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2017年7月の2件の記事

2017年7月29日 (土)

VR(バーチャルリアリティ)

VRというのは「バーチャルリアリティ」のことである。

 二年ほど前に頻繁にテレビで特集番組が組まれ、面白そうな物には何でも手を出す主義の私にとっても実際に体験するのが待ちきれないぐらいであった。

 VRというと映画の3Dを連想するだろうが、技術的に共通点はあっても、ほとんど別物と考えていい。

 映画の3Dは特殊な眼鏡をかけることによって、右目と左目をかわるがわる液晶シャッターで閉じてしまい、それに同期してスクリーンに映し出される右目専用の映像と左目専用の映像をそれぞれの目だけに見せることによって、立体視を作り出す。
 それに対して、VRはHMD(ヘッドマウントディスプレー)をかぶり、スクリーンを使わずに直接両目に立体映像用の情報を送り込む仕掛けになっている。単純に考えて、液晶シャッターを使わない以上、VRは通常の3Dの倍の光量を持っていることになるがもちろん違いはそれだけではない。
 VR(PSVR)は、目の前にカメラを設置する。そのカメラで頭にかぶったHMDの位置をモニターし、こちらの頭の傾き加減に応じて、適切な情報をHMD内に映し出すようになっている。調べたわけではないのだが、どうも視線の中心部が一瞬のうちに立体視に最適化されるようにプログラムが組まれているようだ。

 これは私が夢に見たシステムそのものだ。

 私は以前このブログで「3D映画」という記事を書いている。この記事自体は、映画館で見るタイプの3Dをイメージして書かれたものだが、読んでいただければ分かるが、我々が映画を観る際に視野の中心部と周辺部とで異なる立体処理を脳内で行っている以上、現行の3D映画のシステムでは、それに対応できないといった主旨のことが書かれている。
 その時から「もし視線を移動させたときに、その視線に応じて両目それぞれの視覚情報を変化させるシステムが出来たら、それは本当に現実並の立体視を得られることになるだろうが、そんなシステムなど実現不可能だろうな」と思っていた。

 その実現不可能なものが実現されてしまったのだ。

 今年の春先、少し仕事が落ち着き始めたころに、私はPSVRとPSPROを買ってきた。いくつかソフトを試してみたが、最初の一つからびっくり仰天させられた。

 最初に試してみたのはとあるホラー系のゲームだったが、いきなりチュートリアルから別の部屋にいるのである。これは立体視がどうだとかリアルさがどうだとかいうレベルではなく、本当に「別の部屋」にいるのである。

 さらにゲーム内キャラクターに遭遇したとき。

 虚構なはずの、ゲーム内キャラクターが、恐ろしいほど生々しいのだ。最近の映画で頻繁に使われている技術にモーションキャプチャーというものがある。人間の動きを動きだけコンピューターに取り込んでおいて、ゲーム内キャラクターをその「動き」通りに動かすのだ。それにくわえて、実際の人間を3Dスキャンしてそのデータを加工してゲーム内キャラを作っている。

 つまり、ゲーム内キャラと、ゲームをやっている人自身の動きという、二重のモーションキャプチャーが使われているのだ。

シンプルに表現するなら、目の前に本当にそのキャラがいるとしか思えないのだ。

 すさまじい技術である。一体だれがこんなすさまじいことを思いついたのだろうか。

 ちなみに一番最初に手をつけた某ホラーゲームは、最初の敵キャラとの対決で、恐すぎて挫折して、何度もトライする勇気もなくなってしまった。あれはもう心に傷が入ってしまうレベルだ。そういうのが好きな人にはたまらないだろうが、私にはもうそのゲームを再開する根性はない。

 正直言えば、VRをぼんやり眺めるタイプのゲームで十分である。というわけで、毎日家に帰ると、VRをぼんやり眺める日々を送っている。

 まだ画像自体は、完全ではない。おそらくはスペックの限界なのだろうが画像が荒く見える一瞬もある。しかし、現時点でもバーチャル世界に没入するのに十分なクォリティを得ていると思う。最初の機種からこのレベルなのだから、これからどこまで「現実」に迫っていけるか、本当に本当に楽しみである。長生きせねば。

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2017年7月27日 (木)

「対称性の自発的な破れ」はなぜ「破れ」るか?

 『時間認識という錯覚』の増補版を出すことに決めて、早速あれこれ動き始めた。もちろんその目的は「第六章」とそこで語られる様々な「戯言アイディア」を世に送り出すことにある。だから同じ本でも中身は別物と考えていい。まあ前の本の前半は流用するつもりだが。
 副題は前の「2500年の謎を解く」から「時間の矢の起源を求めて」に変えるつもりだ。

 さて今回のブログは、そこで書く内容の覚え書きのようなものだ。

 「対称性の自発的な破れ」は、増補版の目玉となる概念だが、もちろんこれは私が勝手に言っていることではなくて、2008年度のノーベル物理学賞を獲得した南部陽一郎さんの考えたことだ。
 何年か前にNスペで『神の数式』という番組が放映された。理論物理学の発展の歴史を実に分かりやすく説明した良い番組で、特に「対称性」ということについて素人にも分かりやすいように語ってくれているのが印象的であった。(私自身はレーダーマンの『対称性』という本をずいぶん前に読んでおり、ある程度理解しているつもりだったのだが。)

 その番組で、南部陽一郎さんが唱えた「対称性の自発的な破れ」についても、分かりやすく説明してくれていた。その番組では、対称性が破れる様子を「芯を尖らせた鉛筆を逆さまに立てて並べておくと、ある瞬間からそれらは一斉に倒れ始める」といった映像で紹介していた。

 素人の私は、単純に次のような疑問を感じていた。

「『対称性』というのは、完璧にバランスの取れた状態のはずだ。鉛筆を逆さまに立てておけばそりゃ簡単に倒れるだろうが、『対称性』本来の状態というのは、簡単に破れるようなものではないような気がするのだが…」

 さらに考えた。対称性が破れているものの中で、最も代表的なものは「時間の矢」だろう。前述のレーダーマンの『対称性』においても、時間だけがなぜ対称性を持っていないのかが話題の一つになっていた。時間が流れるのは当然であっていちいち悩むほどのことはないはずだと思うだろうが、流れるためには始点が必要になってくるのでそう簡単ではないのだ。つまり、時間はいったいいつ始まったのか?未解決問題が立ちはだかるわけだ。

 「時間の始まり」は、「世界の全ての事物の対称性が保たれた状態」といえるかも知れない。これにいては既に以前書いたブログ記事や、それを元にした「第六章」で説明済みである。

 しかし、さらにこう思う。

 私のアイディアである「宇宙には最初に光(ボソン)しかなかった」は、もちろん数多存在する「宇宙の始まり」のアイディアの一つに過ぎない。そもそも光が既にあることを前提としているので、純粋な意味での「始まり」としては最初から弱点を抱えている。

 しかし、「対称性」が「完全なバランス状態」である限り、実際には逆さまに立てた鉛筆のようには簡単に倒れたりしないはずだ。もしそのバランスが崩れるとしたら、それ自体のもつ「完全さ」が原因であるか、別の「完全さ」、すなわち別の「対称性」が必要になるはずだ。

 「円」、もしくは「循環」は、その「もう一つの対称性」である。

 未来も過去もなく、他のボソンとのつながりもない世界に、三つのボソンが「円」を形作り、その間で「循環」を始めたとき、「対称性が自発的に破れる」。

 この「対称性という完全性が破れるためには、別の対称性という完全性が必要になる」というのは、数学的証明に匹敵する論理だと思うのだが…


追記

 「対称性」というのは本来破れるようなものではない。「対称性が自発的に破れる」というのは、言ってみれば宇宙空間に浮かんだテニスボールが、何の力も加えていないのに突然一定の方向に加速し始めるようなものだ。だから、「対称性」を持つ存在は原則として永遠にその性格を保ち続ける。
 そのような「対称性」がもし「破れる」としたら、それは本来の「対称性」を保ったまま、別の対称性に組み込まれる時しかあり得ない。つまり「対称性」は「循環」という別の「対称性」が追加されることによって、疑似的に破れるのだ。

 

 

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