進みが遅く感じるという。これはわかる。
 だがなにしろ「相対性」な訳だから、宇宙船に乗っている人物から見たら、外で「静止」している人物は逆に、猛スピードで飛び去っていくように見えるはずだ。つまり両者共が「相対」的に猛スピードで飛び去りあっているといえる。だからお互い同士お互いの時間の進みが遅く見えるはずだ。

 「静止」という概念がくせ者だ。アインシュタイン自身が、宇宙には他の慣性系の基準となる絶対的な慣性系はないといっている。つまり「静止」しているように見えても、実際には動いている可能性があるのだ。
 例えば我々が生活している地球は太陽の周りを回っているし、太陽が所属している銀河系は毎秒600キロで宇宙空間を移動しているらしい。(確か谷川俊太郎さんの詩にそういう内容のものがあったな…)。この毎秒600キロというのも結構いい加減で、ある銀河を基準にして、「相対的」に600キロと仮に決めているだけであり、そのある銀河が動いているとすれば全く根拠のない数値ということになる。つまり何もかも相対的なものに過ぎないわけだ。

 この時間意識戯言で私は、外からの刺激によるニューロンの発火が時間認識を生んでいると屁理屈を語り続けてきた。つまりたとえ絶対的な時の流れが存在するとしても、少なくとも我々が今目の前に感じている時の流れは主観的なものであると。
 相対的に、光に近いスピードで飛び去る観察者同士は、互いに相手の時間の流れを遅く感じ、光に近いスピードで接近する観察者同士は、互いに相手の時間の流れを速いものと感じる。しかしそれは単に二人の観察者の主観に過ぎず、本質的な意味での時の流れは変化していない。そう考えるのには問題があるだろうか。

 ただ多分この問題は、光の正体が今だに解き明かされていないことが、解決を妨げているのだろう。例えば猛スピードで飛び去る宇宙船が発した光が、慣性系に乗っかったまま斜めに進むのか、それとも発した時点から慣性系の影響を受けずにまっすぐ進むのかそれさえわからない。
 そもそも慣性系自体絶対的な基準が存在しないというのだから、つまり銀河の中の地球の上に立っている我々がどんな慣性系に属しているのかさえわかっていないということだ。だからGPSが相対性理論に基づいてそのずれを計算していると言われても、なにをどう計算しているのか想像もつかない。まさか太陽を静止していると仮定している?太陽は宇宙の中心??
 したがって相対性理論は、パラダイムの根っこのところで自己矛盾を起こしているとしか思えない。光は一体何者なのか??

 相対性理論と量子論の統合理論ってそういうことなのかと、あれこれ考えているうちに何となく納得したような気がするところでこの話は終わりにする。

 今回の日記はまたちょっと戯言度が強すぎるような気がするので、削ってしまうかも知れない……。

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