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2011年8月 1日 (月)

胡蝶の夢

 久住山のてっぺんでアゲハチョウを見た。ひらりひらり。

 荘子に「胡蝶の夢」という有名な一編がある。
 ある時男がふと居眠りをして、夢の中で蝶になった。蝶はひらりひらりと優雅に飛び回る。ふと目が覚めると、蝶だったはずの自分が、荘という一人の男になっている。
 果たして今の自分は本当に現実なのか?それとも蝶が見ている夢の中に出てくる幻なのか?

 この時間意識戯言で、時間の流れは人間の認識の結果としてのみ存在すると書いてきた。もちろん我々の周囲の現実は我々がいなくとも不断に変化し続けている。しかしそれを流れとして認識する主体のいない「現実」は、果たして今目の前に広がっている現実、我々が認識している現実と同等といえるだろうかと書いてきた。

 標高1787mの久住山の頂上付近は、岩や石がごろごろ転がっていて、殺伐とした風景が広がる。それを見ながら私は、NHKの特集番組で見た火星探査ロボットの映像を思い出していた。人が後から付け加えた意味のかけらも存在しない「現実」そのままの風景。それはまた禅寺の、砂と岩だけで作った庭を連想させた。

 ニューロン群のループ反応が、発火深度の一定のずれを保ち続け、それがステレオグラム的に融合して我々に時間の流れと時間の幅とを感じさせていると繰り返し述べてきた。それでは人の脳を介さない、生の「現実」とは一体どのような存在なのかという疑問が容易に立ち上がる。

 久住山の山頂付近で私は、「流れ」の存在しない生の「現実」を想像しようとした。子供の頃、禅寺の、(例えば竜安寺の、例えば大徳寺の、)庭の縁に座って、何十分もぼんやり眺め続けたことを思い出しながら。

 それは「だるまさんが転んだ」のようなものかも知れない。我々が見ている世界は、我々の意識が作り出した我々だけのものだ。意識を排除しなければ、世界の本質を認識することが出来ないという、パラドックスがそこにある。日常的現実は、むしろ、「現実」から目をそむけて「だるまさんが転んだ」と唱えている瞬間なのだ。何度後ろを振り返って「現実」を観察しても、そこには動きも流れも、そして変化も揺れもない「瞬間」が見えるだけである。

 太陽の近くまで登ってきて、脳味噌をあぶられたせいか、そんな戯言を私は考えていた。ブログネタが出来たとほくそ笑みながら。

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「時間意識」戯言」カテゴリの記事

コメント

『現実』は観測者の視点である程度までコントールがききます。
意識的にせよ無意識的にせよ。

どうせ自分には自分の『現実』しか観測できないわけですし、
それなら考えても答えが出るようなことでもないのかもしれませんね。

投稿: Ms.S | 2011年8月 1日 (月) 21時02分

比喩的になら可能なのではないかという野心を抱いていますので…(^_^;)

投稿: 熊男 | 2011年8月 4日 (木) 19時18分

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