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2012年3月20日 (火)

アキレスと亀

 一つ前の記事の枠組みを使えば、同じ「ゼノンのパラドックス」の「アキレスと亀」についてもあれこれ語れそうだから語ってみる。
 古代ギリシャの英雄アキレスがある時亀と競争した。亀にはハンデをつけて先に行かせ、アキレスがそれを追いかけた。
 ところがアキレスは亀に追いつけない。アキレスがスタート時に亀がいた場所に到達し、顔を上げてみると、亀はそれより少し前に進んでいる。またアキレスが先ほど亀がいた場所までたどり着いて顔を上げると、亀はまた少し先に進んでいる。
 それを延々繰り返して、亀とアキレスの間はどんどん縮まってはいくが、縮まるだけで永久に追いつくことはない。これが「アキレスと亀」というパラドックスの全てだ。

 一つ前の「飛ぶ矢のパラドックス」で次のように述べた。
 数学は異なる慣性系を「無限の視点」によってそれぞれ擬似的な静止系と見なし、「点」として扱うことを可能にした。それによって、実際には認識不可能な「瞬間」という状態における異なる慣性系相互の関係を、「客観的」に記述することに成功したと。

 「瞬間」というのは一枚の絵のようなものだ。人の認識のままでは「動き」という正体不明な状態にある系の一つひとつを、「瞬間」というキャンバス上に「点」として固定する。その絵を連続写真のように重ね合わせることで、系自体の軌跡と系相互の関係とを記述している。

 この時、それぞれの「点」が同じ座標に位置する-アキレスが亀に追いつく-ことには、どのような意味があるか。
 異なる慣性系上にあるものを、それぞれに寄り添う複数の視点によって擬似的な静止系として扱っているのが数学だと先に述べた。「瞬間」という架空の状態を想定し、その上で異なる慣性系をあたかも一つの系であるかのように記述している。
 それらの擬似的な「点」が同じ座標に重なった時、それぞれの「点」が本来持つ特徴である、異なる慣性系、異なるベクトルの「動き」、という本質が現れ出る。二つの「点」の関係を記述するだけなら有効だった数学の限界が、重なり合った瞬間に露呈する。
 それらはたとえ同じ座標にあったとしても、本質的な意味では同じ座標に到達しているとはいえない。それは異なる波長の波が波の状態を保ったまま重なり合うようなものだ。数学的な記述である「異なる慣性系の座標の一致」は、実際には一致していないのであり、それを同じ座標として扱うこと自体が、いわば異なるパラダイムの基に定義づけられた言葉を同じ意味内容のものとして扱い、それに気づかないでいるようなものだ。
 つまり、二つの「点」がほんの少しでも離れている状態と、完全に一致している状態とでは、そもそもそれらの概念を定義づける枠組みそのものが異なっている。数学は、それぞれ異なる慣性系を擬似的な静止系として扱った上に、さらにそれらを「同じ座標」上に重ねてしまうという二重の疑似状態を創り出してしまっている。もしその「同じ座標」が本当に一つの座標であるなら、それまで複数だった慣性系が一つを残して後の全てが消失してしまったということになる。
 「無限の視点」によって擬似的な静止系-「点」-として扱われたそれぞれの慣性系は、それが本来他の「点」、すなわち他の慣性系とは異質な存在であるため、そのどれをも消し去ることはできない。つまり「点」と「点」の関係を記述することはできても、それを重ね合わせることはできない。アキレスは亀に永遠に近づき続けるが、永遠に重なり合うことはないのだ。

 人の日常的な認識においては、いとも簡単に亀に追いついてしまうアキレスが、数学的には永遠に追いつけないなどといったパラドックスは、数学の持っている性質そのものから来る。


追記
 
 で、これだけ書いておきながら、アキレスと亀には手を出すべきではなかったと、後悔しています…。

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