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2013年6月16日 (日)

心の動きを教える

 たまには本職系の話題でも語ってみる。

 私の学習指導に特徴的な部分があるとすれば、「文章と対峙する時の心の動きを教える」という点だと思っている。

 例えば問題集の問題を解かせたりなどした時に、解答だけ配って答え合わせをさせて、なぜそのような解答になるのか補足説明をしたりする、そのような指導が嫌いなのだ。問題集に付属した解説は、たいていその問題を作った側からの観点しか書かれていない。どのような意図に基づいてその選択肢を正解とし、別の選択肢を不正解とするかについての根拠しか書かれていない。

 だから私はほとんどそのような解説を読まない。当然のことながら学習者にその問題集を解かせる際に自分で解いてみるわけだが、解く際の自分の心の動きを問題集に詳細に書き込んでいく。そしてその自分自身の「心の動き」を学習者に伝える。
 だから間違えてしまった時には、それも学習者に伝える。「納得がいかんぞ~」とか「猿も木から落ちるじゃ~」とかである。

 これは教師の恣意的な読みを生徒に押しつけることとは異なる。

 以前、何かの文章で(って多分修論だが)、「教師は学習者と教材との化学反応を促すための触媒になる」という主旨の内容を書いた。これは外山滋比古さんの『近代読者論』あたりに書かれていたことの受け売りなのだが、この「触媒」としての役割にはいろいろな形があると思っている。

 そもそも「学習者と教材との化学反応」とはどんな状態を指すのだろうか。

 それは教師がねらった結論に学習者を導くことでもなければ、生徒個々が好き勝手に教材を解釈することでもあるまい。教材の中のどんなにたわいもなく見える言葉の一つひとつでもその全てを受け止め、学習者の心の中でつながりあった状態こそが、「化学反応」であるに違いない。
 そこには「そうあるべき結論」があるのではなく、「そうあるべき受け止め方」のみがある。

 だから私は、日常の授業や、模試や入試の対策として演習をする際、まず自分と教材、つまり「教師と教材との化学反応」を意図的に引き起こし、自らの化学反応の様子を詳細に分析する。そして授業であればその反応が効果的に発現する学習活動を計画して実践する。問題演習では、自分と本文や問いが火花を散らす様子の一つひとつを解説する。その問題を解いた直後の学習者に、「その問題を解けたかも知れないもう一人の自分」を追体験させるのである。

 授業での活発な学習活動についてはいうまでもなく、問題集演習における「化学反応の追体験」も、おそらく学習者全員が黙々と机に向かって鉛筆を走らせるその静まりかえったイメージ以上に、人の心を燃え立たせるものだ。

 学習者に対して「俺は全問正解だったぞ、ふっふっふ」と語りたいただその一心で、どこかの書籍から切り出された謎の本文と対峙し、問題作成者によって二重三重に仕掛けられた罠をかいくぐる。これは「化学反応」であるばかりか、「冒険」と呼ぶにふさわしい。

 私は「冒険」を伝承する語りべでありたい。それもまた現代における原風景の一つだと信じているからだ。
 

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