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2013年6月23日 (日)

視点範囲と「真実」について

 多分、もう一冊を書くために心の準備をしつつあるのだろうが、本職系の記述アイディアが思い浮かぶので浮かぶまま書いてしまう。

 大昔にこのブログで私は、記号論と現象学に出会った時のことを書いた。どんな意味のなさそうにみえるものも、それら全てが横につながりあって「現実」をつくり出している。だから世の中に意味のないものなど何もないのだ。そんなふうにそれらの学問は教えてくれた。そして、この考え方は、私に「生きる力」を与えてくれた。

 一人ひとりが見ている現実は相対的なものだと、出版まで一ヶ月を切った『時間認識という錯覚』において繰り返し述べている。一人ひとりが見ている現実が相対的で、異なっているからこそ、それをつなげることに意味が生まれる。つながりあった多数の他者の視点が認識可能な「自分の世界」を拡張してくれる。そこに初めてその人にとっての「真実」が生まれてくる。(これはつまり現象学でいうところの「相互主観」な訳だが)。

 ならば、視点の「つながり方」によっても様々な「真実」が生まれてしかるべきだ。

 もちろん、例えば特定の出来事の「真実」とは、それに関する全てを知り尽くすことによってしか理解されないものだろう。全ての他者の視点をつなげきったところにしか「真実」は生まれないものだろう。しかしそれは本当に可能だろうか?
 実際には我々は制限された「視点」のみを組み合わせて、目の前の現実を現実として認識している。その都度その都度の「真実」を判断している。なぜなら我々一人ひとりがつなげることのできる「他者の視点」には限界があるのだから。コミュニケーション可能な他者の数は、書籍など間接的な手段を含めたとしても当然限界がある。

 だから、それを逆手にとって、あえて「視点」を制限することによって見えてくるものに価値を与えるというのも面白いかも知れない。もちろん「つながり」の全体構造を俯瞰する能力があるのならそれがベストであるに違いない。しかしそれが可能だとしても、「全体を俯瞰する」ということさえ一つの「視点」と言えなくもない。制限された視点を、それが不完全な認識をもたらすと知りつつあえて用いてみようとする態度は、「全体を見る」ことでは見えないものを人にかいま見させてくれるはずだ。

 全体構造がしっかり見えている状況で、あえて視点範囲を狭めることで、テクストの裏にあるものを覗き込む。こういうのも考え方としては面白いかも知れない。

追記

 実際、そういう方法によってしか見えてこないものがあるような気がします。例えばアナグラム的にテクストの裏に隠された傍系的論理構造だとか、作者の無意識の記述傾向だとかですね。

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