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2014年4月 6日 (日)

推理小説 『数学という虚構』

 タイミングが外れたエイプリルフールだと思って読んで欲しい。今から書く内容そのものに虚構と現実とが入り混じっている。あえてどこまでが現実でどこからが虚構かを記すまい。これを読んで下さる方々の判断に委ねたいと思う。

 数学は虚構である。

 おそらくこれについての論議が本質的な意味で最も盛んだったのは、今から100年ほど前のことである。

 フッサールという哲学者がいた。現象学の創始者である。現象学について大雑把に説明するなら、認識の結果としてでしか存在しない「現実」を、他者と連携してその認識をつなぎ合わせることで、我々一人ひとりがそれぞれの認識に対する安定と確信とを維持しながら生活している、といったことを論じた学問である。
 哲学領域の研究者であるフッサールは、最初は数学の研究者としてスタートした。そして、研究者となるべく受けた大学の面接試験の面接官の一人に、カントールがいた。

 カントールは無限集合論の研究者として有名な人物である。拙著『時間認識という錯覚』でも軽く触れているが、「異なる長さの線分中の点の数は等しい」等を始めとして、証明不可能であることが後に証明されることになる連続体仮説等、我々の日常的な認識を否定するかのような数多くの論考を世に残した。まるで数学自体がそもそも持っている瑕疵を暴き立てようとしていたかのようである。

 その二人が実は影響関係にあっただけでなく、同じ大学の師弟関係に近い間柄であったことはこれを書いている私自身最近まで知らなかった。自分の書いた本に章を隔ててどちらも登場させているにも関わらず、である。数学の独立研究者である森田真生さんのつぶやきで、『数学の現象学』(法政大学出版局)という本の存在を知り、フッサールが数学とどのように関わっていたかを論ずる数少ない資料であるということで興味を持ってアマゾン購入して読んでみたのだ。

 このブログ記事はここから戯言度が増してくる。推理小説みたいなものなのでそう思って読んで欲しい。

 カントールもフッサールも不遇の人生を送っている。カントールは名家の出身で天才的な才能の持ち主であったにも関わらず、平凡な研究者として一生を過ごし最後には心を病んでしまう。フッサールは祖国ドイツで晩年を過ごす際、国際的な名声を得ていたにも関わらず、ユダヤ人であったためにナチスドイツの影響で様々な制約の下に残された日々を過ごすことになる。その時期に発表できない手稿を多く残している。

 拙著『時間認識という錯覚』の第四章で説明したことだが、私にとってカントールの論は、「無限」という存在を扱ったものでありながら、その実「無限」の非実在性を暴き立てようとしていたとしか思えない。「『無限』という存在を認めてしまったら、ほれこんな矛盾が生じてしまうんですよ」と心の中でつぶやいていたとしか思えない。
 「無限」という概念は単にそれのみの問題にとどまらず、無限小をその周囲にまとう「点」という存在の実在性にも関わる。つまり、「無限」という概念の可否は数学全体の実在性にさえつながっていく。「数」という概念は「幅」を持たない「点」という存在がその概念基盤に含まれるからだ。

 ここから本ブログ記事はさらに戯言度が増してくる。

 未解決問題である「二重振り子」や「三体(多体)問題」によって、数学という存在の虚構性は既に暴き立てられつつあった。フッサールとカントールはその問題を明確に意識し、むしろ数学が虚構であること、数学もまた人の認識の結果としてでしか存在しないものであるということを事実として確定させるために、それぞれの立場で論考を進めた。
 しかし、新しい認識は古い認識を -論者が意図するしないに関わらず- 駆逐してしまう。無限級数をその基盤に置くオイラーの公式とそこから派生する様々な公式は、確実に消えて無くなる。それらの公式を論の内部に持つ様々な学問領域が、過去の論として歴史にのみその名を刻まれる存在となるはずだった。

 ここで、数学の実在性を保ったまま、観測による事実と数学による予測を一致させる「ある考え方」が登場する。その考え方は、「時間」や「空間」をある時は引き延ばし、ある時は押し縮める。それによって本来は「数」という概念自体が持っていた物理的現実とのずれを無理矢理矯正してしまった。
 この考え方は、物理学者よりもむしろ当時の数学者達に歓迎されたはずだ。無限級数とそこから生まれる数式の数々、ゼータ関数とそれを基にしたリーマン予想、そして何より「数」という概念の実在性を保つことができるのだから。

 その考え方を世に送り出した人物は、ユダヤ人であったことからナチスの台頭するドイツからアメリカ合衆国に迎えられ、その後理論物理学の権威として100年に渡って名を残し、世界に影響を与え続けることになる。本人がそれを望んでいたかどうかはわからないが。

 繰り返しますが、これは推理小説です。


追記

 数学が人の認識の結果としてでしか存在しない、ということになれば、自然に我々の目の前の現実とは何か、そして今我々の目の前を流れている「時間」とは何か、という問題に突き当たる。フッサールがその晩年に研究対象とした『内的時間意識の現象学』は、数学基礎研究の最終到達点として設定されたテーマであったに違いない。結局未完に終わったが…。

 
 

 

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