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2012年3月25日 (日)

続・アキレスと亀 -擬似的な一つの系-

 アキレスと亀についての追記である。

 前回の記事で私は、次のように書いた。

「異なる慣性系上にあるものを、それぞれに寄り添う複数の視点によって擬似的な静止系として扱っているのが数学だと先に述べた。「瞬間」という架空の状態を想定し、その上で異なる慣性系をあたかも一つの系であるかのように記述している。」

 これは前に書いた「ゼノンのパラドックス」の記事と全く同じ観点である。「アキレスと亀」についても、この箇所を使った方が説明しやすいような気がしてきた。

 グラフ上に示された複数の「点」は、本来異なる慣性系であったものが、まるで一つの系であるかのように記述されたものだ。それは一枚の紙の上に書かれた絵のようなものだ。それを数限りなく重ね合わせることで、それ自体を記述することが困難な「動き」について記述することに成功している。
 いわば「動き」をいったん凍らせて、かつて「動き」だった氷の塊をその軌跡にそって並べることで、もとの「動き」を再現しようとするようなものだ。

 どの瞬間を捉えても「動き」を凍らせることができる。しかしこの「瞬間」はその瞬間だけのものである。異なる慣性系だったものを静止させ、複数の系をまるで一つの系のように扱うことで他の「瞬間」との関係~「流れ」というべきか~を切り離し、数学的に記述することが可能になった。それによってどんな「瞬間」の「点」相互の関係をも記述できるようになったが、当然の結果として「瞬間」相互の本質的なつながり~「流れ」~を記述することができなくなった。つながりが無くなってしまったものを並べることで、擬似的な「つながり(流れ)」を記述することはできるが。

 「アキレスと亀」の問題は、単にアキレスが亀に「追いつく」という結果に対してだけでなく、途中の道中全てにあてはまる。亀まで1mの時点でも、10cmの時点でも、それに至るまでに無限の「点」を通過することには代わりはない。
 「アキレスと亀」も「飛ぶ矢のパラドックス」も突き詰めれば、「動き」とはなんなのか、複数の慣性系を同時に観測するとはどのような意味を持つのか、そしてそれらを数学がどのように扱ってきたか、という点に集約されるのではないか。
 それは我々の認識の問題であると同時に、我々が自らの認識に対してどのような認識を持っていたかという問題と言えるかも知れない。
 

 
 
 

 
 

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