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2012年3月16日 (金)

ゼノンのパラドックス再び -数学という無限の視点-

 私は以前「飛ぶ矢のパラドックス」という記事で次のように書いた。

「『動いている物体』に視点を寄り添わせること自体が、瞬間を積み重ねるということと明らかに同義ですね。」

 だが、「明らかに」などといった言葉を使いながら、この一文はこの時点では感覚的、直感的なものだった。

 「飛ぶ矢のパラドックス」は、これまで説明してきたように「ゼノンのパラドックス」の一つである。
 飛んでいる矢はある瞬間を捉えれば止まっている。時間の流れが瞬間を積み重ねたものであるなら、止まっているもの、つまりゼロをいくら積み重ねてもゼロだから、飛ぶ矢は実は止まっている、というものだ。
 もちろんそんなばかげたことは誰も信じないだろう。人の目の前を飛ぶ物体は、それにどんな屁理屈が付け加わろうが、実際に飛んでいるのだから。
 しかし、このパラドックスは本質的な意味では2500年間解かれていない。

 この問題は、「動き」とはなんなのかという疑問と同義である。

 ジョセフ・メイザーという数学者の『THE MOTION PARADOX』という本からの受け売りだが、数学においてもこの「動き」の謎は解かれていない。その瞬間における「動き」そのものを記述できないために、数学は一つの方法として、物体の「動き」を単位時間に進む距離に置き換えて表現した。例えば時速60kmと言う時のkm(距離の単位)がそれだ。また別の方法として、一定時間分の「動き」のデータをグラフ化し、その曲線の接線という形で特定の瞬間における「動き」を記述しようとした。つまり微分だ。
 ここまで読んでわかるように、結局数学は一定の幅を持つ時間の中での「動き」の軌跡を分析することでしかそれを記述することができない。ある一瞬間の、純粋な「動き」そのものを記述できないまま、2500年の時が流れてしまっている。

 冒頭に記した「飛ぶ矢のパラドックス」の記事を書いた後も、疑問は残っていた。
 飛ぶ矢に視点を寄り添わせれば、飛ぶ矢は止まる。しかし相対的に、飛ぶ矢の周囲の風景が飛ぶように流れ始める。周囲の風景に視点を戻すと、飛ぶ矢は再び飛び始める。
 視点を寄り添わせた「動く」ものは観測者にとって静止するが、代わりにそれまで静止していた全てが、「動き」始める。それがいたちごっこのように続くだけで、いつまでたっても「動き」を静止させることはできない。

 だがこの「観測者にとって」という部分こそがポイントなのだ。

 「視点を寄り添わせる」と書いてそれをイメージする時、私は心の中で自分自身の体をその「動く」物体に寄り添わせている。「動く」物体と同じ慣性系に乗っかり、そこから周囲を眺めている。そうすると当然周囲は相対的に「動き」始めるように見える。
 だが、実際には「『動く』物体に寄り添う視点」は観測者ではない。視点は、その視点が置かれた慣性系のみを数学的に座標ゼロとして記述するためにあるのであって、他の慣性系と自分が寄り添っている慣性系との相対的関係を「観測」するような質のものではない。
 だから、一定の慣性系に視点を寄り添わせた時に、それまで静止系だった全てが「動き」始めるという記述は、数学的な問題ではなく人の認識の問題と言える。(※ この一文に穴があるのは承知しているが、それについては後日記述するとして、話を進める。とごまかす。)
 これを人の認識の問題に押し込むことができるのなら、「時間意識戯言(A mystery of the time consciousness)」のパラダイムの擬似的な「時間の幅」によって「動き」を説明することができる。

 ではなぜある瞬間における、「動く」物体と周囲の静止系との相対的な関係を、数学的に記述することができるのか。実際には人の認識によってしか捉えることができないものを、正確な現実として記述できるのか。

 それは数学が「無限の視点」によって記述されているからだ。(※「無限の視点」とは、これまた本カテゴリで私が使っている一種の造語だが、詳細についてはリンク先の記事をご覧になっていただきたい。)
 数学的に示された座標の全ては、その慣性系に寄り添った視点で表現されている。したがってある慣性系と別の慣性系との相対的関係を数学的に記述しようとする時、数学は二つの系にそれぞれ寄り添う視点を同時に使っている。それによって二つの系の両方についていわば擬似的な静止系として記述することに成功している。

 だが、我々現実の観測者たる「人」は、一度に一つの視点しか持つことができない。そのことが様々なパラドックスとなって、時折、我々の目の前に現れる。

 「飛ぶ矢」を写真撮影してみよう。もちろんカメラは大地に固定して、「動き」をありのまま捉える。
 シャッタースピードが遅ければ、飛ぶ矢はぶれて見える。そこにはシャッタースピードに応じた「時間の幅」が転写されている、とも言える。シャッタースピードをどんなに速くしても、その露出時間に応じた擬似的な「時間の幅」が、写真上の像の「ぶれ」として記録される。「ぶれ」のない写真などあり得ない。「ぶれ」が全くないということは露出時間がゼロだということだ。「動く」物体を撮影する限りにおいて、必ず「ぶれ」は生まれる。
 ニューロン群のループ反応によって創り出され、「動き」を認識するための最小単位となる擬似的な「時間の幅」は、この「ぶれ」と同質のものだ。
 固定したカメラをスタンドから外して、「動く」矢にぴったり同調して動かせば、矢の「ぶれ」は消える。その代わり今度は、周囲の風景が「ぶれ」始める。

 「飛ぶ矢のパラドックス」の、ある瞬間において「飛ぶ矢」と「周囲の風景」のどちらも「ぶれ」無く静止した状態とは、「無限の視点」によって対象物の全てを擬似的な静止系として記述したものに他ならない。そういった数学的記述と、一つの系にしか視点を寄り添わせることができない現実の観測者による記述とを混同させたことが、「飛ぶ矢は止まっている」という論理上の矛盾を生んでいる。

 冒頭の太字の記述に戻ろう。
 ある瞬間を「ぶれなく」記述し、その瞬間を積み重ねることは、全ての系に視点を寄り添わせることと同義である。それは、「無限の視点」によって現実を記述できる、数学のみが可能にする所作といえる。


追記

 後でなんやらかんやらネットを検索しているうちに、スカラーやらテンソルやらどっかで聞いたことはあるけど意味はさっぱりわからないものに出くわして、座標を必要としないとか何とか。
 この記事で私が言いたいのは、「点」という概念そのものが最初から「無限の視点」によってでしか存在し得ないものなのではないかということです。(なんのこったい)

 

  

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