« 意識の実体 | トップページ | 意識の実体(その3) »

2012年2月27日 (月)

意識の実体(その2)-記号論と現象学-

 十数年前に記号論と現象学に出会って以来、私がそれらのパラダイムの圧倒的な影響の下にあるということについては何度か語ってきた。

 現実が先にあってそれに言葉という名前がついているのではなく、目の前の光と音の洪水に言葉によって切れ目を入れて初めて認識可能な「現実」が生まれてくるという記号論の考え方。
 「意識はつねに何かある対象への意識である。すなわち現実と意識とはつながっている。」という現象学の「志向性」の考え方。

 ソシュールにしてもフッサール(ブレンターノというべきか)にしても、おそらくは一切の先入見、一切の雑音を消去して、この現実この瞬間を生きている自分自身の感覚だけを頼りにそれらの考え方に到達したのだろう。

 前の記事、「意識の実体」の内容は、記号論や現象学の考え方そのものと言っていい。

 現実認識は人の意識そのものである

 我々は現実を認識する際に半ば無意識に言葉を目の前の光景に当てはめる。そしてその言葉を構成する音素に反応するニューロン群を脳の中でループ反応させ始める。同時にその言葉に関連づけられた、他の様々な言葉に反応するニューロン群がループ反応し始め、脳の中で把持、すなわち待機状態に入る。さらにそれらの言葉に関連づけられた感覚器官に近いモジュール(エージェント)が呼び起こされ、心の中に擬似的な「現実」が創り出される。

 我々は脳の中で自在に「現実」を創り出し、それを操りながら生きている。外部からの刺激による「現実」と、脳の中で創り出された「現実」とが重なり合いせめぎ合う。外部からの刺激による「現実」の実体が言語認識だからこそ、それが可能になる

 記号論や現象学は、人の現実認識のあり方を探るだけでなく、人の意識そのものを追究していたのかもしれない。


追記

 私が「言葉」を中心に置く最大の根拠は、それが音であり、最も日常的で、最もニューロン群のループ反応を引き起こしやすいと考えるからです。前にも同じことを書いたかな…。

追記

 抽象概念というのも、感覚器官への刺激を伴わない擬似的な「現実」と考えても良いのではないかと。ただ抽象概念といっても、現実の事物からそれこそ「抽象」されたものではあるし、実質的なメタファーも多いだろうから、こんなことは別に断るまでもないような気もするが。

|

« 意識の実体 | トップページ | 意識の実体(その3) »

「時間意識」戯言」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 意識の実体 | トップページ | 意識の実体(その3) »