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2017年11月26日 (日)

ブレードランナー2049 (超絶ネタバレ注意)

 このブログ記事は、「ブレードランナー2049」及びオリジナルの「ブレードランナー」についての感想なのだが、超絶ネタバレなので未見の人は読まずに退出することをお勧めする。

 まずリドリー・スコット監督ハリソン・フォード主演の、オリジナル「ブレードランナー」についてだが、映画マニアならこの作品について解説する必要はないだろう。カルトSFと呼ぶのがふさわしい作品だ。
 最初に上映されたのは、私が高校の時だった。当時は映画は二本立てとか三本立てとかが当たり前で、そういった「併映」の中に過去のヒット作のリバイバルが混ざり込んでいることも珍しくなかった。「ブレードランナー」もそういった作品の一つで、観たい映画と併映されることが多かったこともあり、複数回映画館で鑑賞した記憶がある。
 当時はビデオデッキもビデオソフトも高価で、もちろん実家にそんなものはなく、逆にその分その場一回限りの視聴ということで、映画館に入ると一つ一つの作品にのめり込んで見ることが出来ていたと思う。

 ブレードランナーには目当てのシーンがいくつかあった。ラストシーンや、ヴァンゲリスの「緑の記憶」「ブレードランナーのブルース」が流れるシーンなどがそれなのだが、その中でも特に息をつめるようにしてみていたのが、ヒロインのレイチェルが髪を下ろすシーンだった。レプリカント(人造人間)であるレイチェルが、自分のアイデンティティの全てが失われた直後に、むしろ一人の人間として目覚める。そのシーンでショーン・ヤングが演じるレイチェルの美しさは、「人間性」の美の側面の極致とも言うべきものだった。

Photo

 そして35年の年月を経て、続編「ブレードランナー2049」。

 この作品においては、ありとあらゆる物が否定されていく。レプリカントであり、超常の能力を持つ主人公 ”K” は、彼に許された数少ない「信じられるもの」のほとんど全てを否定される。
 それだけではない。おそらくは「続編」にオリジナルブレードランナーと同じ感動を求めてやって来た観客は、その「期待」もたたきつぶされる。
 ハリソン・フォード演じる前作の主人公デッカードとヒロインレイチェルの「愛」は、最初からレプリカントの発案者であるタイレルによって仕組まれていたものだったと示唆される。再登場したレイチェルは、一瞬のうちに轟音と共にこの世から消え去る。

 最後に、主人公 ”K” と我々観客に残されたものは何だったのか。

 現代人も ”K” とそれほど立場的に異なっているわけではない。ネットの発達によって、真実が見えやすくなった現代社会は、言い方を変えるなら幻想を抱きにくい時代といってもいい。
 だが、本作の登場人物の一人が語るように、偽りの記憶もまた時に人の心の支えになる。だから、「真実」しか見えないことは、逆に人の心の支えが全て失われることを意味するかもしれないのだ。

 だが ”K” はたった一つだけ信じられるものを見出す。それは「真実を知る」と言うことと、「真実を守る」ということだった。例えその「真実」が自らの存在を否定する内容であってもかまわない。他人の心の中にのみ存在するものであってもいい。それが「真実」であるということだけが、彼にとって「信じられるもの」であり、「守るべきもの」だった。

 おそらく現代文明は、人工知能の開発の過程や、物理学による「存在」の追究によって、自分が生きている世界やそれを認識する自分たち自身の本質を知るだろう。それはひょっとしたら全てが虚構であり幻影であるという結末かもしれない。
 しかし、それでもかまわないとは思う。そこから本当に信じられるものを、我々自身の手で作り上げていけばいいのだから。

 
 

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