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2011年12月28日 (水)

無限の絶対的な慣性系-光速度が慣性の影響を受けない理由-

 ツイッターでも時々書いていたように、最近暇な時にぼんやり「観察者のいない現実」について夢想していた。
 もしこれまで語ってきたように、我々の脳内のニューロン群の発火深度の差がステレオグラム的に融合して「時の流れ」を我々に認識させているのだとしたら、我々の脳を介さない現実は一体いかなるものと言えるのだろうと考えたのだ。

 そうするとどうしても「視点」という問題を避けることが出来なくなった。

 我々の脳を介さないと言うことは、単に「時の流れ」を認識する主体が消失するにとどまらず、世界のどこにも「視点」が存在しないということになってしまう。
 我々が認識する世界は、それがどんなものであれ必ずある視点からのものだ。我々一人ひとりが見ている世界については言うまでもなく、写真はカメラからの視点であり、漫画でさえもある一定の視点を想定して書かれている。

 そうこう考えているうちに、視点が存在しないと言うことは、逆にありとあらゆる場所に視点が存在するに等しいと気づいた。特定の視点が存在しない以上、「観察者のいない現実」を記述するためには、無限の視点を想定せざるを得ない。その「無限の視点」とかいうものを我々の脳が果たして認識可能かどうかについてはとりあえず置いといて、そのまま思考実験を続けていった。

 そこまで考えたところでちょっと前に私自身が「相対性理論」について書いた記事の内容を思い出した。私はそこで、「絶対的な慣性系が存在しない以上、観察者の目の前の物体の動きが、静止している観察者から見た動きであるか、動いている観察者から静止している物体を見たものか、そのどちらかに決めつけることは出来ない」と書いた。(ここまではまあごく一般的な考え方だと思うのだが…)

 そこで、「無限の視点」について考えてみるとなんだか奇妙なことになってきた。観察者の視点を外した「無限の視点」は、つまりありとあらゆる慣性系に寄り添っていることになる。そしてそれらの慣性系は、寄り添っている視点から見れば全て静止系である。静止系であるからには「動き」はなく、「動き」によって生まれる時間も存在しない。(ここで当然それでは加速系をどう考えるかという問題が生まれてくるが、それはまたの話と言うことで^^;)
 つまり等速慣性運動を続けている限りにおいて、観察者がいないという条件下で、すべての物体は静止系と見なすことも可能だということになる。つまりそれは何も起きていないということだ。

 実に奇妙な結論だが、「三次元球面」宇宙では、それもありなのかなと思った。「三次元球面」とは宇宙の果ての全てが逆の方角の宇宙の果てとつながっているという考え方で、例のポアンカレ予想でペレルマンが数学的に証明したというあれだ。「三次元球面」においては、宇宙の全ての場所が、宇宙の中心と言うことになる。(これについては以前この記事で書いた。)
 全ての場所、全ての慣性系が宇宙の中心であるということになると、ありとあらゆる存在が静止系であるという発想もそんなに違和感はないかな、などと考えている途中でふとある法則を思い出した。
 光は慣性系の影響を受けず、常に一定の速度を保つ。例のアインシュタインの相対性理論の基となった「光速度不変の原理」である。
 光は地球上でその速度を測ると、南北で計測しても東西で計測してもその速度が変化しない。地球は太陽の周囲を公転しているから、その影響が出るはずなのに全く数値には表れない。つまり「光速度不変の原理」は、単なる理屈ではなく、実験によって裏付けられた事実である。なぜ光がそのような奇妙な振る舞いをするのか明らかにされないまま、その実験結果だけが絶対的な真実として、相対性理論の論理基盤となっている。

 そこでまた戯言を思いついた。

 光の速度が一定なのは、地球自体が一定の慣性系に属しているからであり、それはこれまで述べてきたように静止系と見なすこともできるからだ。静止系に右も左も東西南北もない。同じ慣性系に属する装置によって測られた光が慣性系外の条件にかかわらず一定の速度を保つのは当然であると。

 何の本だったか忘れたが、こんなことが書いてあった。コペルニクスの惑星の軌道モデルはシンプルで説得力があるが、プトレマイオスのモデルも複雑なだけであって一つの考え方ではあると。つまり視点をどこに置くかが問題なのであって、どれが間違っていてどれが正しいのかを決めつけることはできないのだと。非常に興味深い提言と感じる。


追記

 内容が内容(無いよう)ですし、削ってしまう可能性が高いです^^;
 でもおもしろがってあれこれ夢想してます。頭の体操ですね。こういうばかげたことを考えて、それであれこれネットを参考にしたり本を読んだりするのは、まあ老人のささやかな楽しみといえましょう。
 最近、それじゃあ「加速系」ってなんなんだろうという考えにはまりつつあります。(おい)

追追記

 この記事の理屈だと、光の速度はそれぞれ相対的に異なっているはずということになりますね。赤方偏移や青方偏移を起こしている光の速さの測定は行われているんですかね。それらの色の変化は光速度の変化によっても引き起こされるような気がするのですが、単に私の勘違いかな?^^; まあ厳密に測るためには巨大な観測装置を宇宙空間に作らなければならないでしょうけど。
 赤方偏移が引き起こされる理由はいろいろ可能性があるようですが、青の方は光を発する対象が接近しているという以外の理由はなさそうですし、なんだか面白い結果が出そうな気がするのですが…
 同じ条件で、青方偏移を起こしている光(我々に接近する慣性系上で生まれた光)と人工的な光(我々が属する慣性系上で生まれた光)を比較すればいいのだから、実現可能な気もしますが。
 

 

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「時間意識」戯言」カテゴリの記事

コメント

光は、観測する者がどの様に運動しながら観測しても、秒速299,790.2㎞と計れます。その理由は、運動する慣性系においては、時間及び空間3次元の長さが変換されるからです。xyz=3次元の空間・t=時間 θ=観測者の進行方向と光の進行方向との角度とします。 速度Vで運動する慣性系では、時空間は下記の様に変換されます。CATBIRD変換と名付けます。(2乗を^2と表わす)
t’=t*(√(C^2-2VCcosθ+V^2)/C )/(√(1-V^2/C^2))
x’= (x-(V/C))/√(1-(V^2/C^2))
y’= y/√(1-(V^2/C^2))
z’= z/√(1-(V^2/C^2))
この変換により、光速は常に一定速度で計れます。ローレンツ変換は、一部正確ではない点がありました。
詳しくは、
http://www42.tok2.com/home/catbird/
を参照ください。
正しいと思うのですが、誤りがあれば教えてください。

投稿: catbird | 2012年1月 7日 (土) 01時54分

 コメントありがとうございます。ホームページも見せていただきました。数学に触れる機会が少ない私のような者にも理解しやすいよう作られた良いホームページですね^^

 私の疑問は光速度=1という定数そのものにあります。

 「相対性理論」は、初めて自分の小遣いで買った本がブルーバックスの『相対性理論入門』でしたから、子供の頃からのあこがれでした。特に、光に近い速度で旅をして帰ってくると出発点では時間が何百年も過ぎ去ってしまっているといった話にはわくわくさせられたものです。今でもよく漫画とかでそういった「ウラシマ効果」がモチーフにされていますよね。

 私は文系でしたが、物理で受験した変な学生でした。私は物理の問題を解く時は、最初に手振り身振りで、「大体これくらいの数値になるはずだよな」とか「こういう雰囲気の数式になるはずだよな」とかイメージを作ってから、問題を解き始めていました。それで「相対性理論」の「時間」の問題について考える際にも、頭の中で「手振り身振り」してみたわけです。
(まあそもそもこのブログカテゴリ「時間意識戯言」の結論が、「時間の流れは主観的なものに過ぎない」という「戯言」ですから、そういう方向に最初から偏差がかかっていることを理解していただけると助かります^^;)

 私のイメージの中での最も大きな疑問は、時間や空間が変化することにではなく、「観察者」の存在にありました。「観察者」が複数になった時、なんだか不思議な状態が生まれるような気がするのです。  例えば、Aという観察者が、Bという移動物体を見ているとします。Bは光と同じ速度で移動しています。そこにさらにBと反対の方向に光の半分の速度で移動しているCという観察者を登場させます。Bという移動物体は「光速度不変の法則」があり、光速度を超えることはありませんから、Aから見ても、Cから見ても、同じ「光速度」に見えるはずです。本来我々の日常的な感覚では、AとCとではBが違ったスピードに見えるはずですから、それが同じ「光速度」に見えるというずれがどこかで解消されているはずです。「相対性理論」においてはその解消が、Bの物理的時間がAが観察した時とCが観察した時とで異なることによってなされるのでしょう。

 しかしこの「観察対象の物理的時間が複数の観察者ごとに違って見える」というのは、現実にあり得る状態とは私には信じられないのです。この理屈だと、観察者が増える度に観察対象であるBの物理的時間は長くもあり短くもあるという矛盾した状態をどんどん増やしていくことになります。
 現実が可能性としての未来に向かってこの瞬間にも分割して並行世界を作り出していくという量子論的解釈を連想しますが、私には正直そういう考え方も「イメージ的に」ぴんと来ません。

 私はこの宇宙は「観察者」とは別に存在していると思うのです。我々人間という「観察者」は、自らの観察、つまり主観で世界を捉え、それをコミュニケーションによって相互につなぎ合わせて「現実」を認識していますが、それはあくまでも我々の脳の中の世界の話であって、「観察」という我々の行為に過ぎないものが、物理的客観的時間に実質的な影響を与えるとは信じられないのです。

 だから私は「光速度不変」という、アインシュタインが設定した定数そのものに対して疑問を感じるわけです。

 
※ ただ「相対性理論」に関することは、このブログの「時間意識戯言」の屁理屈を支える傍系的話題として書いたものなので、そろそろ撤退しようかと考えているところです。無責任な言い方で申し訳ありませんが、その辺を了解していただけると助かります^^;

投稿: 熊男 | 2012年1月 7日 (土) 11時27分

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