カテゴリー「アニメ・コミック」の35件の記事

2017年9月29日 (金)

リライフ(ReLIFE)

 ネット配信前提の漫画で、単行本やアニメーション、さらには映画にまでなったらしいのだが最近まで知らなかった。
 それを何で今ごろそんな時期外れの話題について書き始めたのかというと、どうもその漫画の作者が今の勤務校の出身らしいのだ。で、漫画の主人公達(女子)の制服が、うちの高校にそっくり、というよりそのまんまなのである。
 なんだか大分県のどこかの役所が漫画の人気にのっかって、リライフキャンペーンとかなんとかいうものまでやっているらしい。キャンペーンの中身はよく覚えていないのだが、その漫画について知ったのはその役所の担当者がうちの高校にそのキャンペーンの宣伝に来たのがきっかけだった。

 それでも、まだほいほいそれならとその漫画を読むほどの興味は持てなかったのだが、二、三日前に突然読みたくなって、さっき最新話まで全198話を一気に読み終えてしまった。(最初の70話が無料になっていて、ちょっと読んでみようと思ったらずるずる最後までというパターンだったのだが)

 なるほどと思った。「薬を飲んで高校生の姿に変身」なんて話はもちろん現実にはあり得ないのだが、「変身」の部分を比喩と捉えるなら、普通に「中学・高校時代を振り返る話」とも読める。
 実際、中学や高校時代にトラウマを抱えて生きている人は多いはずだ。

 そうやってぼんやり考えているうちに、私自身も例外ではないと気づいた。中学から高校にかけての様々な出来事が、後の人生に大きく影響を与えていることがはっきりと分かる。

 そういう思い出を言語化してみるのも良いかもしれない。まあつまり自己カウンセリングなわけだが。40年近くも前の出来事で、すでに過去の思い出以外の意味が消えてなくなっている今、他人にとっては何の意味もないありふれた出来事の数々を、文字にしてみるのも良いかもしれない。つまり私にとっての内面的「リライフ」である。

 例えば次のような話だ。

 中学二年の時に、私はとある女の子から告白された。聡明でかわいい女の子だった。私は舞い上がった。あっという間に恋に落ちた。
 ある日、仲の良かった友達の一人から「話を聞いて欲しい」と相談を受けた。どちらかというと早熟で、当時既に今の背丈(170センチちょい)あった私は、どうも番長みたいなキャラでもあったらしい。彼を助けるつもりで「なんだなんだ」と相談に乗ってやった。どうも恋愛関係の相談らしい。
 彼は、私に告白した女の子が、実は彼の元カノだったと言う。彼は、彼女への思いを私にまさに「浴びせかけた」。
 私は板挟みになった。
 私は、恋と友情とどちらも成り立たせようとして、苦肉の策をひねり出した。私は彼女に頼んだ。「一年間待ってくれ」と。「一年間待ってまだ俺のことが好きだったらつきあおう」と。彼女は泣いた。
 私は、一年間を指折り数えて待った。そして一年後に私は彼女に告白し返した。当然のごとく私は振られた。

 リライフを読みながら、そんな話を思い出していた。長い間忘れていた話だ。

 ここに書ける話には当然限界がある。上記の話以上に明らかなトラウマ話はもちろんたくさんあるのだが、書くことが出来る範囲で、時々書いてみようと思う。

 

 
 

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2012年12月11日 (火)

「のぼうの城」

 最初は漫画で読んだ。雑誌ビッグコミックスピリッツで連載されていた時に、読むともなく読んでいたが次第に引き込まれていった。

 これの主人公の面白いのは、戦国時代の武将のくせに、とにかくダメダメで、何にも取り柄がなくて、実はそれは世を忍ぶ仮の姿で…と思って読んでいたら、やっぱりダメダメなのだ。
 取り柄があるとしたら、ただプライドだけは人一倍強くて、悪くいえば単にわがままで、映画でも家来から「ガキかてめえは」と怒鳴られるほど、やっぱりダメダメなのだ。
 ところが、あまりにダメダメなので、家来も民衆も「まああの人なら仕方ないなあ」といってついてきてくれる。
 たったそれだけで、500人対2万人という劣勢を跳ね返して、秀吉の小田原攻めの際、唯一攻め落とされなかった城として、歴史に名を残すことになる。

 漫画を読んでも、原作を読んでも、この主人公は単に虚勢を張っているだけとしか思えない。それなのに面白い。ダメ殿様の代わりに大奮戦する家来達や、男勝りのヒロイン甲斐姫も、まあ魅力的といえば魅力的なのだが、それらを全部足してもちょっと違う感じだ。

 どちらかというと洋画好きなので、映画の方はどうしようかと迷っていたけど、ちょうど宮崎駿さん原作の「風の谷のナウシカ」の巨神兵を短編映画にしたものを見て、「日本映画やるじゃない」と思っていたので、ふらっと観に行くことにした。テレビ予告編で流れていた主題歌の「ズレてる方がいい」が気に入ったというのもある。

 主人公のダメダメ武将である成田長親を演じたのは狂言師の野村萬斎さんで、どんなふうに「(でく)のぼう」を演じるのかと思っていたら、のっけから動きが狂言なのだ。陰陽師に出演していた時と比べても明らかに演じ方が違う。つまり本職そのものに近い雰囲気で演じている。少なくとも私にはそう感じられた。

 原作を先に読んでいる時は、どうしてもその時のイメージと映画とを比べてしまうのだが、どう考えても特に漫画のイメージとは離れているはずなのに、なんの違和感もない。そればかりか、「300」ばりに派手な演出が施されている脇役達の大奮戦とのバランスが取れていさえする。なんだかミュージカルのようだ。ふと、原作は最初から野村萬斎さんを意識して書かれていたのではないかとさえ思う。

 それでふと気づいたのだが、主人公成田長親は、日本人そのものとして描かれているのではないかと。
 体力もなく、たいした知力もなく、ただクソ意地とプライドだけは人一倍で、そんな霞みたいなものだけを頼りにそれなりのことをやってしまう、謎な人々。

 そういえば、湖に点在する島を橋でつなげた「忍城」は、日本列島そのもののメタファーのような気さえする。

 野村萬斎さんがあの主人公を「狂言」そのものによって表現したのは、それが「秘すれば花」たる日本の精神そのものだからではないか。他者の視線という自らの運命と絶望的な戦いを続けながら、自分の心を「コミカルな動き」という極度に抑制された演技の中に閉じこめる。
 そういった我々の心の中の「古い記憶」こそが、「のぼうの城」のクリエイター達が造形したかった主人公像そのものだったのではないかと思う。

 いや元気をもらいましたよ。私もクソ意地だけが取り柄の人間なので。

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2012年9月23日 (日)

魔法少女まどか☆マギカ

 TVスポットを見て、「これはただもんじゃねえ」と思って、即BD全巻をアマゾンで購入した。そういう時の自分の直感には(根拠のない)自信がある。視聴後に、放映されている時すでに大反響を生んでいた作品だとネット記事で知って、非常に納得した。

 うつ病、不登校、減らない自殺者数等、心の病にどのように対処するかは、個人のレベルを超えた国全体の問題だろう。国民一人ひとりの幸福となどいったきれいごとはともかく、経済的な面においても単に一人ひとりが元気になるだけで、生産性も消費意欲もアップするだろうから。

 ところが、心の問題に対しては一切のきれいごとが通用しない。心の病の最も特徴的な一面は、「何をやっても改善されない」という点にこそある。思うに、原因と結果の関係が必ずしも一致していなくても、それを多くの人が信じれば「真実」として通用する。例えば、特定の刺激に対する反応結果が、実はその「刺激」が反応結果の直接的な原因でなくても、それがある程度の脈絡を持っており、それを多数の人々が認めれば、「真実」として定着する。

 ところが「心の問題」には、一切の擬似的な真実は効力を持たない。やさしさも真心も、悩める人物には通用しない。しかし、これはある面チャンスでもあって、生半可な常識が通用しないからこそ、本物の真実を追究せざるを得なくなる。「心とは何だろう」と、悩める人物も、悩める人物を支えようとする人物も、考えざるを得なくなる。

 カウンセリングの本質は、癒しではない。人の「悩み」は時として悩む本人にもその原因がわかっていない。無意識下で暴れる悩みの根っこを意識化し、それぞれがコントロール可能な状態にする。一人ひとりのその作業を手助けするのがカウンセラーの役割である。
 で、「魔法少女まどか☆マギカ」は、作品自体がそのような力を持っているのではないかとさえ思うのだ。これが単に商業目的で作られた作品とはとても信じられない。

 希望と絶望は確かに等価だ。それを意識化したところから何ができるかを考えることは、今の我々に必要なことだと実際思う。

追記
 
 ちょいとショッキングなシーンもあるので、お勧めはしませんがお勧めしますという、謎の推薦文を最後につけておきます^^;
 ただ、そういうシーンは、生半可な方法ではメッセージが届かない人たち(俺も人のことは言えないが…)に思いを届かせるための方策なのではないかと思うこともありますが。

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2012年8月 6日 (月)

「おおかみこどもの雨と雪」

(ネタバレ注意、これから見る予定のある方は絶対に読まないように^^;)

 たぶん日本で最も有名なアニメーションの一つである「機動戦士ガンダム」を監督した富野由悠季さんが、「おおかみこどもの雨と雪」を激賞して次のようにコメントしていた。

「本作は、変身物でもなければ、恋愛物でもないし、エコやら環境問題をあげつらったメッセージ物でもない。まして癒やし系でもない。それら過去のジャンル分けなどを飛び越えた物語になっている。描写が冷静だからだろう。文芸大作と言っても良い。それほどリアルに命の連鎖を描き、子供の成長の問題を取りあげている。そこに至った意味は刮目(かつもく)すべきなのだ。」

 特に「命の連鎖」という点については私も強く感じていたのだが、そのような観点で、本作品を鑑賞後にいくつかの物語を連想していた。
 一つ目は西原理恵子さんの漫画「いけちゃんとぼく」である。

(ネタバレ注意)
 
 年老いて出会って短い恋をした「いけちゃん」は、恋人が亡くなった後に時空を超えて幼い頃の彼に会いに行く。そして彼が成長して別の恋人と出会うまで見守り続ける。
 西原さん自身がこの映画宣伝ブログで語っているように、この漫画の「いけちゃん」は西原さん自身だ。人は自分の思いを、自分が出会う様々な他者に投影する。西原さんは次のように語っている。

「今まで付き合った彼氏の、何人もの辛い話や悲しかった話なんかを聞くでしょ、ちっちゃい頃のね。それを息子がちょうど同じ大きさになってきた時に全部思い出して、それがちょうど1冊になった本だったので、その後姿のシルエットが、昔ずっと好きだった何人もの人に重なっちゃってね。あの人達にもこんな小さな頃があったんだなぁと思って。」

 命は連鎖する。人の思いは連鎖する。

 ジョン・アービング原作で、『明日に向かって撃て』の監督でもあるジョージ・ロイ・ヒルが撮った『ガープの世界』も、同様のテーマで作られた作品だろう。短命であるという運命を背負う家族が、その悲劇をありのまま受け止めながら、命をつなげていく。あの衝撃的なラストシーンで、ヘリコプターで運ばれながらパイロットだった父親とのつながりを感じ、にこやかに笑いながら、家族に「忘れないで」とつぶやく主人公の姿は、「おおかみこども」の主人公である花さんの姿にも重なる。

 本作品の監督細田守さんの『時をかける少女』について私は以前次のように書いた

「原作が持っていた、現代社会の延長としての未来への不安といった高度成長期ならではのテーマをばっさりと切り捨て、全てが横につながりあった「今」この瞬間の、「生」のみに焦点を絞り込んだ脚本の意図には非常に共感できる。」

 『おおかみこどもの雨と雪』においても、「横のつながり」が描かれている。
 主人公の花さんは、おおかみを「しっかり生きられるように」自然に帰すという目的を果たした。だがそれによって父親と花さん二人の絆は消えてしまったかのようだ。しかし、その絆はべつの二人によって引き継がれる。「雨」が結びつけた別の命のつながりによって。

 時間を超え、空間を超えた命の連鎖の物語だ。世界につながりのないものなど何もないのだと。


追記

 この作品はメタファーだらけで、そういう意味でジブリの「千と千尋の神隠し」とか「ハウルの動く城」とかと似ていると思うのですが、そういった視点での作品分析をやってしまうと、私自身の「傾向」とでも言うべきものが明らかになってしまいかねないような気がするので、それは止めておきたいと思います。(なんのこったい)
 まあ、一言だけ語ると、「おおかみおとこ」は、全ての人が擬似的な個性を手に入れた結果として、かえって脆弱化した真の個性を象徴しているんでしょうね…。

→ そういう考え方についてはこららが詳しいです。私自身が15年前に書いた物ですが…

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2012年1月30日 (月)

「ぼくらの」

 「ぼくらの」という漫画を読んだ。アニメの方は観てないが、少なくとも原作はなかなか良くできている。

 が、設定もストーリーも少々過激で、ブログ化するかどうかずいぶん悩んだ。(そんなことで悩むなとつっこむべからず。まあ、実名も立場も公開しているブログなので、それなりに気をつかって書いているのだ…)

 私は基本的にお涙頂戴物が嫌いだ。特に登場人物が死ぬ話が嫌いだ。そもそも「死」は、ストーリー、プロットに関わりなく悲しいものに決まっていて、登場人物に感情移入させておきながら、その人物を物語から退場させれば、読者は誰だって喪失感を感じるものだ。つまり、たとえそのストーリーで泣かされたとしても、なんだかその涙は空々しいものと感じる。

 「ぼくらの」という漫画は、ググってみればわかるが基本設定はそういう漫画なので、登場人物が次々退場していく。それなら何でブログ化しているのかというと、その中のいくつかのエピソードが本当に良くできていると思うからだ。単なる喪失の物語に終わっていない。

(ここからネタバレ注意)

 お勧めは単行本の6~7巻のエピソードだ。そのエピソードの登場人物の女の子は、ある事情でピアノを弾くことになる。その演奏の出来いかんによって大勢の人々が命を失うかも知れないという差し迫った状況だ。
 その女の子は、見も知らぬ大勢の人々のために自分の命を賭してピアノを弾こうとする。しかし、演奏する指は鍵盤を走らず、次第に彼女は追い詰められていく。
 しかし、絶望的な状況にありながら、むしろそれ故に彼女はそのすべてを自分の運命として受け入れる。悲しい出来事も、楽しい出来事も、たわいもない日常の風景も、友達も、思い出も、自分の身の回りの全てとのつながりを感じ、その中で生きていることの充実感を得る。ピアノを演奏しながら、自らの弾くピアノの音を聞くことによって現実を明視し、その中で生きている自分の姿に、「多幸」を感じるのだ。

 ここからはおまけ話だが、似たような感覚をどこかで味わったことがあると思い、しばらく考えているうちに本年度のアカデミー作品賞候補にもなっている「ツリー・オブ・ライフ」に思い当たった。
 「ぼくらの」で演奏されているラヴェルのソナチネをiTunesで落として聴いてみたところが、その雰囲気が「ツリー・オブ・ライフ」で印象的に使われているスメタナのモルダウの、主旋律が始まる直前の部分に似ている。木の間からちらちらとこぼれる陽の光のような、川面のさざめきに細かな光が乱れ踊るような…。

 「誰かのため」という生き方は現代においても力を失っていない。しかしこの現代社会においては、その言葉はそれぞれの心の奥の方に沈み込んでしまっていて、本当の力が発現されにくくなっている。
 自分の身の回りをただありのまま見つめること、そんなたわいもないものこそが、眠っていた様々な価値を心の奥から呼び起こすことにつながる、そう思わせてくれる。


追記

 で、また妄想だが、「ツリー・オブ・ライフ」の監督のテレンス・マリックは、「ぼくらの」を読んでいるのではないかと。足かけ5年以上の月日をかけた制作期間の途中で、大幅な脚本変更があったらしい。「ぼくらの」のそのエピソードが書かれた2007年頃はその時期にタイミングが合っているような気がする。ジャパニーズマンガにはそのくらいの影響力がありそうな気がするのだが…^^;

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2012年1月 3日 (火)

世界に視点を与えるもの

 観察者のいない閉じた宇宙の中では、あらゆる慣性系が静止し、加速系でさえもエネルギー保存則の観点からはなにも起きていないに等しい。そんなふうにちょっと前の記事に書いた。(ツイッターだったかな書いたのは…)

 我々は永遠に揺れ続けるだけの宇宙に浮かんだ、チリのようなものかも知れない。だがこのチリは世界に視点を与えるという決定的な働きをする。

 我々が「視点」を世界に与えることで、時間が生まれ、方向が生まれ、関係が生まれる。そして我々は、互いの「視点」をつなぎ合わせることで、認識可能な「現実」を互いに共有し、その中で肩を寄せ合って生きている。だから我々の心は、世界や、他者の心とつながりあっている。つながることが「現実」を創り出し、人の心を創り出している。

 我々の心が世界や他者とつながりあっている点については、ここで断るまでもないだろう。今日の天気、気温、音、声、食べ物、時間、親、友達、そしてこれまでに経験してきた全てのこと。我々の心はそれらの影響を受け、変化しながら揺れ動いている。

 最初に「世界は閉じた宇宙の中で静止している」と書いた。もしこの戯言が戯言ではなかったとしたら、我々の心も宇宙全体という視点では静止しているのだろうか。エネルギー保存則が示すように、心や、それが生み出す我々の行動の一つひとつは、我々を含む「系」全体という視点で見れば、実は何も起きていない幻のようなものなのだろうか?

 もちろん答えは否だ。
 我々の心が世界に「視点」を与えた瞬間に、世界は全体の単純さから局所的な複雑さへと性質を変化させる。我々が世界に与える「視点」が局所的なものであるからこそ、それらの視点は背後に無限の接続可能性を生み出す。つまり我々の心は無限の「自由」を持っている。(と私は信じている)

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2011年4月 2日 (土)

「The Fall 落下の王国」 と「ハウルの動く城」

(ネタバレ注意)

 「ザ・セル」の監督の作品と聞いて、たぶん暗い作品だろうと思い、ずいぶん前に録画したままハードディスクの中で眠らせていた。さらにさわりを観たときの印象で、なんとなく「パンズ・ラビリンス」を連想してしまったため、観るのには心のエネルギーが必要な作品なのかなと思って躊躇していた。「パンズ・ラビリンス」は、後味がかなり悪かったのだ。基本的にはハッピーエンドが好きなのである。

 これは面白かった。すぐに「ハウルの動く城」を思い出した。プロットが同じだなあと。

 人は、誰でも自分なりの物語を持っている。それらの物語は、人がそれぞれ自分の人生を歩んでいく過程で、心の中で無意識のうちに書き綴っていったものだ。
 異なる人生によって書き綴られた異なる物語が出会った時、不思議なことが起きる。それぞれの現実と切り離せないはずの物語が、現実を離れて融合し始め、一つの物語になってしまうのだ。

 ハウルの城には誰も入ることが出来ない。ハウルの城はよく見ると、右心房左心房大動脈その他、リアルな心臓の形をしている。心臓は心の象徴であろう。ハウルは自分の心を要塞化し、誰も入れようとしなかった。そんなハウルの城に、老婆になる呪いをかけられたソフィーが入り込む。二人が共同生活を続ける内に、城の魔法の扉は、少しずつ今までと違う場所へと二人を導き始める。城はまずソフィーの故郷の家につながる。そしてそこからハウルの幼い頃の思い出の場所へとソフィーを誘う。生活を続けるうちに、二人はいつしか共通の敵を相手に戦い始める。自分の心に入り込もうとする真っ黒な他者の幻影と戦い続ける。城の壁は砕け散り、ソフィーから水をかけられ、燃えていたハウルの心臓は丸裸になる。しかしその時失われていたハウルの心が心臓に帰り、ソフィーは若さを取り戻す。

 「落下の王国」の主人公達もそれぞれの物語を持っている。恋に破れて絶望した男と、父親を殺された小さな女の子。男は、自分の現実をモチーフとして、女の子の気に入るような物語を語り始める。それは女の子をだますための物語だった。ところが彼の語る物語は、少しずつ女の子の持っている物語と融合し始める。その結果として、彼は自分の現実を反映した絶望的な結末を語れなくなってしまう。その結末を語ることは、女の子の物語の結末を絶望的なものにすることと同義なのだ。男が結末を語り終えたとき、彼ら二人の現実にも変化が生まれる。

 人と人とのつながりは、それぞれの物語の融合であると、実際時々思うこともある。
 まあどこかの熊の物語は、ちょいとややこしすぎるかも知れないが。

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2011年3月 4日 (金)

「メリー・ポピンズ」と「ルパン三世」の共通性について

 先日、BShiで久しぶりに「メリー・ポピンズ」を観た。子供の頃から大好きだった映画だが、今見ても全く色あせていなかった。

 ラスト近くで、お父さんのバンクス氏が絶望的な状況に追い込まれ、無意識にズボンの右ポケットをまさぐるシーンがある。ポケットから出した右手には、子供達から託された二ペンスが握られている。はっとした表情でそれを見つめるバンクス氏…。

 それを見ていてどこかで見たことのあるシーンだと思い、ふと気がついた。それは子供の頃に映画館で観た「ルパン三世 ルパンVS複製人間(クローン)」のクライマックスシーンだ。(なんだか題名だけ見るととんでもない映画のように感じるだろうが、結構面白いのだ、これが。)

 敵役が操作するレーザー砲の雨あられの中で、ルパンはそれを突破しかね、無意識に右ポケットをまさぐる。何かに指を切られ、手を引っ込めるルパン。それは、五右衛門から託された斬鉄剣のかけらだった。それを唯一の武器にして、敵の待ちかまえる部屋の奥に突入していくルパン…。そういうシーンである。

 そのシーンの持つ物語全体の中での重要性、アングル、役者の表情、すべてそっくりである。

 よく考えると、主演の1人、バートを演じたディック・ヴァン・ダイクの動きは、ルパンや次元大介の動きにそっくりである。ひょろっと長い手足が、リズミカルにダンスを踊る様子なんか、ルパンが走り回る様子そのままだ。

 ここで大胆に仮説を立ててみよう。ルパンの映画第一作の演出家は全員「メリー・ポピンズ」のファンであると。

 いやまあその、人生には遊び心も必要かと。

 

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2011年1月13日 (木)

音楽と言葉(その②)

 (いつもの戯言です。連載小説みたいなものなので、初めてこのブログにたどり着いた方は、「時間意識ダイジェスト」を先にご覧になって下さい。でないと何を言っているのか多分……(^_^;))

 0.3秒の「過去把持」によって、いろいろな考え方が派生的に生まれてくる。

 音楽のコードという考え方も面白い。若い時、へたくそなギターをよくかき鳴らしていた。左手で弦を押さえることで、CだとかFだとかのコードをつくる。それを右手でかき鳴らすことで、調和の取れた響きを創り出す。
 つまり、一定の音の組み合わせが、耳に心地よいハーモニーを生むわけだ。

 さて、コードを構成する音の全てを同時にかき鳴らすとハーモニーが生まれるのはわかるとして、そのコードを構成する音の一つひとつを線状に組み合わせても、美しい旋律が生まれるのはなぜだろう。若い頃これを不思議に思っていた。一つひとつの音はつま弾くと同時に消えていく。響きはある程度脳味噌の中に残っているとはいえ、そのコードに属す一小節なりを弾き終わるまで持続できるとは思えない。それなのに、一定のコードの中で、そのコードに縛られた旋律は、美しく響く。まるで同時にかき鳴らしたかのように。アルページオなんかが一番わかりやすい例だろう。

 「過去把持」という考え方を使うとそれが簡単に説明できる。つまりメロディラインは「過去」に消え去るわけではない。脳の中に擬似的に創られた0.3秒の「時間の幅」の中に、一つひとつの音はその音に反応するニューロン群のハウリングによって、過去把持的にとどまり続ける。そして、色のついたセロファンを一枚ずつ置いていくように、一つひとつの音が脳味噌の中で重なり合って新しい「色」を創り出す。そのコードの小節なりを弾き終わる間に、ストロークによって同時にかき鳴らしたときと変わらない、和音が生まれる。

 音楽の「旋律」と同じように、線状性を特徴とする言葉にも、同様の効果があるのではないか。我々が文を読んだり声に出したりするとき、文を構成する言葉の一つひとつは「過去」に消え去っていくわけではない。おそらくは音楽と同様の装置によって、言葉の響きは心の中にとどまり続け、乱立しながら一つのコードを創り出し、文の意味というハーモニーを我々に伝えている。

追記

 というより、なぜ和音なんてものが存在するのだろう。そんなことにまで興味が湧いてきた…

追追記

 「不思議な少年」という漫画のエピソードの一つに、人類が最も人類らしい営みを生んだ瞬間、というものがあって、それは言葉だろうと思っていたら、漫画の落ちは「歌」だった。ちょっと意外だったのだが、ひょっとしたら自己意識の最初のきっかけは歌だったのかも知れないと、最近は思い直し始めている。

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2010年8月 7日 (土)

創り出すこと、生み出すこと

 コミュニケーションは時として不毛だ。

 筒井康隆さんの作品の中に、次のような表現があったと記憶している。(作品名は忘れた)

 「風には石の心がわからず、石には風の心がわからない。」

 風と石に限らず、どのようにコミュニケーション能力を磨いても、互いに理解し合えないケースというのは存在しうる。それは人それぞれ異なる人生を生き、異なる心の土台を築き上げているからである。
 そして、石や風が互いを理解するために、石は風化し、風は凍り付くしかないというのであれば、それはコミュニケーションとは言えまい。

 しかし、創り出し、生み出すことはできる。

 子供の頃に読んだ萩尾望都さんの『スター・レッド』というSF漫画に、こんなシーンがあった。

 (ネタバレ注意)

 超常的な力を持つ異星人(男)が、ある荒れ果てた惑星で、ヒロインを事故で失ってしまう。ヒロインの心だけが異空間を永遠にさまよい続けることを知った彼は、封印していた自分の力のリミッターを解く。しかしそれは狂気の中で永遠の時を生きることを意味していた。そして時が流れ、いつしか不毛の大地に、水が流れ、草木が生え、年老いた惑星は蘇り始めていた。

 前にも書いたが、少年の私にとって、この展開は物語の「落ち」として納得することが出来なかった。それで何度も何度も繰り返し読んで、本当の落ちを探そうとした記憶がある。
 
 最近私は、子供の頃の自分に影響を与えたものについて時々考える。じじいになったせいか、むなしさしか与えられないように感じた『スター・レッド』の落ちの意味も、ほんの少しわかるような気がしてきた。コミュニケーションは時として不毛だ。しかし、創り出し、生み出すことはできる。たとえ、それがどのような結果を生むかわからなくても。


追記

 というか、萩尾望都さん、『続スター・レッド』を描いて下さい^^;
 

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