カテゴリー「学問・資格」の56件の記事

2013年1月 1日 (火)

やるべきことがあるのはいいことだ!

 あけましておめでとうございます ^^
 というわけで、また今年も始まってしまいました。まあ区切りがあることはよいことです。

 去年の元旦のブログで書いた「計」は、1つだけ達成することができました。まあ、そんなもんだろうなあと最初から思ってはいたので、ある程度予定通りなんですけどね^^;

 今年は大言壮語するのは止めて、実現可能な「計」をいくつか書いてみましょう。(去年同様、仕事関係は真面目にやって当たり前の大前提なので入れていません。)

一、 テニスのポイントを何でもいいから1つゲットする。(県ランキング?)
二、『時間認識という錯覚 -2500年の謎を解く-』を出版する。
三、『時間認識という錯覚 -2500年の謎を解く-』を全文英訳してネットにアップする。
四、修論「自己認識を促す国語教育の研究」をベースにした本を一冊書いて自費出版する。

 いや、十分大言壮語という気もしますが…。

 「一」は私の力では実際微妙なところなんですが、大分のランキングポイントはあれこれ種類があるようなので、そのどれでもいいから1つということです。まあしかし、例えば年齢制限を上げたところで勝てるというわけではないんですけどね。むしろ一般の方が相手次第で奇跡が起きる。

 「二」はせっかく書いたので、本当にやるつもりです。出版不況の時代に出版社さんも冒険なんかしたくないでしょうから、別に自費出版でもかまいません。まあ、あちらやこちらやに連絡してみるつもりです。最初は膨大な量の引用について許可をもらう意味でもあの出版社さんかなあと。あれこれインスピレーションをもらってますし。

 「三」は既にスタートしていますが、ぼちぼちやっていきます。盆栽みたいなもんですよ。アップしちゃあ文章内のキーワードを検索してみるじじい趣味も悪くないかと………。(Googleさん、Yahoo!さんありがとう^^;)。日本語版と英訳版と照らし合わせることができるようになっていますので、「それならこういう訳の方が適切だよ」というご意見等を頂きたく存じます。

 「四」はまあ、せっかく修論を書いてから15年間、あれこれ実践を積み重ねてきましたので、本業の自己研修という意味でも書いてしまうつもりです。「作の巧拙は知らず、とにかく、産を破り心を狂わせてまで自分が生涯それに執着したところのものを、一部なりとも後代に伝えないでは、死んでも死に切れないのだ。」(『山月記』中島敦)という部分も当然ありますが。これは最初から自費出版以外考えていません。

 というわけで、いつもこれをご覧になって下さっている皆さん、今年もよろしくお願いします!

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2010年12月18日 (土)

現象学

 私がこの用語を使うときは、たいていフッサールの現象学のことを指している。これは単にこれしか知らないだけなのだが。

 知っているといっても、著作の全てを読んだというわけではない。竹田青嗣さんの「現象学入門」の助けを借りながら、あれこれ著作をかじってみただけだ。

 「現象学の理念」。これは結構隅から隅まで読んだ。
 「イデーン」。斜め読みした。引用に適当そうな記述を見つけるためだけの読みだった。ごめんなさい。
 「ヨーロッパ諸科学の危機」。これは結構真面目に読んだが、隅から隅までというほどではない。
 「内的時間意識の現象学」。最近読んで、「時間意識戯言」に似ているのでびっくり。

 実際読んでみればわかるが、かなり難解である。「現象学入門」の助け無しではとても歯が立たなかっただろう。わかる部分を拾い読みしながら、わからない部分を想像で補って進んでいくような読みだった。大体哲学関係の本は、日本人が書いた物でさえ難解なのだから、(「善の研究」を青空文庫で読んでみればわかります)、翻訳された本の難解さに至っては暗号を読み解くようなものだ。

 それなのに初めて現象学に触れてから約15年。時間が経つほどに私の心への影響度が増してきているのは、多分フッサールの文章そのものの、難解さの奥にある魅力にあるのだと思う。
 
 読んでみればわかるが、彼の文章には「机」とか「赤(色)」とががよく出てくる。多分彼は、書いている最中に、自分の目の前にあるものを見つめ、それを思索のモチーフとしている。「赤」なんかは多分、机の上にある赤インクか何かを見つめていたのだろう。
 そういったことに象徴されるように、彼の文章は常に自分の「心」が対象であり、どんなに難解な言葉遣いで難解な内容を書いているように見えても、「心」から離れていないために、じっくり読めば理解できるのだ。(そんな気がするだけなのかも知れないが…)。何しろ「心」は誰の中にもあるのだから。

 誰しも納得せざるを得ない、究極の真実。フッサールはそんなものを求めていたらしい。そんなものが本当にあるといいなあ…^^;

 「熊男の住処」内の、現象学関連の記述へのリンクです → ここをクリック

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2010年1月30日 (土)

「科学」と「文学」

 十年以上前に「『自己認識』を促す国語教育の研究」という変な論文を書いていた時、最も気を遣ったのは「いかにして誰しも納得できる論理を提示するか」ということだった。

 私自身は、特に国語教育の先達の手による様々な教育論と比べて、特別変わったことをやっているつもりはない。人の営みの様々な要素に、「自己認識(自己カウンセリング)」が最初から組み込まれていると考えているからだ。
 しかし、それをパラダイムのレベルで検証できれば、より効果的に「自己認識」の効果を発現させることができるとも考えていた。国語教育系の論文でよく出てくる「豊かな感性を育む」などといった視点は、それ自体「真実」であることは疑いのないことであるにしても、むしろそれが「真実」であるが故に、それ以上発展することのない論理上の「水戸黄門の印籠」であると感じていた。つまり、そこで話が終わってしまう。

 それを突破するためには、「1+1=2」のような、誰しも納得でき、なおかつ可塑性を持つ観点が必要だった。私が選んだのが「記号論」と「現象学」だった。
 「記号論」は単に一般社会に認知されているだけでなく、実にスマートな論理構造を持っており、言語という文系的な分野を対象をしながらその視点は科学的でさえある。(というより実際にそれが科学の分野に応用されたのが記号論の始まりだった)。誰に対してもそれが「真実」であることを認めさせる力がある。
 また「記号論」と共通要素を多く持つ「現象学」は、現代文化の様々な分野に直接的な影響を与えていることがはっきりとわかった。カウンセリング系の研究者の論文、そして受容理論とよばれる文芸理論の中にその要素を発見した時、「カウンセリング」と「記号論」と「文芸理論」を、「現象学」で一気につなぎ合わせるというアイディアが生まれた。それが、例の変な論文である。

 数年前、本屋で立ち読みしていた時「脳内現象」という本を見つけた。なにしろ地上波の電波が届かない場所に住んでいたぐらいなので、「茂木健一郎」という名前を私は知らなかった。脳味噌に関することには最初から興味があったので、そのうちの一つでしかなかったのだ。
 ところが、読みながら楽しくなってきた。この人は、「科学」に文系的な分野である「現象学」を持ち込もうとしていると。(その時のことは当時のブログに書いてある。)私は、権威の有る無し、テレビに出ている出ていない等によって、人や思想を評価することはない。純粋に「おもしろい」か「おもしろくない」かだ。

 それ以来、彼の文章をずーっと楽しんで読ませてもらっている。(予定していた教科書教材の授業は流れてしまったが…)。ありとあらゆるものを取り込もうとして「あーでもない、こーでもない」と奮闘なさっている姿から、なんだか元気をもらっている。

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2010年1月17日 (日)

小論文

 文章には、それを書く人の人格が色濃く反映される。

 足りない語彙を一生懸命辞書でも引きながら書くタイプ。(真面目なんだろう)
 語彙が豊富なくせに、シンプルな言葉のみでさらりと書くタイプ。(余裕があるんだろう)
 語彙が豊富だけどわざとシンプルに書いている振りをして、実は語彙が貧困なだけというタイプ。
 (わたしゃこの最後のタイプと自覚している^^;)

 ただ、なにかを読む側に送り届けることが出来る文章の条件は、その文章を書く人が等身大の自分を表現することにあると私は考えている。そういう意味では、どんなタイプだろうが、知識があろうがなかろうが、良い文章は書ける。小論指導とは、そういった「等身大の自分」を生徒が認識するための手助けをすることだとも考えている。

 もちろんそれは簡単なことではなくて、それだから生徒達は「小論文に頻出する『常識』」などを一生懸命頭に詰め込もうとする。心で消化されて「自分」に組み込まれていない知識など、つながりのある言葉になりはしないのに…。

 自分のことなど簡単にわかるはずがない。だからこそ、多くの大学が小論文を入試科目にしているのだろうが…。

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2009年12月27日 (日)

班活動

 この前何かのニュース番組を見ていると、出演者の一人が「現代の若者達の精神的な閉塞状況を打開するためには、教育の分野では昔ながらの班活動が有効だ。」といったような発言をしていた。

 実はちょっと前まで高校では班活動をさせたことがなかった。 5年前に中学に転勤して、どちらかというと研究授業用に慣れない班活動をやってみたのをきっかけに、ごく普通の教材を対象として、ごく普通の発問で授業展開するような際にも班活動を利用するようになった。授業のリズムがちょっと単調になって来たなと感じた時に、「ほい合体!」といった感じで机を移動させるのである。

 高校に帰ってきて、これまた研究授業の準備として実施してみると、想像以上にスムーズである。それで現代文の授業をしている時には2、3時間に1回のぐらいのペースで「合体」させていた。班活動は必ず何かの答えが生まれてくるので、延々挙手を待ったり、「わかりません」の連発で授業が前に進まない、ということがない。だから意外にタイムロスもなく、他の指導者と比べて授業に時間がかかりすぎるということもない。

 よく言われるような、「児童生徒のコミュニケーション能力を培うこと」につながるかどうかまではわからない。大体教育の分野は、特定の教育論なり教育方法なりが有効であるかどうかを検証するのは意外に難しいのだ。(教育に限らずどんな分野でも似たようなものなのではないかとは思うが…。)
 ただ、私自身が肌で感じるものとしては、「班活動は高校でも有効である」とはっきり言える。

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2009年12月17日 (木)

詩の授業

 今日は詩を書いてみよう。ただし、いくつか条件がある。

 最初に世界中のどこにも存在しない言葉の組み合わせを考えてみよう。例えば「炎のつらら」といったような表現だ。

 次にその言葉の組み合わせを元にして、なにかそこにストーリーを付け加えてみよう。でたらめの思いつきでかまわないのだ。

 ところでここからが一番大事なところなのだが、やはり詩を書くからにはなにかテーマが欲しい。自分が表現したいものを最初に決めておく必要がある。テーマは恋でも愛でもなんでもいい。このテーマ決めは詩を書く前にすべきなんだから、これを最初に説明しておくべきだったね。(※実は確信犯)

 「世界中のどこにもない表現」を考える時に、書きたいテーマとイメージがぴったりあうものを、無限の言葉の組み合わせの中から探し出す。スロットマシーンのようにどんどん頭の中で言葉を組み合わせて、偶然書きたいテーマと雰囲気が似た組み合わせの表現が生まれた瞬間を逃さず捕まえるんだ。

 ポイントは、愛でも恋でも、書きたいテーマをああだこうだと説明しようとせず、書きたいテーマと同じ雰囲気を持つ言葉の組み合わせを探すことだ。説明してしまったらそれは普通の文章と変わらなくなってしまう。つまりイメージで勝負するわけだ。

 それから言葉そのものの力に頼るのではなく、言葉の組み合わせで表現しようとすることが大事だ。例えば「涙」という言葉は単体でパワーのある言葉なので、使った瞬間に詩全体が一瞬にして「涙」色に染まってしまう。だから詩に使われる言葉は平凡であればあるほどいいのだ。

 説明しようとせず、同じイメージの表現で詩を作ることのメリットは、日頃人に語ることのできない秘密の思いをそこに込めることが出来る点だ。つまり「だれそれさん大好きだ~。」なんて普通に宣言したら後が大変になってしまうような内容でも、詩にしてしまえば平気でみんなの前でさらけ出すことができる。これはストレス解消になるぞ。

 書いたら私が次の授業までにワープロで打ってくるので、それを読みながら鑑賞会をしよう。

 


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2009年12月 6日 (日)

コンテクスト参照能力

 全国大学国語教育学会で去年と今年と一回ずつ発表させていただいた。その時に実践分析の観点として設定した項目の一つが、この「コンテクスト参照能力」である。
 この言葉は私自身の造語だと思っていたが、ヤフーで検索したらいくつか引っかかった。ただし国立情報学研究所の論文検索では一つしか引っかからないので、一般的な言葉とは言えないようだ。

 コンテクストとはシンプルに言えば、「文脈」ということである。つまり「コンテクスト参照能力」とは「文脈を読み取る力」である。「状況認識力」とも言えるかも知れない。詳細については、「熊男の住処」にアップしてある全国大学の発表資料を参照していただきたい。

 ところで「状況認識力」なとどいった表現をすると、ちょっと前に流行った「KY」という言葉を連想するかも知れない。「KY」自体、その意味があれこれ変わってきているという記事をどこかで読んだが、ここでは元の意味の「空気が読めない」であるとして話を進める。

 結論から言えば「コンテクスト参照能力」と「KY(にならない力)」とは全く別物である。別物であるどころか、正反対の方向性を持っているといってもいい。

 「KY」という言葉に含まれる「空気」は、実際の様々な日常生活の場面においては、特定個人によって意図的に作られることが多い。つまり個人の利害が露骨に作用する。そう考える根拠を以下に示す。
 その場の雰囲気を作り出す「空気」は本来、その場に居合わせた人々の暗黙の共通認識が、心の内側から自然ににじみ出てきたものだろう。おそらく儒教がまだ人の心の中で重要な意味を持っていた時代までは、「思いやり」とか「自分よりも他人のために」とかいった儒教の考え方が、暗黙の了解的に「空気」を作り出していた。
 ところが現代においては、本来儒教が果たしていた部分がすっぽり抜け落ちてしまい、大きな「穴」が生まれている。「穴」は一種の「空所」として働く。人には、未知な物に対して自然にそれに言葉を与えたい、解釈して理解可能な存在にしたいという欲求がある。それぞれの場の「空気」を支配する力を持つ「穴」に対しても、失われた儒教的な思想の代わりに何かを補填したいという無意識的な欲求があるはずだ。その「穴」に埋め込まれたものが、その場の「空気」を支配し、その場に居合わせた人物全ての一時的な行動原理となる。
 そのような構造であれば、「穴」に、特定個人の利害が紛れ込むのはたやすいはずだ。なぜなら我々一人ひとりが、「穴」が補填されること、自らの行動指針を誰かから示してもらうことを、無意識のうちに欲しているからだ。

 もちろんたとえ儒教や宗教等の大きな価値を、構成員が共通認識として持っているような社会であっても、場を支配する「空気」に特定個人の利害が紛れ込むことはあるだろう。しかし、構成員それぞれが共通の認識の土台を持っていれば、それを物差しとして一人ひとりが場の「空気」を支配するものの正体に気づく可能性が高まる。
 しかし、物差しが失われた現代においては、「穴」の存在を認識し、それに補填されるものの正体を見抜く力こそが物差しの代わりとして必要になってくる。状況を正確に認識する力を養うことが出来れば、自然に個々人が何をすべきかも見えてくる。自分のために、そして自分とつながりあった他者のために何をすべきかが見えてくる。前にこのブログでも書いたように、「すべきこと」が大事なのではなく「そういうものだと知ること」が必要なのだ。

 そういった「知る力」こそが、「コンテクスト参照能力」であると考えている。


追記

 妙に気合いが入っているふうになってしまいましたが、特に何があったというわけではありませんので^^;
 ネタ切れ気味なので、自分の研究の内容をちょっといつもと違う角度で語ってみようと思ったわけです。

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2009年10月19日 (月)

第117回全国大学国語教育学会(愛媛)終了

 愛媛で行われた全国大学国語教育学会で発表してきました。厳しい意見もたくさんいただきましたが、おかげで多くの収穫を得ることができました。

全国大学国語教育学会の発表資料はこちら

 発表の時に予告したように、近いうちに続きを書きます。次は「メタ認知」をテーマにした文章になりそうです。


追記

 質問者のお一人から、「『キーワード探し』は福岡で流行っている。」 と聞きました。それは私にとってなかなか愉快な情報です^^

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2009年9月22日 (火)

『一房の葡萄』を教材とした道徳指導案(中学1~3年)

 4年前になぜか私が書いて、全校で一斉に実施してもらった道徳の授業の指導案をアップしました。(前にこれの話題を記事にしたら、検索して洞穴日記にたどり着く人が時々いるので。興味のある方はご覧になって下さい。)

 → 「一房の葡萄」の道徳指導案はこちら

 シナリオ「イフ」は、カウンセリングの「受容」をベースにした解釈です。

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2009年8月28日 (金)

「記号論的言語観に基づく読解指導の研究(その2)」要旨アップ

 題名のような文章を拙宅「熊男の住処」にアップしました。

要旨はこちら

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