« ロードスター エンジンどう | トップページ | 「ブタのみどころ」 »

2011年5月21日 (土)

「観測」ということについて

 「残像」についてこれまであれこれ戯言を書いてきた。

 我々が手を目の前でぶらぶらさせたとき、指と指の間に残像が見える。問題は、なぜ残像が見えるかではなく、なぜ指を止めているときに残像が見えないのかという点にあると書いた。残像によって目の前の光景がぼやけて見えないのは、残像と今この瞬間の光景とを脳内でステレオグラム(3D)合成しているからだと書いた。

 その時、「残像」の定義にもあれこれあると気づいた。

 まず先に述べたような、目の前で手をぶらぶらさせたときに、指と指の間に見える残像。
 さらには、カメラを長時間露光して、わざと映像をぼやけさせたもの。

 どちらも「一瞬前」の状態が「今現在」の状態と重なっているという点では同じだが、残像が起きているレベルは異なる。
 前者は脳の中、後者は印画紙の上。

 また、我々が実際に目の前で見ることが出来るタイプの「残像」にも、視神経レベルで起きているもの、ニューロンレベルで起きているものと、様々な種類がありそうだと、これまた以前書いた。

 我々の脳も一種の「観測機器」である。カメラもまた一つの観測機器である。
 我々の目の前の現象について、我々の感覚器官という「観測機器」以外の観測手段を使って記録されたデータは、たとえ「残像」のように目で見た印象と写真による記録がそっくりであったとしても、その発生要因が同じであるとは限らない。ただ、互いのシステムを検証し比較することによって、それぞれの構造を推測する手がかりにはなるだろうが。

 「シュレディンガーの子猫たち」という本に、結局量子論は観測機器の構造に謎の全てが集約されるのではないかという記述があったのを思いだした。「光子や電子は確率的に存在している」という量子論の説明を目にした時、「現在」という擬似的な幅を持つ時間の中に今と過去とがまんべんなく存在するという「時間意識戯言」と何か関係がありそうだと思った時期もあった。しかし、何冊かの本を読んだ後、人の脳と量子の振る舞いとは全く関係がないと自分の中では落ちがついている。
 ただし、量子が一定の時間幅の中での平均値的な存在であることは、量子の構造を暗示しているような気がするが、これまた戯言が過ぎる話なので、多分この最後の一行だけ後で削ってしまう。

|

« ロードスター エンジンどう | トップページ | 「ブタのみどころ」 »

「時間意識」戯言」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« ロードスター エンジンどう | トップページ | 「ブタのみどころ」 »