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2012年10月28日 (日)

二年ぶり

 二年ぶりにとある学会に参加してきた。「とある」というのは、正式名称を書くと検索上位に来てしまうことが多いので、照れくさいからである。しかし、以前その学会で発表させてもらった時の原稿が時々検索上位に来たりするのは微妙にうれしかったりするので、まあ人の心なんてそんなものである。(なんじゃそりゃ)

 「言語教育」に観点を絞ったシンポジウムがあって、なかなか面白かった。うろ覚えの記憶だが、印象に残っている部分をいくつか挙げておく。

 学習指導要領の改訂に参加していた方の発言で、「『話す・聞く』『読む』『書く』の分類は無くしてしまおうということになっていたのがぎりぎりで生き残ってしまった」。いやなんとなくそうなんじゃないかと思っていたけど。

 パネラーを務めて下さった方の発言で、「『言語の役割・働き』を基盤にした国語教育が必要とされている」。
 (結局、「言葉の役割・働き」については、何一つ具体的な内容は語られなかったと思うのだが…)

 上記の提案をしたパネラーに対しての、文科省の方の「国語教育を根底から変えてしまおうとしているんですよね」というつっこみ。さらには、それについて説明して当然のはずのパネラーが、同語反復的にそこまで説明したことを繰り返すだけで、具体的なことはなにも語ろうとしなかったこと。

 そういうのを聴きながら、一人でわくわくしていた。わたしゃそんなことでもわくわくしてしまうのである。

 ちなみに「現実認識のための言語」に私の興味の中心がある。
 サピア・ウォーフ仮説がこれまでアメリカ認知心理学あたりで否定的な扱いをされてきたことにも、あれこれ思うことがあるのだが、それさえ現代においては変化しつつある。肯定されつつある。たぶん、ネットが日常化して、本当の意味で世界が近くなったこともあるのだろう。世界がそんなふうなのに、日本だけが「現実認識のための言語」を否定し続けてもしかたがない。

 それで面白くなってきたなと、わくわくしていたわけだ。

※ ひょっとしたら、日本にはそういう方面の専門家が、いないか、少ないか、自分の領域から出たがらないか、そのどれかなのかな?
 

追記

 この土日は、もう一つ別のイベントにも参加してきた。そちらについてはまた別の機会にブログ化予定。

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