« 名作になりそこねた映画 | トップページ | 「時間の幅」と「アナグラム」 »

2011年6月16日 (木)

授業

 私は授業マニアである。仕事で金もらって国語の授業を毎日4時間も5時間もしているわけだが、仕事以前に授業が好きなのである。(もちろん好きであることは、上手いこととはちょっと違うのは自覚しているが…)

 授業は演劇に似ている。といっても演劇に詳しいわけではないので、多分そうだろうという程度の話だ。

 例えば現代文の授業は、教科書教材を使って、それを生徒と一緒に読み込んでいく。その時私は、その授業で扱う教材を徹底的に読み込むことで、その内容を自分に「憑依」させる。「憑依」というのは、悪霊とか神様だとかを自分の体に取り込んで同期してしまうことをいう。つまりエクソシストのあれだ。

 それからまるで自分で書いた文章であるかのように語る。さらには、自分が擬人法的な教材そのものと化して、生徒達とコミュニケーションする。憑依最終形態「教材さん」である。「それは僕の何ページの何行目を参考にしてご覧 ^^」といった感じだ。

 授業では、本来の私自身である部分は教材が憑依することで殺される。世阿弥でなくても、授業者が「私」を出し過ぎると、最初のうちは生徒はおもしろがってくれるが、すぐにメッキははがれる。「私」を殺して、教材を自分に憑依させて、教材そのものになりきることで初めて授業が成立する。

 しかし、自分が教材そのものと化す過程で、当然自分自身の心と経験は、その一部となる。教材テクストの「空所」を埋める充填剤として使われる。我々が思考する際に、自分の周囲からの刺激を無意識のうちにニューロンの反応に参加させて、自己意識を創り出すようなものだ。(いやこれは証明された論ではなかったか^^;)

 だから、教材について語ることは、授業者自身も意識しないまま、それ自体自己表現なのである。教材を読み込むことは「自己を読む」ことにほかならない。だから「私」を捨てて、教材そのものになりきればなりきるほど、逆説的に我々は自己を表現することに成功する。

 やはり自分に憑依させる教材が自分の好みの教材だと、気合いの入り方が違う。自分で教材を選んでいいような時には、自分の人格形成に大きな影響を与えた分野のものを選ぶが、まあそんな機会はそうそうあるものではない。教育は一人でやるものではないから当然だが。

|

« 名作になりそこねた映画 | トップページ | 「時間の幅」と「アナグラム」 »

日記・コラム・つぶやき」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 名作になりそこねた映画 | トップページ | 「時間の幅」と「アナグラム」 »