カテゴリー「『現実を読み解くための国語教育-記号論・現象学を観点として-』」の8件の記事

2016年5月15日 (日)

『現実を読み解くための国語教育-記号論・現象学を観点として-』、出版!

 二冊目の本、『現実を読み解くための国語教育-記号論・現象学を観点として-』が出版されました

 20年近く前に書いた修士論文の、言語論に相当する箇所だけをリライトし、そこで設定した枠組みに基づいて実践してきた授業記録とその分析を載せました。

 一冊目の『時間認識という錯覚』とはずいぶん雰囲気が違うと思われるでしょうが、実は根っこのところは一緒なのです。つまり、「今、この瞬間に、何かを考えているというのは、つまり、どういうことなのか」という点が共通テーマなのです。今回の本の内容が私の原点とさえ言えます。前の本に少しでも興味を持って下さった方なら、楽しんで読んでいただけるのではないかと思います。

 ネット書店などでの販売はこれからのようですが、出版社さんのホームページから購入できるようです。前の本と同じで、大幅赤字覚悟の自費出版です。ハードカバーで2800円と安くはありませんが、よろしかったら手にとってやって下さい。

渓水社さんのホームページ

| | コメント (0)

2016年3月27日 (日)

新しい本の経過報告

 出版準備中の本の経過報告をしよう。

 現在「再校」、つまり編集者チェックを、著者である私が校正して、出版社さんに送り返すところまで来ている。さらにこれから、「三校」で編集者チェックが入り、さらにそれを私が最終チェックして印刷という工程になっている。

 予定より時間がかかっているのは、再校の段階で私のチェックに時間がかかったというのもあるが、一つには引用の多さに待ったがかかったからである。

 引用というのは、基本的には暗黙の了解的に、著作物であっても出典などを明らかにすることなどによって使って良いことになっている。ただし、これはまさに暗黙の了解的な取り決めであって、字数制限などの明確な基準があるわけではない。だから、著者の考え方次第で、認可が下りたり下りなかったりするものらしい。それで、前の本の時も特に画像データに関しては、著作権者に許可を取るよう心がけた。「蛇の回転」とか「スター・レッド」とかはそうやってきちんと掲載許可をもらっている。

 しかし、今回の本の場合は、引用が極端に多かった。もちろん本にするのに文字数が足りないとかいった訳ではない。そもそも修論をベースにした本であり、修論自体は今回の文字数の3倍以上の文字量がある。それを三分の一に絞り込んだのは、「言語観」にテーマを絞り込みたかったからである。その方が、本を読んでくださる(かもしれない)方々にとっては、本の内容が理解しやすくなると考えたからである。つまり、「論文」である修論と、今回の「本」とできちんと役割分担したかったわけだ。

 引用を多くしたのはそれだけが理由ではない。

 まさにその本に書いている内容そのものでもあるが、「言葉」というものは他の言葉とのつながりの中でその場だけの意味を付与される。辞書的な意味ももちろん大事だが、文脈(コンテクスト)の中で変化し、それを捉えながら読み解くことが現代社会においては特に重要な能力になっていくのではないかというわけだ。

 つまり

 私が書く文章についても、査読論文程度の文字数ではとてもじゃないけど、それぞれの言葉を読み解くためのコンテクストを構成するには至らない。私の言葉の一つ一つは、もちろん私が勝手に考えたことではなく、私が参考にしてきた様々な本の内容を背景としている。極端な話、私が読んでいる本を読者にも読んでもらうぐらいの情報量がなければ、私の本を正確に読み解いてもらうだけのコンテクストを構成することが出来ないと判断したわけである。これはまあつまり「理解してもらえなかった」経験を幾度となく経ているからなのであるが。

 そのような事情で、引用が極端に長くなってしまい、それを著者の皆さんから許可を取るのに時間がかかっているというわけだ。

 せっかく作る本だから、例え自己満足で終わろうとも、最低限自分だけは満足したい。やるべきことをやらずに後で後悔するようなことにはなりたくない。

 出版社さんの薦めで、索引も120項目近く作った。「コンテクスト」とか「ラング」とか「虚構テクスト」とかいった言葉がどのページに使われているかの目次みたいなものである。装丁についての要望も連絡した。そろそろ「案」もいくつか送られてくる頃だと思う。

 なんとか来月中にとは思うのだが、この時期は出版社はどこも忙しいらしく、引用の件も含めて時間がかかりそうである。
 まあのんきに待つつもりだ。
 

 

 

| | コメント (0)

2015年12月23日 (水)

『現実を読み解くための国語教育-記号論・現象学を観点として-』、執筆終了

 修士論文のうち、言語論に関する部分だけ取り出して、執筆後15年以上にわたる実践分析を付け加えた本、『現実を読み解くための国語教育-記号論・現象学を観点として-』がようやく書き終わりました。

 途中1年半ほど放置していましたが、その間に前の本の「第六章」を書いたりしましたので、まあ時間がかかったのも仕方ないことなのかもしれません。

 既に出版社に原稿も送りました。完成は来年3~4月頃になりそうです。ハードカバーで2500~3000円ぐらいになりそうです。一般の本屋には置きませんが、ネット購入は可能です。
 前作『時間認識という錯覚』と違って自分の専門分野ですし、かなり歯ごたえのある内容だとは思いますが、『時間認識~』の執筆動機が分かるような内容になっていますので、前作を面白いと思って下さった方にはお勧めです。

 例によって全文ネット上においてますので、よろしかったらご覧になって下さい。ネットのデータはカラーだったり、資料編へのリンクがあったり、Googleさんが検索対象にしてくれているというのもありますし、出版後もそのままにしておくつもりです。

『現実を読み解くための国語教育-記号論・現象学を観点として-』

| | コメント (0)

2015年4月26日 (日)

文学読解とイノベーション

 執筆中の国語教育系の本は、巷ではやりの「コミュニケーション能力」を私なりにアレンジしたような書き出しになっている。現代社会におけるディスコミュニケーションの現状は、一般に言われるような昔に比べて子供達の言語能力が低下したとかいったような理由からくるものではなく、人それぞれの持っている背景が多様になったため、使用する言語そのものにずれが生じていることがその主因であると。つまりコードとしての言語の機能が本来の役割を果たせなくなっていることが原因であるというわけだ。
 したがって我々はコミュニケーションの場において、コンテクストを参照しながら相手の持っている言語のコードを探り、自らのコードに変更を加えながらコミュニケーションする必要がある。そうすることで初めて「バベルの塔」のようなコミュニケーション不全の状況を脱し、相手の気持ちを理解し、相手に自分の気持ちを伝えることが可能になる。
 これは受容理論と呼ばれる文学理論の内容そのものだ。つまり、文学読解のスキルは現代社会におけるコミュニケーションのスキルに等しい。

 上記と同様の観点が、最近流行の「論理性」という観点に含まれていないとまでは言わない。しかし、どうもその定義が、「自分の考えを筋道立てて相手に伝えること」という点のみで語られているような気がしてならない。相手の言葉の背景にある様々な情報を読み解いて、そこに最適なコードを見出すことでよりよいコミュニケーションを実現させる。そのような過程が「論理性」とか「プレゼン能力」とかに含まれているとは私にはとうてい思えない。

 それだけではなく、文学読解のスキルは思考力に直結している。イノベーションを生み出すような創造力にもつながっている。

 相手の言葉、文学においては作品中の言葉から得られる情報を読み解いて、そこにコードを見出すためには、より多くの言葉を同時処理する能力が必要になってくる。
 私はよく生徒に、「出来るだけ多くの言葉を心の湖にぷかぷか浮かばせて、それらが自由に動き回ってつながったり離れたりしやすい状態を保つのだ。」と教えている。
 自分や相手にとって分かりやすい「論理」だけを追い求めると、必然的に言葉の組み合わせはシンプルになる。シンプルな言葉の組み合わせが一概に中身までもやせ細った状態だとは言えないだろうが、少なくともそのような絞り込まれた表現に至るまで、様々な言葉の組み合わせが吟味されていなければならないはずだ。

 巷ではやりの「論理性」「コミュニケーション能力」「プレゼン能力」は、そのような「無限の言葉の組み合わせ」の後にくる段階だろうか?

 異質なものを「論理的でない」などと排除せず、あえて心の湖に浮かべたまま、他の言葉とのつながりを偶然の作用をも利用しながら探っていく。この思考態度は、目の前の話し相手の心をよりよく理解するだけでなく、決まり切った思考パターンから自分を解き放ち、イノベーションを生み出すような創造性を生み出すきっかけになるはずだ。

 というような話を書こうかどうか検討中である。


追記

 上記のような思考態度が真価を発揮するためには、全ての人がそのようなスキルの意味を理解しておく必要があるんだよな。一方だけが相手のコードを理解するだけでは、結局その相手に話を合わせるしかなくなる。自らのコードと心とを奥にしまったまま。
 本当に全ての人がそのスキルの意味を理解できたら、ブレインストーミングが最大の効果を発揮し、様々な分野領域ですさまじい勢いでイノベーションが起きるだろうな。

| | コメント (0)

2014年10月25日 (土)

「見る」(茂木健一郎)の授業

 いつもの「キーワード(つながり)探し」です。

Photo


追記

実際の授業では、この板書ができあがるまでにベンジャミン・リベットや西田幾多郎まで登場させて、何の授業かわからないような展開になりました^^;

| | コメント (0)

2014年8月17日 (日)

『現実を読み解くための国語教育』、第一章完成

 第一章の執筆が終わりました。第一章の大半は修論のリライトなのでそんなに苦労はしませんでしたが、問題はここから…。後半の第二章は、第一章で設定した枠組みを基にして実践分析を行います。学会発表等で既に扱っている内容もありますが、第一章と関連づけながら記述していくので、ほぼ全面的に新作ということになります。

『現実を読み解くための国語教育』第一章はこちら

| | コメント (0)

2014年6月21日 (土)

心の中の湖

 このブログをはじめた頃(2006.8)には、この表現を何度か使っていたような気がする。
 私は意識的に自分の心を機能させようとする時に、心の中に「湖」が広がっている様子をイメージする。漫画の「シッタカブッタ」の中に、そういうのがあったのかも知れない。

 最近第三シリーズがNHKで放映された「シャーロック」で、無限の記憶を保管する場所の脳内イメージとして「精神の宮殿」という表現が使われていた。知識を記憶させる際、心の中に本物の図書館のようなイメージを創り出し、その中の戸棚の一つにしまいこむようにすると、より効果的に記憶すべきデータを脳に刻み込み、取り出すことも可能になるというものだ。私の「心の中の湖」というのもそれに似ているかも知れない。

 難解な文章などを読む際、私は文章の中の言葉の一つひとつを自分の「心の湖」に投げ込むイメージを持つ。もちろん比喩的な意味でではあるのだが、ある程度は実際にイメージしていると思う。
 そして、その文章を読み終わるまで、可能な限り多くの言葉を心の湖にぷかぷか浮かばせて、言葉の一部分が湖の表面にちらちら頭をのぞかせているような状態を保つ。一つの言葉に集中しすぎると、他の言葉が湖の底に沈んでしまうから、肩の力を抜いて出来るだけ全ての言葉に均等に自分の注意が行き届くようにする。

 その状態でしばらくそっとしておくと、言葉はそれぞれ揺れたり流れたりして、くっついたりぶつかり合って離れていったりと勝手に動き始める。そして私自身は、それらの言葉の動きを出来るだけ邪魔しないようにして、言葉それぞれがつながり合うのを待つ。言葉が多くつながればつながるほど、読んでいる文章のイメージがくっきりと鮮明になっていく。その文章の構造が立体的にさえ見えてくる。

 前にこのブログで、「言葉は樹上で生活する動物の風を読む空間認識力から生まれたのではないか」と書いて、拙著『時間認識という錯覚』でもそれをネタにした。「心の湖」の表面で、たくさんの言葉がぷかぷか浮かんでいる様子は、まさに空間的である。

 思考を効果的に働かせるための手法として、キーワードカードをランダムに動かして偶然のつながりを生み出すKJ法や、多数の参加者のランダムな意見の偶然のつながりを生み出すブレインストーミングがあるが、「心の湖」はそれを一人でやるようなものと言えるかも知れない。脳内KJ法、脳内ブレインストーミングとでも言うべきか。

 大体人は、単純なものを好むものだ。自分の行動だけでなく、他者とのつながりさえ単純化し様式化する。そうすると、見かけ上スマートになる。見かけ上コミュニケーション能力が上がったような気分になる。しかし、そのような手法によって獲得された「能力」が、複雑な人間関係や、不測の事態に対応する機能を持てるだろうか。「流れて止まないもの」を見つめ、複雑な物事を複雑なまま理解し受け止める能力こそ、現代みたいな世の中には必要だろう。

 論理構造も構文も投げ捨てて、ただ言葉を「心の湖」に投げ込んでぶかぶか浮かばせる。そうすると自分自身がなんだか情報の海の中を優雅に泳いでいるような気分にもなる。それは現代人の思考「様式」として悪くないと思うし、なにより結構快感なのでそういう意味でもお勧めである。

追記

 テニスで、特に強烈なサーブを打ってくる相手と試合する時にも、これとちょっと似た心理状態になる。複数のサーブの軌道とスピードと、それに対処する自分の何パターンもの身体イメージが、重なり合って同時存在している感じ。それらは同じ場所に重なり合っているわけではなくて、立体的に私の体の周囲に配置されている。そして私自身は肩の力を抜いて、ラケットをぶらぶらさせて完全なニュートラルな状態で、本物のボールが飛んでくるまでそれらのイメージを保つ。

| | コメント (0)

2014年5月 6日 (火)

『現実を読み解くための国語教育-記号論・現象学を観点として-』

 二冊目の本のためのページを作りました。修士論文で設定した言語観に基づき、過去15年間の授業実践を分析する予定です。(題名は変わるかもしれません)
 なかなか手を動かそうとしない自分を追い込むために、中身がないのにページだけ作ってしまいました。執筆内容をリアルタイムでアップしていく予定です。

『現実を読み解くための国語教育 -記号論・現象学を観点として-』

| | コメント (9)