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2013年2月 3日 (日)

変な本を書き始めて思うこと

 変な本を書き始めて思うのだが、もし私のいうことが真実だったとしても、「そんなはずはないっ」と、自分がこれまで信じてきたことを守ろうとする人はいくらでもいるのだろうなと。
 私の語ることが、その人物が仕事として関わっている分野に関わりが深いものであれば、なおさらだと思う。私自身、自分がこれまで何十年にもわたって積み上げてきたものを、分野外の人物からあれこれしったかぶったことをいわれれば、平常心ではいられない。

 「時間や現実は人間の認識の結果としてでしか存在しない」などといった戯言も、そんなふうに「そんな馬鹿なことが」と否定されても仕方がない内容ではあると思う。例えば、宗教を信じる人にとっては、絶対者の存在を否定されたように思うかも知れない。

 科学と宗教との相克は、人間くさい八百万の神と一緒に生きてきた我々日本人にとっては想像できないほどの影響力を文化社会に与えているらしい。
 アメリカの学校では進化論を教えていないというのはよく目にする話題である。最近では「脳と時間」という講演会で、認知科学の最先端で活躍している下條信輔さんも、自身の研究に対するそういった「相克」の影響を伺わせる発言をしていた。
 天文学者カール・セーガンの原作小説に基づいて制作された映画「コンタクト」も、まさにそういうテーマを描いたものだろう。ただし、あの映画の結末は「科学と宗教の和解」だったと理解している。
 
 私は基本的に無神論者であり、神を信じてはいない。しかし、神を否定するつもりはないし、そんな力もない。信じていないといっても、突然「神」が私にも認識できるような姿になって目の前に現れたら、「なんだ、あなたやっぱりいたんですか。いるんなら早く現れて下さいよ。人が悪い…」と、普通に会話して納得してしまうに違いない。

 アインシュタインは最初に宇宙をポアンカレ予想的「三次元球面」として考えていたらしい。つまり宇宙の果てと果てとが全てつながった、内側も外側もないたった一つの空間だ。それが、ある時期から「外側と内側とがある球体のような空間」に彼の想像が変化した。それは宗教の影響だったのかもしれないという記述をどこかで読んだような気がする。つまり、神は宇宙の外側にあって我々を見守っているはずであって、「外側も内側もないただ一つの空間」では神の居場所が無くなるというわけだ。

 「時間や現実は人間の認識の結果としてでしか存在しない」という戯言は、私がそういう結論に至る過程をよく読めばわかるだろうが、それは我々の周囲の世界を我々がまるで神のように作り上げたという意味ではない。むしろ、我々の認識には限界があって、現代文化のすさまじいまでの発展、特に巨大建造物などのインフラが我々に与えるイメージによって、科学の力で世界の全てを解き明かしたように我々は感じているが、それは錯覚に過ぎないと言いたいのだ。
 我々は、「ヒト」という動物が持っている身体能力の範囲内でしか周囲の現実を認識することはできない。「宇宙の外側」は何十億光年の彼方にあるのではなく、今この瞬間を生きている我々の身の回りにあるとさえ言える。

 私がここにこんな戯言を書き付けるまでもなく、ヒトという動物の能力の限界など、誰しも感じていることだろうけど。

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