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2013年9月 1日 (日)

転調とドップラー効果

 久しぶりにはったり度の高い戯言である。

 拙著『時間認識という錯覚』の第三章「意識の実体」は、前の記事に書いたように最も戯言度が高い。それだけにオリジナリティには絶対の自信があるわけだが…。

 第三章は以下のような内容だ。

 古代ギリシャの哲人ゼノンの「飛ぶ矢のパラドックス」と全く同じことが、我々の「思考」についても言える。我々は現在という幅のない瞬間の中で、様々な物事について思いをめぐらし、その思いを持続させることができる。それは、瞬間において止まっているはずの「矢」が飛ぶこと以上に不可解なはずだ。
 第二章「時間認識という錯覚」において、複数のニューロン群の発火進度の差がステレオグラム的に合成されて、0.2秒程度の擬似的な時間の幅を脳内で創り出していると述べた。しかし0.2秒という幅でさえ、思考を成立させるには不十分だ。
 思考と言語の関わりの深さについては、記号論や認知心理学の知見を待つまでもなく、誰しも日常的に感じていることであろう。しかし言葉でさえ、0.2秒の幅の中には音素一つ分程度しか入り込めない。
 それで第三章では、意識の実体を恒常的にループ反応する音素群であると結論づけている。誰かの発する言葉を聴く際、または何らかの思考を行う際、それらの音素群をつなぐ神経ネットワークが瞬時にアクティブになって、言葉、さらには思考を創り出すと。(まあこんなものを要約すること自体が間違っているのね…。さっぱりわからなかった方は是非拙著『時間認識という錯覚』を買って読んで下さい^^;)

 さて、上記の戯言について、特に「誰かの発する言葉を聴く際」の脳内の反応についてはまだ多くの疑問が残っていた。
 人の声色は十人十色だ。それぞれの声の響きにはそれぞれに固有の特徴がある。特に人それぞれの周波数の高い低いの違いは、脳内で特定の音素に相当するニューロン群がループ反応し続けているというアイディアの反証となってしまう。つまり音がずれてしまう。しかし我々はどんな声の高い人の言葉も低い人の言葉も、瞬時に一つの意味を持つ「言葉」として受け止めることができる。

 第三章において、言葉と音楽を関連づけながら、脳の機能をあれこれ仮説的に語った。音素の組み合わせで言葉が生まれるように、音楽も音の組み合わせで和音やメロディラインが生まれる。
 話者の言葉の高低への対応という点で連想するのは、音楽における「転調」であろう。例えばカラオケで好きな曲のキーが合わなかった時、キーの上げ下げによって自分の歌いやすい高さに調整するといった「ずる」を誰でもやったことがあるはずだ。キーを調整することで演奏は元の音とは全く違う高さになっている。それなのに我々は、そのキーに合ったメロディラインを瞬時に脳内に構成し、声帯を震わせることができる。

 外部からの聴覚刺激を、脳内のループ反応するニューロン群の「キー」に合うように、瞬時に調整するための何らかの機能が脳内にあるはずだ。キーを上げ下げしたカラオケのメロディラインに瞬時に対応するのと同じように。
 だが仮説のレベルでもその仕組みをどうしても想像できない。この記事のアイディアの着想自体はずいぶん前から得ていたのだが、その仕組みを思いつくことができなかったことが、ここまで書かずにいた理由の一つになっている。
 ニューロン群相互のネットワークの組み合わせが、高音域低音域全てに対応できるよう複数作られている?それではなんだかスマートさに欠ける。誤動作も起きそうだ。
 中国語の声調は音の高低の変化で言葉を作り出す。ニューロン群のループ反応によって待機状態になっているのは、音素ではなく音素間の「差異」なのかも知れない。その際のニューロン群相互の具体的なネットワークの有り様までは想像もつかないのだが…。

 拙著第三章において私は、樹上生活タイプの猿が聴覚による空間把握能力を発達させたことが、脳内における聴覚イメージと視覚イメージのつながりを生み出し、それが原初的な言葉発生のきっかけとなっていったのではないかと書いた。(ブログ記事からの転用だが
 もしこれが本当なら、メロディのキーの変化、話者の言葉の高低に我々が瞬時に対応できることの進化論的な意味も明らかになる。樹上を飛び回る猿自身の動きによって、周囲の風の音や木々のざわめきはドップラー効果を起こし、猿の耳には高くなったり低くなったりして聞こえているはずだ。そのような音の変化に対応し、周囲の空間に関する正確な情報をつかみ取ることは、彼らが樹上で生き残るために不可欠な能力だったに違いない。

 我々の日常的な言葉の特徴を分析すると、その基となった樹上生活タイプの猿の脳の仕組みがわかるような気もする。

※ まあ拙著『時間認識という錯覚』の第三章関連は基本的に戯言ですから…。

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