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2012年2月26日 (日)

意識の実体

 思いつきのメモ書き程度だが…(実はずいぶん前から考えていたことだが)。

 多分日経サイエンスの記事だったと思うが、事故か何かで完全に視覚を失っているはずの人物が、物が見えていないはずなのにすいすい目の前の障害物を避けて歩くというエピソードが紹介されていた。これは人の意識の実体を暗示しているように思われる。

 以前私は、時間意識をもたらすニューロン群のループ反応について(戯言を)語る文脈で、意識の実体は言語であると述べた。フッサールの『内的時間意識の現象学』にもあるように、我々が耳にしている「音」は、「今」と把持された「過去」との合成である。外からの音の刺激が連続的にニューロン群に刺激を与え、さらにはそれらのニューロン群が互いに刺激し合いながらループ反応し始める。それは外部からの刺激から独立してニューロンが発火可能であることを意味する。それこそが言語の元であると。

 それらの「音」は、他の感覚器官-つまり視覚等-の刺激による反応とリンクし、現実認識を反映した「意味」を脳内に創り出す。つまり、言語、すなわち「音」が意識の実体であるといっても、単に頭の中で「音」が鳴り響くのではなく、その「音」とリンクした他のニューロン群と共同作業が、我々の現実認識を生み出す。この「他のニューロン群」は、モジュールだとかエージェントだとかいった言葉で表してもいいかもしれない。

 ところで、先に述べた視覚を失いながら歩行できる人物の例だが、これは脳内の現実認識のためのシステムがその全てが働かなくても機能できるということを暗示している。
 我々は日常的に周囲の光景を眺めながら、無意識のうちに言葉を使い、そこから意味を読み取りながら生活している。それは、周囲を見回す度に頭の中で音が鳴り響くというのではなく、音につながった他のモジュール(エージェント)のみが呼び起こされ、それらの機能だけで現実認識がなされていると考えるとわかりやすい。

 おそらくは我々の意識も、そういった現実認識のシステムをそのまま流用している。というより、現実認識のシステムそのものが意識であるというべきか。
 我々は音のない「音」を頭の中で響かせ、さらにその「音」に関連する記憶の中の「音のない『音』」を脳の他のモジュール(エージェント)から呼び起こし(例えば海馬のような…)、目の前にはない「現実」をありありと思い浮かべ、思考している。それらは聴覚や視覚そのものに直結するモジュール(エージェント)とは別に機能できるため、思考し始めたからといって突然目の前の光景が思い出の風景に切り替わったりするようなことは起こらない。視覚を失いながら歩行できる人物の例からわかるように、直接的具体的な視覚イメージが無くても、「現実」を認識することは可能なのだから。

 ただし音に関する限りは、映画などの口を閉じたままの登場人物の言葉、つまりモノローグがなんの違和感も感じさせないことからも、我々が心の中で思考しながら、実際に脳の中で「音」を響かせていると考えてもなんら問題ないとは思うが…。


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