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2013年9月 8日 (日)

「ニュートンのバケツ」と「量子という球状の波」

 これまた戯言度の高い「日記」である。しかし、これまでも数え切れないほどの戯言を語ってきたのだから、今更躊躇する理由はないので書いてしまう。

 拙著『時間認識という錯覚』には様々な仮説が語られているが、後半部分に次のような主張がある。

「物理的客観的な「時間」は物体の「動き」によって計測されるものだが、関係説や相対論の観点からは「動き」はそれを観測する者の視点があって初めて存在可能になる。つまり本質的な意味では「時間」は存在しない。」

 実は上記の考え方は私が勝手に言っていることではなくて、数百年前から現在に至るまで未解決なまま続いている論争らしいのだ。(その辺の事情については、拙著でも参考にさせていただいた元京都大学教授、内井惣七さんの『空間の謎・時間の謎』に詳しいのでそちらをご覧になっていただきたい。)

 ニュートンの力学は絶対空間を前提としている。だから「動き」が存在するために「観察者」も「他の物体との関係」も必要としない。「動き」それ自体として存在している。そのようにニュートンは考えた。
 それに対して関係説を生み出したライプニッツは、物体の「動き」は他の物体との関係が全てであって、それ自体としてのものではない。「動き」は物体自体の属性ではないと説いた。

 ニュートンが関係説への反証として提示したのが、「回転」という概念である。物体の「動き」がそれ自体のものではなく、他の物体との相対的な関係によってそのように観測されるだけの見かけのものであるというのであれば、「回転」は一体何に対する関係なのか?
 「回転」も無理をすれば、観測者の認識の結果と捉えられなくはない。例えば、月は常に地球の方に一つの面を向けているというのは子供でも知っている話だ。つまり地球上の我々という観測者にとって月は回転していない。だからといって、月が絶対空間に浮かんだ絶対的静止状態にある物体であるなどと誰も考えないだろう。月は地球の周りを回り、地球は太陽の周りを回り、その結果として月は静止どころが宇宙空間をすさまじいスピードで「動き」、そして「回転」しているはずだ。つまり「静止」も「回転」もヒトの認識の結果でしかないと。

 だが、ニュートンはここでバケツの例を出す。「回転」が他の物体との関係の結果として存在するのではない証拠をお見せしようというわけだ。バケツに水を入れて、回転させる。そうすると水はバケツの縁にはりつくように表面が盛り上がっていく。つまり、遠心力が生まれている。もし「回転」がそれ自体の特性ではなく、観測者の観測結果として、他の物体との関係として存在しているというのであれば、「遠心力」をどう説明するか?「遠心力」は物体それ自体の属性ではないのか?つまり物体それ自体としての「動き」は存在しており、それはすなわち絶対空間が存在していることを証明している、そのようにニュートンは主張する。

 空間には物体相互の関係しか存在しないのか、それともどこかに絶対的な基準が存在するのか?

 遠心力は確かに存在する。ニュートンは遠心力が生まれている状況を説明するためにさらに以下のような思考実験を行った。以下の図は『空間の謎・時間の謎』P87からの引用である。

Kaiten

 ニュートンは、回転する物体を、二つの物体がひもでつながれている状態と同等であると考えた。先に月の例で述べたように、単に観測するだけではその物体が実際に回転しているのかいないのかを判定することはできない。しかし、二つの物体をつなぐひもの張力を測れば、そこに遠心力が生まれているかどうかが分かる。つまり絶対的な回転を測ることができ、それはまた絶対空間の実在を指し示していると。

 絶対空間の存在は、現代においては否定されている。マイケルソンの光速度一定の実験によって宇宙のどのような場所、どのような慣性系上でも同じ物理法則が成り立つことが実証されており、アインシュタインから始まる現代の理論物理学がそのことを前提としている点については語るまでもないだろう。(「絶対空間」的な考え方はそれでも時折ちらちらと顔をのぞかせるように思うのだが…。ちょっと前にメディアをにぎわした「ヒッグス粒子」の時にもそれを感じた。)
 しかし、ニュートンのバケツは本質的な意味では現代においても未解決らしい。

 上図のニュートン自身が絶対空間の存在を証明するものとして提示した「ひもでつながれた二つの球」は、逆に「回転」が見かけのものであるということの証明になっていると感じる。つまり本来は複数の慣性系であるはずの物体が、すれ違いざまに重力などの「ひも」によって結びつけられ、本来直進すべきところを軌道修正させられ続けている過程が「回転」として観測されるのであると。(アインシュタインの重力理論的には、二つの物体はそれぞれ相手の物体が創り出した空間のゆがみに沿って「直進」し続けると表現しても良いのだろうが…)
 だから、思考実験の「二つの球」をつなぐ「ひも」をはさみで切ると、球はそれぞれ元の慣性系に分裂して等速直線運動を再開するはずだ。つまり、遠心力(物体内部の張力)を生み出しているのは、異なる慣性系相互の関係であると言い切って良さそうである。

 しかし、この時もう一つだけ問題が残る。(ここからがこの記事の真の戯言の開始なのだが…)

 思考実験の「二つの球」は「二つ」なんだから複数の物体で構成されている。だからそれを複数の慣性系に分割することもできる。それでは回転する物体が「真に単独の物体」であれば、その物体の回転は真の回転と言えるのだろうか。そうすると「真に単独の物体」の回転を計測することができれば、それは否定されたはずの絶対空間の存在証明になるはずだ。

 だから次のように考える。

 真に単独の物体とは、量子一つ分ということであろう。もし本ブログで語ってきたように量子が「球状の波」であり、その形状が前後左右に全くぶれのない「真球」であるならば、その上下や方向、回転等を問うことに全く意味はないはずだ。あるとすればその一点に量子が実在しているという事実だけである。二つ以上の量子が対象になった時に初めて、方向が生まれ、「回転」が生まれる。

 もちろん、ここまで語ってきたことは、関係説(つまり世界に「動き」は存在せず、ただ物体相互の関係のみがあるという考え方)や、「量子は球状の波」という本ブログの戯言の証明となるようなレベルのものではない。
 しかし、以上のように考えると、妙に様々な問題がすっきり理解できるように感じるのは確かだ。

追記

 実は「マッハのバケツ」についても書く予定でしたが、「物体と全宇宙との相対的な回転でも遠心力が生まれる」という考え方は私には間違っているとしか思えないので、単に否定するだけの文章を書きたくないので、途中で書くのをやめました。(結局書いてますが。実は膨大な文字数をカットしてしまいました^^;)

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