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2016年3月 1日 (火)

相関関係と因果関係

 相関関係と因果関係は、よく「疑似科学とは何なのか」といった文脈で使われる用語だ。

 私が理解している範囲で説明すれば、因果関係というのは明確に原因と結果といったつながりがある関係であり、相関関係は一見関係があるように見えて実際には単に偶然同時に起こったに過ぎないようなことを指す。まあ大雑把に言えばだが…。

 つまり、科学は因果関係で説明されるべきであって、相関関係で語られがちなのが疑似科学だというわけだ。

 ちなみに私の「戯言」は、因果関係でも相関関係でもなく「戯言」でしかない。まあ少しは自己弁護的にやわらかく語ってやるなら、仮説にすぎない。そういう意味では、そういう論議の外にあるものと自覚している。様々な事象を都合よく説明できるとは思うが。

 さて、疑似科学は世の中にあふれている。その多くが商業目的によってなされる過大広告の一種であり、そういう一種の詐欺行為を批判するために、表題のような相関関係と因果関係といった観点が語られるのであろう。そういう意味では私の戯言はなんの得にもならない、むしろ出版費用丸損の逆商業目的(?)とさえ言えるのでその点については安心している。えっへん(おい)。いや威張れることでも何でもないが。

 しかし、最近『論文捏造はなぜ起きたのか?』(光文社新書)等といった本を読んでいて、歴史上の偉人達がいかに適当にデータを「捏造」して成り上がってきたかという内容に触れているうちに、ふと、当然のことながら現代社会においてもそういうことが多々あるのではないかと思い始めた。

 それで気がついた。疑似科学批判の本当の目的は、直接には批判できない他領域の研究内容について遠回しに、その相関関係的な研究内容を批判するところにあるのではないかと。

 実は、相関関係でしかないものを、いかにも因果関係であるかのように語っていると感じたことが、私にも何度かある。もちろん私自身ではなくて、ニュースのトップ記事になるような人物の台詞にである。

 しかし、さらに思う。

 私も、私の人生において、多くの人に関わり、その人々に対して責任を負っている。私でなくても他の誰かでもそれを肩代わりすることができるとわかっていても、関わっているからには全力でやれるだけことはやってあげたいと思う。

 それはどんな立場の人間でも同じだろう。

 自分の言葉が多くの人の運命を左右するとする。それが分かっていればいるほど、相関関係でしかないことをまるで因果関係であるかのように語ってしまいたくなるものだろう。

 だが、それは「科学」という分野で許されることだろうか?

 それが誰のためであっても、それがもし確信犯的な「捏造」であるなら、それは詐欺と同じである。

 科学は誰のためにでもない、あえて言えば「真理」のために、さらに言えば人類全体のために存在するべきだと思うのは間違っているだろうか。

 と、当たり前のことを、となりの空調の室外機の音で眠れない夜に語ってみる。(ノイズキャンセラーを職場に忘れてきた…(T.T)

 

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