カテゴリー「「時間意識」戯言」の206件の記事

2018年1月21日 (日)

シリコンドロップが作り出す「定在波」はクォークが球状の波であることの証拠になる

 あれやらこれやらで、最近刺激の多い人生を送っている。そういうときは創造性が高まるのを経験上知っていたので、くるぞくるぞと期待していた。期待通りで、電磁気学を始めとしてアイディアが頭の中から湧いてきつつある。

 「時間認識という錯覚(増補版)-時間の矢の起源を求めて-」は、ようやく初校が送られてきた。スケジュール的には一ヶ月遅れだが、なぜだが出版社の担当者さんが、4月刊行予定のとろこを3月中に出してしまいたいと申し出てきた。「3月は出版関係が活性化するから」とかいう話である。
 去年の8月に原稿を送って以来、首を長くして刊行を待っていたから、急展開でむしろうれしいぐらいである。それで、最近のアイディアを追加しようかと迷っていたが、発展の余地があるのも悪くないかと内容を追加するのは見送りにすることにした。

 ただし、題名にもなっている「シリコンドロップダンスが作り出す定在波はクォークが球状の波である証拠になる」は、「増補版」に組み込むべき内容だとは思う。

 シリコンドロップダンスというのはこれだ。

 「増補版」でも話題にしているのだが、シリコンのひとしずくを振動するシリコンの平面に落とすと、しずくは平面に接することなく、空中でダンスを始める。これを私は斥力の存在を示すものだと論じているが、そのしずくを中心に、接していないはずのシリコンの平面に、「凍りついた波」が浮かび上がるのだ。「増補版」を書いていた時には知らない知識であったが、これは「定在波」と呼ぶべきものであろう。(『量子論はなぜわかりにくいのか』吉田伸夫(技術評論社)を呼んでいて、その波の存在を知った。まだP25までしか読んでいないのだが…)

 「定在波」は、同じ波形の引き波と押し波が重なり合ったときに生まれる。

ウィキペディアの「定在波」のページ

 本ブログの「戯言パラダイム」、そして3月刊行予定の「増補版」で私は、クォークを「空間の球状の波」としている。そして陽子内部の三つのクォークが順番に伸縮する様子が「陽子の(擬似的)スピン」の正体であると論じている。つまり陽子内部では、伸張状態にある「波」と、収縮状態にある「波」が同時に存在することになる。
 シリコンのような単純な分子構造の陽子群は、共振を起こしやすいはずだ。膨大な数の陽子がシリコン内部で共振しながら、シリコンドロップの周囲に空間それ自体の「引き波」と「押し波」を作り出す。そしてそれが「定在波」を生む。

 既に初校を校正して送り返した「増補版」で私は、「凍りついた波は、押された波が間髪入れずに引かれるので波の形を止め続ける」と表現したが、「定在波」を使えばあっという間に説明できる。完全に「凍りついた波」に見えるのは、引き波と押し波が断続的に繰り返されることによるのだろう。

 むしろ、シリコンドロップの周囲に定在波が生まれていることは、陽子を構成する三つのクォークの正体が、空間の球状の波であることの決定的な証拠と言えるのではないか?

補足

「定在波」は波が拡散せずにその場で上下するものだが、シリコンドロップの作り出す「波」は山と谷がそのままで「凍りついた」ように見える。本ブログの戯言パラダイムでは、陽子を構成する三つのクォークが短い周期でタイミングをずらしながら伸長と収縮を繰り返すというものだ。つまり引き波と押し波も短いスパンで断続的に繰り返されることになる。そういう二つの波の合成としての「定在波」は、山から谷、谷から山といった変化をする間も無く、引かれた最初の瞬間、押された最初の瞬間の合成としての山と谷の状態を保ち続けるような見かけになるはずだ。

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2018年1月10日 (水)

戯言パラダイムで「光電効果」を読み解く

 光電効果というのは「金属に光を当てると電子が飛び出す現象」である。

 この現象を光が粒子である証拠であるとして、「光量子仮説」を作り上げたアインシュタイン(もちろん相対性理論の人)は、それによってノーベル物理学賞を獲得している。(つまりアインシュタインのノーベル賞は、相対性理論に対して贈られたものではないのだ。)

 さて、このブログの記事であるからには当然「戯言パラダイム」に基づくものである。つまり(まだ)一般性は獲得していないのでそう思って読んでいただきたい。

 一つ前の記事で私は、空間の球状の伸縮としてのクォーク三つによって構成される陽子の、振動の余剰部分こそが電子の正体であると仮説を立てた。そして、鉄芯に巻いたコイルに電流を通し、コイルの中を電子(空間のリソースの余剰部分)が周転することで、それに同調した鉄芯内の陽子が同じ向きに揃うことによって、電流を通す前までは鉄芯内部で打ち消し合っていた磁気が方向性を持ち、鉄芯の外に放射されて電磁石となると仮説を述べた。

 上記の仮説の最も重要な要素は、コイル内部の電子(空間のリソース)の周転と、陽子一つ一つの三つのクォークにおける擬似スピン(空間のリソースの奪い合いによる回転)が、同調したという部分だ。

 さて、光電効果に話を戻そう。

 光電効果がなぜ光が波でなく粒子であることを示すことになるのか。その点について理論物理学者の大栗博司さんが一般向けに書いた本『重力とは何か』(幻冬舎新書)に次のようにある。

「波長が長い光を使うと、いくら光を強くしても電子は飛び出しません。逆に、どんなに弱い光でも、波長が短ければ、数は少ないものの、時々は電子が飛び出してきます。このときに、波長をそのままにして、光の強さを変えても、一つひとつの電子のエネルギーは全く同じままでした。飛び出してくる電子の数が増減するだけです。」(P162)

 ここではアインシュタインの「光量子仮説」についての詳説はしない。それについては『重力とは何か』の説明が分かりやすいので買って読んでいただきたい。本ブログの戯言パラダイムに基づいて話を進めていく。

 引用から分かるように、金属内の電子に働きかける力を持つのは光の力ではなく光の波長なのである。
 「波長」とは波の幅であって、波長が長いほど、一つの波の「横幅」が長くなると考えていい。

 さて、前回の記事で私は、球状の波としての三つのクォークのそれぞれの波形がぴったり隣のクォークと重なったときに、三つの波がつながって「擬似スピン」が起きるという意味合いの手書きの絵を描いた。そして、それらの「波」の周期と、その回りを周回するコイルのスピンの周期が共振したとき、磁気が生まれると説明した。

つまりすべては振動の共振なのだ。

 光電効果について考えてみよう。金属に向かって光が飛んでくる。光の波長が長すぎると、金属内部の陽子の振動(擬似スピン)と共振を起こさない。陽子のクォークの距離は空間のリソースを奪い合った結果として極限まで接近し、収縮限界近くで極端に短い周期で振動している。ピンボールの球が反射板に挟まってピロリロリロリンと跳ね続けているような感じだ。つまり波長は短い。その状態に同調させるためには光の波長も極端に短くなければならない。もしぶつける光の波長が長すぎれば、光は同調することなく長い足を伸ばして陽子をまたぐように通り過ぎていってしまうだろう。

 つまり光電効果とは、陽子内部の三つのクォークの振動とぶつける方の光子の振動が同調することで互いに干渉可能になり、陽子内部の空間のリソースが押し出されて金属内部で玉突きを起こし、その余剰部分が金属の外に電子となってはじき飛ばされる現象を意味するのである。 

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2018年1月 6日 (土)

電子の本質(まだ仮説の仮説だが…)

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 もちろんこのブログの記事であるからには「戯言パラダイム」に基づくものであって、一般性は(まだ)ない。それを納得した上で読んでいただきたい。

 手書きの殴り書きで申し訳ないが、やはり図があった方が説明が早い。(心に余裕があったらいつかアニメーション化しようと思う)

 さて、本ブログでは陽子を構成する三つのクォークを「空間自体の球状の波」とし、周囲の空間の収縮のためのリソースを極限まで使い切って、それを奪い合うように三つのクォークがタイミングをずらしながら伸縮する様子が「クォーク閉じ込めの原理」の実態であるとしてここまで話を続けてきた。(以上の内容を追加した書籍を今春出版予定。)

 さて、「電子」である。三つのクォークの「振動」は、「空間のリソース」を受け渡すためのタイミングを一致させるためのリズムと受け渡し量が全体として安定するなら、陽子としても安定するはずである。また、一つの状態が安定するなら、より振幅の大きい状態での受け渡しも安定するはずである。

 殴り書きの図の右側をご覧になっていただきたい。上の表と下の表とでは、振幅の大きさは異なるものの、どちらも陽子として安定する可能性を持っている。しかし下の振幅の大きいものは、エネルギー変動も大きく、その分エネルギーの安定という意味では無駄が大きいと考える。つまり上の表の振幅より不安定である。

 この下の表の状態こそが「電子」の実態である(まだ仮説段階だが…)。

 電流とは、この不安定で余剰エネルギーを持った状態の陽子が、次々に隣へ隣へと受け渡されることであり、電子銃のように先細りの先端に「電子(空間の振動の余剰部分)」が追い込まれたときに、空中に放出されて実質的な光子(空間の球状の波)になったものと考える。つまりそれが電灯の原理である。

 まだ思いつき程度ではあるが、この考え方で「電子」が本当に説明可能になるかをこれから検証していく予定だ。

追記

 「下の表」のような振動が成立するためには、その陽子自体の空間のリソースにある程度余裕がなければならないはずだ。だから電流とは陽子間の空間のリソースの連続した受け渡しと表現可能である。

追追記

 電子を「空間のリソースの余剰部分」と考えたとき、都合が良くなるものに磁力の発生ということがある。磁力は陽子レベルでは、三つのクォークを貫くように発生する。本ブログの「戯言パラダイム」では、三つのクォークは空間のリソースを奪い合いながら擬似スピンを行っているとしているので、その「回転」の中心に磁力が発生することになる。電子を「空間のリソースの余剰部分」と捉えれば、電線を巻いたコイルに電流を通すことはつまり「空間のリソース」をぐるぐる回転させるということになる。その中心に磁力が発生するのが電磁石の原理である。つまり、陽子レベルと、電子レベルで、磁力の発生過程に整合性が生まれる。

追追追記

 追追記に「電子レベルでも磁力が発生する」と書いたが、コイルそのものが生み出すわけではないのかもしれない。ネットで電磁石の強さについて検索してみると、コイルの巻数や芯になる金属で磁力の強さが変わるとある。ただし、それにも限界値がありそうである。コイルの巻数にまっすぐに比例するのであれば、磁力は電子の周回そのものから発生することになるのだろうが、限界値があるということは芯となる金属の方が磁力発生の主要因のようだ。だから次のように考える。
 金属芯に巻いたコイルに電流を通すと、電子、すなわち「空間のリソースの余剰部分」がコイルをつたってぐるぐる周回する。すると、金属内部の陽子の擬似スピン、すなわち「空間のリソースの波(擬似回転)」がその回転とシンクロし、その結果として金属内部の陽子が一斉に同じ方向を向く。陽子を構成する三つのクォークの中心を貫くように発生する磁力の向きが揃うことで、金属芯は磁石化する。
 コイルに電流を流すのを止めると、金属内部の陽子の向きはまたばらばらになってしまい、通常の金属に戻る。

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2017年12月31日 (日)

なぜ月は(地球との相対的な関係において)自転していないのか

 大晦日だというのに掃除もせずに、朝っぱらからツイッターでつぶやいた内容を編集、加筆してみた。

 来年春に出版予定の「増補版」には、「なぜ惑星、恒星、銀河その他、天体はどいつもこいつもくるくる回っているのか」についての答も書いている。(もちろん「戯言パラダイム」の範囲内でだが)。

 陽子の内部では三つのクォーク(空間の球状の波)それぞれが質量を持ち、空間のリソースを奪い合うことで内部で円を描くように質量変動を起こしている。歳差運動(首振り運動)と表現することもできる。
 その質量変動自体はほんのわずかなものであるが、天体規模の質量であれば陽子の数も膨大である。それらの膨大な数の陽子の内部の質量変動があわさって、全体として大きな質量のうねりを生み出す。二つの天体、例えば恒星と惑星が、長い時間をかけて相互作用によって、それぞれの内部の質量変動の影響を受け、互いが互いの周りを回り(公転し)、自転するようになる。
 
 ところがその理屈には例外があった。「月」である。

 月は常に片側を地球に向けている。なぜ月だけ例外なのか疑問だった。おそらく、月の内部の陽子の向きがバラバラで、全体として巨大な質量のうねりを起こすまでには至ってないのだと考えた。そうすると前のブログでも書いたように、陽子の向きが揃ったときにのみ物体の外に放射される理屈の「磁気」も存在しないはずだ。つまり月には地球のような地磁気も存在しないはずだと考えた。

 ネットで検索してみるとずばり月には地磁気が存在しない。予想通りである。

 地球は地磁気を持っている、つまり陽子の多くが向きをそろえている。だから内部に円を描く質量変動、歳差運動を持っているはずだ。その影響が月に及んで月を周回させる。しかし月自体は内部に質量変動を持たないから、地球に引っ張り回されるだけで自らは回転しない。

 「戯言パラダイム」で、説明可能になるものは他にもありそうだ。現在観測されているものもあるだろうが、まだ観測されていないものについて予言できると面白い。
 一番期待しているのは、「増補版」の核ともいうべき「陽子内部の三つのクォーク(空間の球状の波)による擬似スピン」てある。現在の粒子加速器などの観測機器の観測精度で観測可能だと思うので、どこかの観測施設で報告されないかなあといつも期待しながら科学関係の報道をチェックしている。

 観測装置(粒子加速器)一台、私に貸してくれないかなあ。


補足

 なぜ月が常に地球のほうに「表」を向けているかについて、「自転と公転が一致しているから」といった説明をよく見る。しかし、「自転」と「公転」がぴったり一致するなんて、ほぼ奇跡に近い確率なはずだ。だから月はまるで映画のスターウォーズに出てくる巨大な要塞デススターのような異様な雰囲気を持っている。「なぜいつもこっちを向いてるの?」である。
 地球は内部で円を描くように質量変動を起こし、それによって周囲の物体を振り回し、自らも回転する。月は質量変動を内部に持っていないため(正確には陽子の向きがそろっていないので内部で打ち消し合う)、地球のなすがままに振り回される。網に入れたスイカをぐるぐる振り回すように。
 月が生まれた際の経緯が(例えば地球から分離して単独の天体になったからだとか)、月が常に地球の方を向いている理由として語られているのを目にする。しかし、その理屈では「なぜその後、月は様々な外的影響を無視して、自分の向きを固定させ続けているのか」という問題に答えられない。
 月は、地球から一方的に振り回され続けている。むしろ月のこの確率的にはあり得ないような不可思議な状態が、陽子内部の質量変動の存在証明にさえなっている。

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2017年12月29日 (金)

電磁気学を量子力学的に解釈してみる

 電磁気について考え続けていた。

 来春4月頃に出版予定の「増補版」に、このブログの「量子シリーズ」の内容を新しい章として入れる予定だが、電磁気についてはまったく触れていない。本音を言えば、これまで組み込むことが出来ずにいたのである。

 電磁気学は避けては通れないのは分かっている。「増補版」の核となるのは「光とは何か」という問題である。既存パラダイムの多くを無視して、好き勝手な論を展開しているが、その強みは「論理的な整合性だけはある」ということだった。
 しかし、電磁気学はこれまで私の「戯言パラダイム」に組み込めずにいた。電磁気学においては光は電磁気の一種とされている。だから電磁気についても「空間の球状の波」のイメージに組み込めなければ完全とは言えなかった。それが思考実験のレベルでもこれまでうまくいっていなかった。

 電磁気は「直角に交わる電場と磁場とが、互いで互いを呼び起こしながら、媒質のない空間を直進する」といった説明が教科書の類ではなされている。以下のような図をよく見かけるはずだ(図はニュートン別冊「波のサイエンス」)

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 この「電場と磁場が直交する」というイメージがどうにもしっくり来なかった。

 「増補版」で私は、光子、つまりボソンを完全な対称性を持つ存在とし、世界の始まりには光しか存在せず、それが完全であるが故に時間の流れでさえも過去と未来に対して対称性を保っていると説明している。つまりボソンしかない世界において時間は流れていなかったと。

 しかし「電場と磁場が直交して代わる代わる振動する」という様子は「完全なる対称性」にはほど遠いものだった。

 私は電場磁場が直交するイメージを一時保留にすることにした。このイメージに縛られているかぎり新しいアイディアは出てこないと判断した。一つには上記のイメージは実験によって直接確認されたものではないはずだという読みがあったからである。
 電場と磁場が直交するというイメージはそれぞれの発生手順から来るものだと考えた。鉄に電線を巻いてコイルにすると、巻かれた鉄は電磁石になる。この時、電気を通す電線はSN極に対して直交している。逆に永久磁石をコイルに出し入れすると、そのコイルに電気が生じる。これも電線と永久磁石のSN極は直交している。
 「電場と磁場が直交しながら媒質のない空間を進む」というイメージは、それが生まれた時代に(おそらく今現在でさえ)それを実際に観測する手段はなかったはずだ。だから、電場と磁場の関係は、発電機でもおなじみの磁石とコイルの関係から連想したものに過ぎないと。

 そうやって、高校の教科書にさえ載っている「電磁波のイメージ」をいったんかっこに入れて、私は思考実験を進めていった。

 ボソンにおいては無視できる電場と磁場の関係も、我々の日常レベル、つまり通常物質のレベルでは無視することなどできない。電流と磁力の直交状態は、その原理がそのままモーターを動かす原理になっているぐらいであって、確定した事実そのものである。
 電流の方は拙ブログの「戯言パラダイム」でも簡単に説明できた。電流の実体である電子は、「空間のリソース」の余剰部分、もしくは不足部分を、陽子相互で順々にやりとりする様子であろう。おそらくは陽子の周囲の球状の波にはいくつかの形態があって、安定度の低い状態が順々に次へ次へとリレーのバトンのように受け渡されているのだろう。だからその出口部分をうまく操作すれば「空間のリソース」そのもの(もしくはその不足部分)である電子は、そのまま通常物質から飛び出して、単独の光子(ボソン)になってしまう。つまり電灯だ。

 単分子結合である金属は、電流が流れ、磁力を持つことができる。磁力は陽子を構成する三つのクォークの円の中心を貫くように発生する。だから、電流に対して磁力が発生する際には、陽子の三つのクォークは、平面にわっかを敷き詰めているような状態になっているのだろう。

 そこまでは良かった。

 しかし、磁力に極性があることをどうしても説明できなかった。私の「戯言パラダイム」では陽子を構成する三つのクォークは、単純に三つで円を構成し、順に「空間のリソース」を奪い合いながら擬似的なスピンをしているだけの存在である。「円」の上と下とで極性が生まれるような違いがあるとは思えなかった、しかしSN極は、同じ極が反発しあい、異なる極が引き合うという小学生でも知っている明確な特徴を持っている。

 そして、考えているうちにふと気づいた。

 陽子の擬似的なスピンは観察する位置によって右回りと左回りがある。磁力の極性とは、その回転の向きのことなのではないかと。同じ向きの極が互いにジョイントし合うように引きつけ合い、逆向きの極がかみ合わずに反発し合う。
 同じ向きというとNとN、SとSとイメージするだろうがそうではない。それぞれ同じ極、つまり同じ向きの擬似スピンをくっつけるためには、片側をぐるりと180度回転させなければならず、そうすると回転の向きは逆転してしまう。つまり、一つの磁石としては逆回転であるSとNが引きつけ合うのは180度回転させたときに、回転の向きが同じになるからである。

 まとめよう。電流とは「空間のリソース」の不足部分である電子の陽子相互のやりとりのことであり、磁力とは陽子を構成する三つのクォークの擬似スピンが直接作り出す力であり、極性とは陽子のスピンの回転の向きであると。

 まだまだ磁力については、実際に存在する様々な特徴を説明し切れているとは言えない。しかし、本ブログの「戯言パラダイム」を売りであるシンプルさを損なうことなく、電気と磁気を同時に説明可能にするための足がかりとしてはなかなか面白いアイディアだと自分では思っている。

追記

‪金属結合自体は堅牢だろうけど、原子を構成する素粒子レベル(ハドロン)の三つのクォークの向きは比較的自由度が高いのではないか。特に鉄。だからコイルの電流の回転の向きに陽子の擬似スピンの向きが強制的にそろえられるかたちになって、通常は物質内で循環して自己完結的に外に出ることがない磁力を物質外に放射せざるを得なくなる‬と。それが電磁石の原理と考える。永久磁石は最初からハドロンの向きが揃っているということなのだろう。

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2017年10月15日 (日)

なぜ天体間の相対速度は光速度内に収まるのか?

 「重力波の発見」は確かにノーベル賞にふさわしい。それは100年に渡って信じられ続けてきた「光速度不変の原理」の終焉を意味するからである。

 これは以前も以下のブログ記事に書いた通りであり、その理由についてはそちらをご覧になっていただきたい。

→「重力波の観測」と「光速度不変の原理」

 そもそも「光速度」という時、その速度はなにを基準としたものなのか?

 宇宙に絶対的な基準などない。地球は太陽の周囲をめぐり、太陽は銀河の中を移動し、銀河は広大な宇宙をめぐっている。宇宙のどこかに旗でも立ってていて「ここが基準です」等ということがあるはずがない。だから「速度」という表現を使うとき、それがどのような場合であったとしても事実上「相対速度」のことを指しているはずだ。
 例えば、車は地表との相対速度で80キロ走行しているし、ボイジャーは地球との相対速度で太陽系から離れつつある。全ては相対的なものだ。
 だから、「光速に近づいたときに時間や空間が伸び縮みする」という表現は、著しく言葉足らずであり、正確さを欠いている。

 それで当然、「観測者」が登場してくる。

 絶対的な基準~宇宙の灯台~が存在しない以上、対象となる物体の速度は、それを観測する人間との相対速度ということになるのだろう。しかしこれもまた不思議な話である。観測者が対象となる物体を観測したとき、それが光速内に常に収まるように、対象の時間や空間がねじ曲がるというのである。なんだか「シュレーディンガーの猫」に似ている。しかし、この「猫」以上に「光速度不変の原理」が不可解なのは、複数の観測者が登場した時になにが起こるかという点である。

 観測者相互の相対速度が光速に近いとする。観測者同士がお互いを観測し合ったときに何が起こるかというのも十分に不可解ではあるが、最も不可解なのは互いに異なる相対速度である観測対象を同時に観測した場合だ。ほとんどオカルティックだとは思うが、百歩譲って観測者が観測対象の時間や空間に影響を与えるのが真実だとしよう。この時もう一人の観測者が同じ観測対象を観測し始めた瞬間に、その対象の時間や空間の異なる状態が観測者の数だけ重なり合ってしまうことになる。時間が早くもあり遅くもあり、空間が短くもあり長くもあるという矛盾した状態を混在させることになる。

 これは観測者の目にそう見えるだけの錯覚のようなものであって実際には観測対象の時間や空間は伸び縮みしていないのだと反論する人物は、その発言がブラックホールやビッグバン理論を否定してしまっていることに気づいていない。

 さて、そんなことをぼんやり考えながら、ふと気づいたことがある。

 それは、なぜ宇宙の星々はそこにとどまっているように見えるのか、ということだ。なぜ空の星々は流れ星のように動き回っていないのかということだ。それらは互いに「光速度」の範囲内にとどまって存在しているように見える。まるで光につなぎ止められたかのように。もし「光速度不変の原理」という制限がないのであれば、天体はもっと激しく接近しあい、または離れ合っていてもおかしくない。ググって天体間の相対速度の最大値を調べようとしたが、なかなか見つからなかった。もし光速を超えると確証のもてるデータがあるのなら、最初から「光速度不変の原理」など生まれるはずがないので、それらは光速度内に収まっていると考えて良いのだろう。その前提で話を進める。

 拙ブログの「戯言パラダイム」を使えば、簡単にその理由を説明できる。宇宙の大規模構造(空洞)を作り出す斥力物質が、通常物質の速度を抑えるクッションのような働きをしていると考えるのである。
 斥力物質が宇宙の大規模構造(空洞)を作り出す点については以下のブログ記事で説明済みである。

→「宇宙の大規模構造」と反重力物質(ダークフェルミオン)

 宇宙の大規模構造(空洞)に斥力物質が満ちており、通常物質がその周縁部に押しやられているような構造になっているのであれば、通常物質はいわばバルーンとバルーンの間に挟み込まれたように身動きが取れない状態にある。例え光速を超えるような加速力が特定の物質に作用したとしても、空洞部分、すなわち斥力物質の方に向かった時点でブレーキがかかる。

 宇宙の星々が空にはりついているように見える理由は、斥力物質が疑似的な絶対空間として作用し、星々がその場に押しとどめられているからなのである。
 
 

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2017年8月13日 (日)

『時間認識という錯覚(増補版)-時間の矢の起源を求めて-』の「序」

※ 半年後(?)に出版予定の本の「序」です。


 「増補版の序」

 子どもの頃、私たちは誰でも、宇宙の不思議さにときめいたはずだ。
「宇宙は一体どこまで続くのか?」
「宇宙に果てがあるとしたら、それより向こうはどうなっているのか?」
「時間の流れはいつ始まったのか?」
「時間に始まりがあるとしたら、それより前はどうなっているのか?」

 本書『時間認識という錯覚 時間の矢の起源を求めて』は2013年に出版した『時間認識という錯覚 2500年の謎を解く』の増補版である。最初の本の第五章を第六章に下げ、新たな内容の第五章を追加して出版したものである。新章の追加に伴って、他の章にも加筆修正を行っている。
 本書には二つの「矢」が登場する。一つは「ゼノンのパラドックス」の矢であり、一つは物理学において「時間の矢」と呼ばれるものだ。それらは異なる概念ではあるが、「時間の流れとは何なのか」という一つのテーマを扱う点で共通している。
最初の本で私は、「ゼノンのパラドックス(の矢)」を話題の中心に据え、「時間の流れ」について認知的な観点と物理的な観点の二面から考察してきた。今回の増補版で追加される観点は「時間の(矢の)始まり」である。

 冒頭に示した素朴な疑問は対称性という概念と関わりが深い。通常の物理現象のほとんど全ては対称性を持っている。対称性は可逆性という性質を含む。可逆性とは、ある物理現象を逆に考えてもそれが成立するという考え方だ。たとえば条件をシンプルにするために宇宙空間を舞台としよう。無重力状態にある二人の宇宙飛行士がぶつかり合ったとする。この時、どちらがどちらから離れていくと決めつけることはできない。それぞれの宇宙飛行士の距離(関係)が変化するのであって、どちらかの飛行士が離れていくように見えるとしたら、それはその現象を観測する人物の主観でしかない。また、「ぶつかり合う」という動作を録画して逆回ししても、一つの「動き」として物理的には全く問題なく成立する。つまり、ほとんど全ての物理現象は可逆性と対称性とを持っている。
 それなのに「時間の流れ」だけは、過去から未来へと一方にしか流れない。つまり「時間の流れ」は対称性が破れている。これが「時間の矢」といわれる謎である。
私たちは「時間の流れ」の中で生活し、それを自然なものとして感じている。しかし、「流れるもの」には必ず始点があるはずだ。「宇宙の果て」や「時間の始まり」について考えると誰でも思考停止に陥る。それは「無」に他ならないからだ。人は何かについて考えることができても、「何もない」ということについて考えることができるほど強い心を持っていない。だから、自分の生きている世界のごくありふれた謎である「宇宙の果て(の向こう)」や「時間の始まり(のさらに前)」から目を背けながら生活している。
 本書においては、「時間の矢(流れ)」が「対称性が破れた状態」にあることに着目し、「対称性が保たれていた状態」を「時間の始まり(の直前)」の定義とする。時間を含めた全ての事物の対称性が保たれた状態について、いくつかの仮説を用いて説明したい。
 「オッカムの剃刀」という言葉がある。一つの現象を説明するのに複数の解釈が成り立つなら、そのうち最もシンプルなものが正しい解釈であるという考え方だ。本書において提示される仮説は、その論理的な整合性とシンプルさとが武器である。さらに、実験による実証可能性も有している。それらについて新しく追加される第五章で語っていく。

※ まあひょっとしたら大幅に変えるかもですが、いまのところこんな感じです。前の本のプロローグとかはそのままにしておくことにしました。
※ 製本はハードカバーにしました。(表紙とかが厚い)。まあその方が「本」という雰囲気が出ますからね。ほとんどただそれだけですが。

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2017年7月27日 (木)

「対称性の自発的な破れ」はなぜ「破れ」るか?

 『時間認識という錯覚』の増補版を出すことに決めて、早速あれこれ動き始めた。もちろんその目的は「第六章」とそこで語られる様々な「戯言アイディア」を世に送り出すことにある。だから同じ本でも中身は別物と考えていい。まあ前の本の前半は流用するつもりだが。
 副題は前の「2500年の謎を解く」から「時間の矢の起源を求めて」に変えるつもりだ。

 さて今回のブログは、そこで書く内容の覚え書きのようなものだ。

 「対称性の自発的な破れ」は、増補版の目玉となる概念だが、もちろんこれは私が勝手に言っていることではなくて、2008年度のノーベル物理学賞を獲得した南部陽一郎さんの考えたことだ。
 何年か前にNスペで『神の数式』という番組が放映された。理論物理学の発展の歴史を実に分かりやすく説明した良い番組で、特に「対称性」ということについて素人にも分かりやすいように語ってくれているのが印象的であった。(私自身はレーダーマンの『対称性』という本をずいぶん前に読んでおり、ある程度理解しているつもりだったのだが。)

 その番組で、南部陽一郎さんが唱えた「対称性の自発的な破れ」についても、分かりやすく説明してくれていた。その番組では、対称性が破れる様子を「芯を尖らせた鉛筆を逆さまに立てて並べておくと、ある瞬間からそれらは一斉に倒れ始める」といった映像で紹介していた。

 素人の私は、単純に次のような疑問を感じていた。

「『対称性』というのは、完璧にバランスの取れた状態のはずだ。鉛筆を逆さまに立てておけばそりゃ簡単に倒れるだろうが、『対称性』本来の状態というのは、簡単に破れるようなものではないような気がするのだが…」

 さらに考えた。対称性が破れているものの中で、最も代表的なものは「時間の矢」だろう。前述のレーダーマンの『対称性』においても、時間だけがなぜ対称性を持っていないのかが話題の一つになっていた。時間が流れるのは当然であっていちいち悩むほどのことはないはずだと思うだろうが、流れるためには始点が必要になってくるのでそう簡単ではないのだ。つまり、時間はいったいいつ始まったのか?未解決問題が立ちはだかるわけだ。

 「時間の始まり」は、「世界の全ての事物の対称性が保たれた状態」といえるかも知れない。これにいては既に以前書いたブログ記事や、それを元にした「第六章」で説明済みである。

 しかし、さらにこう思う。

 私のアイディアである「宇宙には最初に光(ボソン)しかなかった」は、もちろん数多存在する「宇宙の始まり」のアイディアの一つに過ぎない。そもそも光が既にあることを前提としているので、純粋な意味での「始まり」としては最初から弱点を抱えている。

 しかし、「対称性」が「完全なバランス状態」である限り、実際には逆さまに立てた鉛筆のようには簡単に倒れたりしないはずだ。もしそのバランスが崩れるとしたら、それ自体のもつ「完全さ」が原因であるか、別の「完全さ」、すなわち別の「対称性」が必要になるはずだ。

 「円」、もしくは「循環」は、その「もう一つの対称性」である。

 未来も過去もなく、他のボソンとのつながりもない世界に、三つのボソンが「円」を形作り、その間で「循環」を始めたとき、「対称性が自発的に破れる」。

 この「対称性という完全性が破れるためには、別の対称性という完全性が必要になる」というのは、数学的証明に匹敵する論理だと思うのだが…


追記

 「対称性」というのは本来破れるようなものではない。「対称性が自発的に破れる」というのは、言ってみれば宇宙空間に浮かんだテニスボールが、何の力も加えていないのに突然一定の方向に加速し始めるようなものだ。だから、「対称性」を持つ存在は原則として永遠にその性格を保ち続ける。
 そのような「対称性」がもし「破れる」としたら、それは本来の「対称性」を保ったまま、別の対称性に組み込まれる時しかあり得ない。つまり「対称性」は「循環」という別の「対称性」が追加されることによって、疑似的に破れるのだ。

 

 

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2017年3月26日 (日)

「量子物理学の発見 ヒッグス粒子の先までの物語」-量子色力学による「強い質量」-

 科学おたくの私は、おたくの名に恥じずこれまで数え切れないぐらいの関連書籍を読みあさってきたが、この本に出てくる「強い質量」という言葉を一度も目にしたことがなかった。

 「量子物理学の発見」は、ノーベル賞受賞者であり、実験物理学の伝説的存在でもあるレーダーマンの著書である。題名の通り、本の主要な内容は2013年に発案者がノーベル賞を受賞したヒッグス粒子発見までの過程を説明したものである。ヒッグス粒子が質量を生む仕組みについても分かりやすく説明されており、一時ネット界隈でもよく目にした「雪道の例え」に納得いかなかった人もこれを読めば少し心が落ち着くはずだ。

 さて、私が問題にしたいのはヒッグス粒子の話ではなく、この本の最終章の内容である。最終第九章になって突然論調が変わるのだ。

 第九章の項目中に「ヒッグス粒子自身はどうやって質量を獲得するのか」というものがあり、冒頭部分に次のように書いてある。

「標準理論で「フェルミ(引用者注・物質の基本単位となる素粒子)のスケール」を決めているのはヒッグス粒子の質量である。しかしヒッグス粒子がなぜその質量を持つのかについては、われわれはまだ何も知らないのだ。」

 これは奇妙な話だ。これは「宇宙の中心がどこなのかは分かったが、なぜそこが宇宙の中心なのかは分からない」と言っているようなもので、矛盾しているとしか思えない。一種の循環論法とさえ思える。

 「量子物理学の発見」にはさらには次のように書かれている。

「ヒッグス粒子の質量を説明できないというのは、かなりもどかしい状況だ。それは次のような事情による。「量子色力学」(QCD)は、クォークとグルーオン、そしてこれらの粒子間に働く強い相互作用に関するみごとな理論で、一九七四年に起こった一連の大躍進によって生まれたものである。そして、いったんその理論の中身が理解され、クォークとグルーオンの存在が実験によって確かめられると、この理論は「強い質量」の由来をきちんと説明してくれた。「強い質量」とは強い相互作用によって生じる質量である。実は一九五○年代から一九六○年代にかけて発見された多くの素粒子が持つ質量はそれで、陽子と中性子の質量の大部分も「強い質量」なのである。このことをもっと早く読者のみなさんに伝えなかったことを、お詫びしなければならないぐらいだ。(中略)強い質量は、QCDで発見された固有の質量スケールから生じたもので、ヒッグス粒子からではないのである。」

 以上の引用についてはいくつか疑問点がある。

 まず一つは、「このことをもっと早く読者のみなさんに伝えなかったことを、お詫びしなければならないぐらいだ。」の部分で、なぜこの本の大半をしめるヒッグス粒子に関する記述を、最終九章になって全て否定するようなことを書くのかということ。

 次に、「クォークとグルーオンの存在が実験によって確かめられると」の部分である。かつてクォークは陽子の内部に三つあるとされていたが、最近になって「無数のクォークが湧きたっている」といった解釈に変化してきているはずだ。そもそもクォークを単独では取り出せないことが「クォーク閉じ込めの原理」とされ、この謎が解ければノーベル賞確実なぐらいである。さらにはグルーオンはまだ理論上の存在であり観測されていないはずだ。

 さらに「この理論は「強い質量」の由来をきちんと説明してくれた。」の部分である。量子色力学は、陽子内部の三つのクォークの組み合わせが〜いくつかのパターンの三つの色の組み合わせが常に白になるように〜同一の条件結果に収束するというものだ。これは数学分野で一億円の懸賞金がかかっているミレニアム問題の一つである「ヤン=ミルズ問題」とほぼ同一の内容を持っている。ヤン=ミルズ問題はその一部に「陽子の内部に質量が生じることを証明せよ」という物理学に通じるものを含んでいる。そして、それは解かれていない。もし解かれていたら新聞の一面を飾るような大ニュースになるはずだ。


 さて、ここからがいつもの戯言である。

 「量子物理学の発見」にはさらに次のように書いてある。

「QCDは、強い質量のスケールがどこから生じるのかを、驚くべき方法でみごとに説明してくれる。それによれば強い質量は、なんと、量子力学そのものから生じているのだ。」

 これ以降、この本の記述は「漸近的自由」の解説に終始し、「量子力学そのものが質量を生み出すシステム」については一切触れていない。なんだか煙に巻かれてしまったという印象だ。

 ところで、量子色力学の考え方をベースに、「量子力学そのもの」をシステムとして質量が生じる様子を理論化したものが一つ既に存在する。それは物質の基本単位である素粒子を「球状の波」とする考え方だ。以下のページを参照していただきたい。

「量子という球状の波」(クリックして下さい)


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2017年1月22日 (日)

観測結果としての「ブラックホール」はダーク水素(斥力物質)で説明できる

 ブラックホールは観測事実として存在すると聞く。私の浅薄な知識の範囲内では、その天体の周囲の光の屈折率が、その天体の規模から予想される質量のそれを超えているとき、その天体はブラックホール化していると考えて良いのだろう。

 しかし、天体の周囲の空間のひずみが、その天体の質量が生み出すひずみを超えた見かけになると考えられる別の可能性が存在する。

 それは、その天体の周囲の空間を、ダーク水素(斥力物質)が取り囲んでいるという解釈である。

 ダーク水素とは、拙ブログの「戯言パラダイム」が予言する斥力を持つ物質であり、詳細については以下のホームページをご覧になっていただきたい。 → 『時間認識という錯覚 第六章』

 さて、その天体のすぐ側を光が通過する様子をイメージしてみよう。光はその天体の質量が生み出す空間のひずみにそって進路を曲げられる。ところが、その天体の周囲に分子単位で均等に空間に広がる斥力物質があるとする。斥力物質は光の進路を遠ざけるから、天体の方向に光を押しやるように働く。

 つまり、斥力物質に取り囲まれた天体は、実際の質量以上に光を引き寄せているような見かけになる。

 この理屈は、銀河レベルにも言えるはずで、これが正体不明の質量として存在が予言されているダークマターの正体なのではないかと思うが、やや思いつきに過ぎないアイディアではある。

 つまり、ダークマター、ダークエネルギー(斥力)、ブラックホール、宇宙の加速膨張、これら全ては宇宙の暗闇の中に均等に広がって観測不能な状態にある、「ダーク水素(ダークフェルミオン)」ひとつで説明可能になるのではないかと。

 オッカムの剃刀的には、面白いアイディアだとは思うが。

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