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2014年1月29日 (水)

『舞姫』

 3年間の最後の授業の教材として、現代文は『舞姫』を選んだ。(古典は古今集の「仮名序」。余裕のあるクラスは風姿花伝の「秘すれば花」も)。

 どのクラスもグループ活動を使って、内容理解と発展学習として「主人公は有罪か無罪か」を話し合わせた。

 「舞姫事件」は実際にあった話である。この事件についての研究書はおそらく数え切れないほどあるだろうけど、『秋の舞姫』という漫画(関川 夏央, 谷口 ジロー)がお勧めである。勤務校の図書館にも置いてあったので、生徒に紹介してあげた。

 ところで「舞姫事件」と小説『舞姫』はかなり内容的に異なっている。

 「舞姫事件」では、森鷗外がドイツ留学中にエリスという女性と恋に落ち、結婚を約束した。エリスは日本にやってくるが、森家の反対にあってドイツに帰されてしまう。『秋の舞姫』という漫画はその時点までを描いているが、実際の鷗外はその後、華族の娘と政略結婚に近い結婚を強いられ、しばらく経って家出するという創作物以上の激しい人生を送っている。
 小説『舞姫』は、妊娠したエリスがドイツの地で主人公の帰国を聞いて発狂するというすさまじい結末である。しかし、いかにも物語として演出オーバーであり、『秋の舞姫』で描かれているような現実に近い鷗外やエリスの方が、むしろ小説的だなあと感じていた。

 私自身は若い頃に『舞姫』を一度教材として授業したことがあった。それから20年近く遠ざかっており、前に一度扱ったのだから大丈夫だろうとそのままぶっつけ本番的に授業に突入した。センター試験対策が終わった直後の、国語の授業数が残り少なくなってしまった結果としての、やや場当たり的な学習計画だったと認めざるを得ない。

 「主人公は有罪か無罪か」というグループディスカッションのテーマは、どちらかに決めつけることが目的ではなく、ディベート的な疑似法廷として実施した。しかし、どう考えても主人公は有罪としか思えない。現実の鷗外にはまだ「無罪」の余地があったはずなのに、なぜ小説の中の主人公「太田豊太郎」はどこにも情状酌量の余地のない罪ある人として描かれているのか。

 生徒達の話し合いを聞きながらようやく私は、授業する前から理解していなければならなかった鷗外の真意らしきものに気づいた。

 鷗外は主人公をわざと、現実の自分よりも、権威に対して従順な存在として描いた。それはエリスをドイツに帰国させることを認めた自分自身の弱さに対する自己処罰だったのかも知れないが。
 他者に対して徹底的に誠実で、自分よりも、他人のこと、家のこと、国家のことを優先する人物として、「太田豊太郎」を描いた。つまり儒教的理想像をその内面深くに切り込んで、その逆説的な醜さを描いた。「みなさん、あなたたちのおっしゃる通りに実際の私が行動していたなら、これほどまでに醜い人間になってしまうのですよ」と叫びながら。

 漱石は、イギリス留学中に神経衰弱に陥り、西洋の考え方がその時点での日本人の心で消化できるものではないという考えに至った。
 鷗外は、西洋文化も日本文化も全て消化し尽くした上で、自分では消化できていたにも関わらず、その考え方は日本の人々には早すぎると、自ら日本文化に戻っていった。日本は未だ普請中であると。そしてそれは今後100年間変わらないであろうと。

 鷗外の言うように、日本は未だ普請中である。家が建つ見込みがなくてもかまわないとは思う。無理に建てた結果としての安普請よりは普請中の方がまだましだ。問題は我々一人ひとりが、鷗外が提示した問題を意識できているかどうかということだろう。せめて自分がおかれている状況だけは理解しておきたい。進むべき方向を誤らないためにも。

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