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2014年11月 2日 (日)

推理小説(その2)『スケープゴートとしての光速度不変の法則(原理)』

 今回の日記は、ブログ記事「推理小説『数学という虚構』」の続編です。
 前回同様、虚実入り混じった「フィクション」なので、そう思ってご覧になってください。

 ニュートンとライプニッツは、ほぼ同時期に微分を発明している。どちらが早いかをめぐって、長い間論争が続いたらしい。
 ニュートンとライプニッツの確執はそれだけではない。長く続いた二人の論争の最大の論点は、我々を取り巻く現実世界が絶対空間なのか相対空間なのかという問題だった。(そのあたりの事情は、内井惣七さんの『空間の謎・時間の謎 宇宙の始まりに迫る物理学と哲学』中公新書に詳しく書かれています。)

 もし現実世界が絶対空間であるなら、世界のどこかに絶対座標が存在することになる。その座標を基準とすれば、全ての物体がどのように「動い」ているかを計ることができる。なにより「動き」そのものが実在可能になる。ニュートンはこの考え方を支持した。
 逆にもし現実世界が相対空間であるなら、世界のどこにも絶対座標が存在しないことになる。基準となる座標がないため、全ての物体の「動き」は物体相互の関係としてでしか捉えることができない。つまり「動き」は実在しないことになる。ライプニッツはこの考え方を支持した。

 二つの論の決定的な違いは、デカルト座標をそのまま適用できるかどうかという点にある。絶対座標の存在を認めるニュートンは、デカルト座標をそのまま現実の物体の動きに適用可能だという立場である。世界には関係しか存在しないという立場(関係説)のライプニッツは、座標ゼロについてのとらえ方がニュートンとは決定的に異なる。

 ニュートンはイギリス、ライプニッツはドイツ、二人の論争はそれぞれの国家の威信といった背景も加わって、時代を超えて二十世紀初頭まで数学界に影響を与え続けていたらしい。しかし観測技術等の発達によって、デカルト座標による計算と現実世界の様々な「動き」が一致しないことが明らかになってきた。三体(多体)問題を始めとする物理分野の様々な領域における数学的解釈と現実とのずれが、デカルト座標のみならず、「数」という存在自体が虚構である可能性を示し始めた。

 ここで、「数」の実在性を保ち、デカルト座標の有用性を保ったまま、現実世界の「動き」をずれなく記述するある考え方が登場する。その考え方は絶対座標の代わりに、光速度を絶対的な基準とすることで、「相対的」に空間と時間とをねじ曲げ、「数」及びデカルト座標の定義を変更することなく継続使用することを可能にした。
 興味深いことに、その考え方を世に出した人物はもともとはドイツ語圏を拠点とし、後に英語圏に半ば英雄的に迎えられている。

 ところが、その考え方には決定的な瑕疵があった。

 相対空間を前提とする論が何を基準にして光速度を不変としているのか、それは観測者が属す慣性系をそれぞれ基準としたものではないのか、つまり相対空間を語りながら、それぞれの観測者を座標ゼロととった、言わば無限に座標ゼロを設定した変則的絶対空間なのではないか、といった言い古されたようなケチについてはここでは語るまい。

 光速度不変の法則の最も重大な瑕疵は、真に単独の存在、つまり素粒子における矛盾である。光子一つ取ってみても、光速で移動する光子という存在自体に幅があるなら、光子自体の「動き」によって光速を超える部位が発生してしまう。つまり、もし光子が伸縮する「球状の波」だったとすると、進行方向に向かって伸びる側が光速を超えてしまう。もし光子が「スピン」しているとすると、進行方向に向かって回転する側が光速を超えてしまう。
 光速度不変の法則に従って、光速を超える部位の時間の流れが遅くなるとする。すると純粋に単独の存在であるはずの素粒子内で、その部位毎に時間の流れが異なるという事態が発生してしまう。そのような存在が「真に単独の存在」と言えるだろうか?

 それで、素粒子は幅を持たない「点」であるという考え方が定着した。そして素粒子はスピンしているという考え方が生き残った。幅のない存在がスピンというのもおかしな話だが、少なくとも「点が伸縮している」という記述よりはイメージしやすいからだ。そしてそれを前提に様々な学問領域が生まれ、発展していった。
 しかし、実在する存在が「点」であるという考え方は明らかに便宜上の数学的解釈に過ぎず、通常の我々の認識の範囲内ではイメージ不可能である。むしろそのこと自体が、そもそもは光速度不変の法則に対する、さらにはその奥に隠れている「数」の実在性に対するアンチテーゼとして提示されたものであったに違いない。
 ところがそもそもアンチテーゼであった「点としての存在」が、そのまま様々な学術領域として発展していくことになる。そしてその本来の目的を知る者が少しずつ時の流れの中で歴史の表舞台から退いていく。(ファインマンはそのあたりの事情を認識していたはずだ。)

 素粒子内部に矛盾を生まずに、その問題を「回避」する方法がいくつか考えられた。

 一つは、素粒子はそもそもは確率的な「存在可能性」としての存在であり、人がそれを観測した瞬間にそこに粒子としての姿を現すのだという量子力学の考え方。これなら、光速度を超える瞬間を無視できる。だが、なぜ人が観測した瞬間に粒子化するのだろう?
 もう一つは、存在自体を振動する「幅のないひも」と捉える超弦理論の考え方。しかし、この考え方では三次元、つまり実在する物体に「幅」を持たせた瞬間に、光速度を超えてしまう。そのため、この論は宿命的に三次元以外の高次元をさまよい続ける。「数」自体が持っている「瑕疵」を数式内で逆利用しながら。

「数」の非実在性の問題は、時限発火的に世に現れるはずだった。ところがニュートンとライプニッツの論争に、さらに国家の威信問題まで加わって、こじれにこじれて現在にまで至っている。

 「光速度不変の法則」はスケープゴートに過ぎない。その奥にある「数の非実在性」を覆う城壁のようなものだ。もしその城壁を破ることができれば、素粒子に幅を持たせることができる。そして(手前味噌だが)、量子を「球状の波」として捉えることができる。

 そもそも量子力学には波動関数というものがあり、存在確率を「波」で表すことができる。つまり、最初から「球状の波」を可能性としてその構造の中に含む。
 一方の超弦理論は、「振動する幅のないひも」を三次元に持ち込めば、「三次元球面」に近い構造になるはずだ。つまり全方位に向かって伸縮を繰り返す「球状の波」である。(閉じた構造か閉じてないかは解釈が分かれるだろうが)。

 拙ブログで語ってきたように、「球状の波」の考え方で、「質量」や「重力」まで説明可能になる。少なくとも「重力質量」と「慣性質量」の発生要因が理屈の上で矛盾してしまうようなことは起きない。

 最初に書きました通り、これは「フィクション」です。

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