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2011年9月11日 (日)

「ツリー・オブ・ライフ」

(ネタバレ注意)


 ハーバードとオックスフォードで哲学を学び、MITやフランスの大学で教鞭を執っていたという、テレンス・マリックの最新作である。カンヌ映画祭でパルム・ドール(グランプリ)を取ったらしい。つまり、既に世間的に評価を受けている作品ということになる。

 結論からいえば、名作だと思う。見終わった後の満足感もあった。それなのに二時間半の間、多くのシーンで苦痛を感じていた。
 展開の難解さ自体はそれほど問題にならなかった。理不尽な展開の映画には慣れている。時折引用される聖書の言葉も、あちらの文化の人達にとっては宗教的要素は日常的なものであろうと思い、特に違和感もなかった。
 やはり苦しかったのは、ストーリーのメインにある家族の物語だ。特に思春期を迎えた主人公の少年の葛藤が延々と描かれるシーンを見続けるのはつらかった。

 私の場合は、この作品を観てつらい思いをすること自体が、ある程度予定通りであり、ほとんど確信犯だったとさえ言える。自分の中に何十年にもわたって居座り続けているものと対峙するために、「映画」を利用することによってそのきっかけにしようなどと考えていたのだ。カウンセリング用語で「直面化」という言葉があったと記憶しているが、それを意識的にやろうとしていたふしがある。

 ところが、飲み込まれそうになった。所詮「映画」となめていた部分があったのだろう。おそらくはテレンス・マリックが、自身のトラウマと対峙し、それを心の中からえぐり出した結果としての少年の日々の数々が、私自身のトラウマと重なる。一つひとつの出来事は、思春期における典型ともいうべき葛藤を描いたものである。だが、作家が自身の内面をさらけ出した結果として、観る人に他人の話とは思えないようなリアリティを感じさせている。

 そういった「不快」が頂点に達し、映画館から逃げ出したくなるようないたたまれなさを感じ始めた頃、突然ラストシーンがはじまる。

(ここから特にネタバレ注意)


 荒れ果てた大地を一人歩む主人公の目の前に、母親らしき人物が現れる。そして少年時代の自分。そしてかつての父親、弟たち。そして様々な人々。広い湖の浅瀬に、過去と現在とが入り交じり、数え切れないほどの人々が集まり始める。そして全ての人々のにこやかな笑顔。

 そのシーンを観ながら私は、私自身が30を過ぎて記号論や現象学に出会った時のことを連想していた。
 前に、「記号論とか現象学とか」という題で、ブログ記事を書いたその想いである。

 一つひとつの「記憶」は、我々を意識的にも無意識的にも支えている。だが、人のこころを作り出すのは個人それぞれの直接的な経験だけではない。人としての、またこの世に存在するものとしての「古い記憶」が、我々を陰から支えている。それは「集合的無意識」と呼ばれるものかも知れないし、また「相互主観」と呼んでいいものなのかも知れない。我々はそれに触れる時、一見無駄なようにも思われる様々な出来事、例えば「つらい思い出」さえもが、意味を持ってつながりあって自分の心を作り出していることに気づく。そして、ふと、奇妙な幸福感を感じるのだと思う。

 

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