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2016年6月19日 (日)

論理的思考能力

 ちょいと前にツイッターでつぶやいたもののコピーだが、最近ブログをさぼり気味だし、記録に残すという意味でもこちらに写しておこうと思う。前に似たようなことを書いたような気もするが…


「論理的思考能力は、いちいち強調するまでもなく大事なものに決まっている。それは「1+1=2 が大事なんです」と言っているに等しい。しかし「論理的思考能力だけが大事で、それ以外は必要ない」ということになると話が違ってくる。これは明らかに絶対空間から離れられない思考に近似する。

数学はそれ自体の外にはそれを証明する根拠を持たない。つまり厳密に言えば「1+1=2」自体を証明することはできない。つまり数学は、ある仮定的な取り決めの中でなにが言えるかについての膨大な量の論考であって、それ自体が真実というわけではない。

その破れ目が、三体(多体)問題などによって現れるが、ヒトは大抵見て見ぬ振りをする。「論理」の枠の中に閉じこもってしまえば、悩む必要がないからだ。

絶対空間も同じものだろう。本当の意味での相対空間について考え始めるとヒトは必ず混乱し始める。それは、視点を生み出す主体、つまり自分自身を消し去ることに他ならないからだ。

論理的思考能力ばかりが強調されるのも、同じ構造だろう。つまりヒトは自分が世界認識の主体であることから離れられず、それが他者にとっても同じであると信じ込み、それを他者と共有できないことに苛立ち、それを相手に一方的に押し付けようとする。自分の立っている場所が「絶対」であると思い込む。

「論理」は当然大事だ。しかし、その背景にある枠組みを含めて相互主観的にすり合わせ、変革していく視点を持たない「論理」は、単に意思伝達のためのツールにしかならない。それは予定調和的な発想しか生み出さない。最初からそれで構わないというのならわたしゃもう語る言葉を持たないが。

というようなことをこれまで世に送り出した本に書いたわけで。まあ間接的なところもあるけど。全文ただで読めますので、興味のある方は「熊男の住処」でどうぞ。」

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